『偽りは舞う』


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《三》



 万里の部屋は、幸の隣にあてがわれていた。
 主のいない幸の部屋の扉に視線を向け、無意識のうちにため息をついていた。
 数時間前、この扉を叩いて幸に出てくるように説得していた万里。なんだかあの時と気持ちがまったく違っていて、万里は激しく戸惑った。
 幸の部屋の扉から意識的に意識をそらせ、万里は自室へと足を運ぶ。
 万里の部屋は幸と同じ大きさで、入る度に待遇の良さに未だに慣れることがない。
 部屋の中は、作り付けのダブルベッドと窓際に置かれた物書きが少し出来る机。それとクローゼット。どれも万里が使ったことがないほど立派な造りのものだった。
 部屋に入り、ジャケットを脱いで椅子の背に掛ける。
 日比谷家というのは、なんでも江戸時代から続く家柄ということだった。日比谷家の先祖は商売を連綿と営んでいたため、昔から裕福だったようだ。今、万里が寝泊まりさせてもらっているこのお屋敷も明治初期に建てたものらしく、あの頃の時代をよく象徴した華々しい外壁と煌びやかな内装に思わずうっとりと見とれてしまう。
 幸にしてみれば、ただの古くさい華美な建物だと言うが、万里はここが大好きだった。
 それに、日比谷家の人たちもみんな優しく、万里は自分はとても恵まれているといつも思うのだった。
 今日だって本当だったら、帝からこっぴどく叱られ、解雇されてしまっても不思議はないことだった。
 幸の代理で断りに行くまではどうにか許される範囲……だっただろう。万里が付いていながら、幸にすっぽかさせる方がよほど問題になるだろうから。
 その後がまずかった。
 万里がいくら幸ではないと言っても聞き入れてくれなかったが、別に拘束されていたわけでも、鍵を掛けられて出られない状況だったわけでもなかったのだ。スタッフがあそこまで聞く耳を持たなかったのはきっと、帝が嫌がっていた幸に逃げられないために、どうあっても逃がさないように言っていたのも原因ではあるのだろう。
 それでも、違うと言って逃げることは簡単にできたはずだ。それをやらなかったのは、幸用にと用意されていた振り袖を着てみたいと、心の片隅に思ってしまったせいだろう。
 万里だって、女性だ。別にオシャレに興味がないわけではない。しかし、着飾ったところで似合わないわけだし、ましてや、今の仕事をしている限り、幸より目立つ恰好をするのはよくないと分かっている。でも、誘惑には勝てなかった。
 そして結果として、まるで幸になりすましたかのような状況になってしまった。
 相手方は幸のことを知っているから、万里がなりすましているというのはわかりきっていただろう。さぞかし滑稽に見えたに違いない。
 だが、改めて考えてみると、相手方にとてつもない失礼をやってしまったのではないか、と思い始めた。
 いくら帝と大和が親友同士とはいえ、これはとんでもない問題なのではないか。
 ようやく落ち着いて今日の出来事を振り返ることが出来るようになった万里はそこに考えが至り、帝に改めてお詫びをしにいかなくてはならないということに気がついてしまった。
 部屋に戻って、のんびりとくつろいでいる場合ではない。
 万里は椅子に掛けたジャケットを羽織りなおし、壁の鏡をのぞいて化粧を確