《四》
幸に見送られて部屋に入り、メイクを落として部屋着に着替えた。万里は自分が思っていた以上に疲れていたようで、少しだけとベッドに横になった途端、そこから記憶がぷっつりと途切れている。
気がついたら、カーテン越しにうっすらと日の光を感じられる時間だった。
あまりの出来事に万里は慌てて飛び起き、壁に掛かった時計を見ると、六時前と示していた。
幸と別れたのが何時だったのかはっきりと覚えていないが、夕食にはまだ早い時間だったというのだけは分かっている。
まさかそんなに寝てしまうとは思わず、苦笑してしまう。
しかし、しっかりと眠ったことで疲れはすっかり取れているようだった。
大きく伸びをして、ベッドから降りる。布団を整えると洗面所に行き、顔を洗った。
昨日はあのまま眠ってしまったため、風呂に入っていない。この時間ならまだ風呂は使えるはずだ。日比谷家には万里のように住み込みで働いているという人が何人かいて、そのうちの何人かは朝風呂に入る人がいるという。万里は急いで支度をして、風呂場に向かった。
手早く入り、すっきりした。今日は幸が買い物に行くと言っていたが、結局、いつもと代わり映えのないパンツスーツを着た。
食堂に向かい、朝食を食べる。昨日は夕食を逃してしまったので、とてもお腹が空いていた。
食べ終わり、いつもなら少し余裕があるものの、風呂に入ったために休む間もなく、幸を起こしに部屋へと戻る。
いつもなら何度も扉を叩かないと起きない幸が、万里がくるのを待ち構えていたかのようにすぐに扉が開かれた。
「おはよう、万里。よく眠れた?」
しかも、すでに着替えている。万里は驚き、挨拶も忘れて幸の顔をじっと見つめた。
「万里? ……あの、あたし、どこか変、かしら?」
そう言われ、万里は幸の服装に目を向ける。
黒い艶やかな髪は背中に綺麗に垂らしていて、幸が動くごとにさらさらと揺れている。癖のないその髪を少しだけ羨ましく思う。
服は幸によく似合う、ピンク色のワンピース。ストッキングに、ワンピースとおそろいのローヒールを履いていた。
「……おはよう、ございます。いえ、いつも通り、かわいらしいですよ」
ふわふわなピンクの綿菓子みたいな幸に、万里は目を細める。
「それならいいんだけど……。で、万里! お出かけするって言ったのに、あなたはどーしていつもと同じ恰好なのっ!」
幸は腰に手をあて、下から睨み付けられた。
「あ……いえ。これならどこに行っても失礼がないかな……と」
「ありまくりよ! あたしが嫌なのっ!」
幸はそういうと、万里の着ているジャケットのボタンに手を掛け、あっという間に外してさっと脱がせてしまった。
「幸さんっ!」
「今日はスーツ、禁止っ!」
と言われても、持っている服はそれほどない。
「それよりも、幸さん。朝食は……」
「もうとっくに食べたわよっ!」
ちらりと部屋の中に視線を向けると、食べ終わった食器がテーブルの上に乗っているのが見えた。
「もーっ! だめだめっ! 万里が嫌って言っても、今日はかわいい服を買うわよっ!」
なんだかよく分からないが、幸はそう宣言すると腕を絡め取られ、万里の部屋へと突撃した。
「クローゼットはここよね?」
「……はい」
自分の部屋のはずなのに、なんだか肩身が狭い。万里は部屋の隅に小さくなっていた。
幸は遠慮することなく部屋に入ってクローゼットを開けた。
「信じらんないっ!」
中を見て、幸は悲鳴のような声を上げた。
クローゼットの中には、似たような黒いスーツばかりが並んでいる。
「他に服は?」
「あの……そこに」
幸に圧倒され、万里はおずおずと服の場所を告げる。
幸は眉を上げ、万里の告げた場所を探し始めた。
「スカートはないのっ?」
「ありません」
「どうしてっ!」
「スカートは苦手なんです」
幸は万里の答えに不満顔のまま、服を漁り始めた。万里はスーツのままでも問題ないのにと思ってはいるものの、黙って見ている。
「それにしても、どうしてこんなに地味な服ばっかりなのよっ! 背が高いんだから、それを生かした服を着たらいいのにっ!」
言われてみれば、幸が着ているようなピンクや黄色といったかわいらしい色の服を一着も持っていない。何度か着てみようと試着をしてみるのだが、どうにも似合わないように感じてしまい、店員が似合っていると言うのを聞かず、買うのを止めたことが幾度かある。
「これと……これっ!」
それでも、幸はくじけることなく万里の服を探し当てたようだ。
「中にはこれでしょ」
と茶色のタートルネックを出してきた。その上には茶色のニット。下は黒の細身のチノパン。
「はい、着替えてっ!」
「しかし……」
「せっかく少し遠出をしてのお買い物なのにっ!」
買い物というから、いつも行く百貨店だと思っていた万里は驚き、幸をじっと見つめた。
「昨日、お夕飯の時、偶然、お兄さまと出会ったの」
帝が夕食時にここにいるのは珍しいのではないだろうか。仕事が忙しいため、会社で摂ることが多い。
「久しぶりにお兄さまと一緒にお食事をしたけど、あの人は口うるさすぎだと思うわ。奥さまになる方、大変だと思うのよね」
帝の口うるささは妹かわいさのためだと思うのだが、幸にしてみればうっとうしくて仕方がないのだろう。
「あたしは大和さまのことをあまりにも知らないから、まずは彼を知ることから始めてはどうだってお兄さまに言われたの」
それは一理あるので、万里はうなずいた。
「まあ! 万里まで同意するの?」
「はい。私も大和さまがどういった方なのかはっきりは存じませんが、帝さまのご親友というくらいの方ですから、世間の噂ほど酷い方とは思えないのです」
なんだか大和の肩を持ちすぎているような気がしたが、幸と大和の縁談が上手くいくようにするのがきっと、今の万里の仕事なのだ。帝はなにも言わないが、万里にその役割を期待している。
そう思うとまたもや胸の痛みを感じたが、気がつかないフリをして、幸を見た。
「……万里がそう言うのなら、そうかもしれないけど」
不満そうな幸の表情に、万里は微笑んだ。
「たとえが変ですが、今の幸さんは『食わず嫌い』ですよ」
「食わず嫌い……?」
「食べたことがないけど、見た目で嫌だとか、美味しくなかったという話を聞いたから嫌だと、敬遠している状態ですよ」
「でも……意地悪されたのよ?」
幸は少し肩を落とし、上目遣いに万里を見る。
「ですからそれは、大和さまが幸さんのことが好きで、ちょっと意地悪をしたくなっただけですよ」
幸と大和は幼い頃に会ったきりだということだから、その推理はあながち間違っていないような気がする。
「……それに、大和さまには長年の想い人が」
「それは、ご本人から聞いたお話なのですか?」
「……違うわ。噂よ」
もしかしたら、と万里は思わず邪推してしまう。
日比谷家と鹿鳴館家の二つが結びつくと困るだれかが、幸にそういった悪い情報だけを流しているのではないだろうか。
その人物がだれだとか、どこの人間かは万里には分からない。
「確認もしていないそんなたかが噂を鵜呑みにされるのですか、幸さんは」
「……でも」
「確認できない立場ならまだしも、幸さんはご本人に会うことも出来ますし、しようと思えば帝さまにでも確認は出来ますよね? そんな無責任な噂話を信じてしまうのですか?」
少しきつい物言いになったかと思ったが、幸は少し俯き、万里から言われたことを咀嚼してから、顔を上げた。
「……うん、そうね! 万里の言うとおりだわ! 幼い頃のイメージが強すぎて、そうよね、お兄さまも大和さまは素敵だっておっしゃってましたし!」
前向きにとらえてくれるようになった幸にほっとするものの、妙な淋しさと痛みを覚えるのはなんでだろうか。
「じゃ、万里はこれに着替えて! あたし、部屋に戻って準備をしてくるからっ!」
「はい」
着替えるのは乗り気ではなかったけど、幸が選んでくれた服だ。着ていかないわけにもいかないだろう。それこそ、機嫌を損ねられても困る。
幸は弾む足取りで部屋を出て行った。
万里は渋々、着ていたスーツを脱ぎ、私服へと着替えたのだった。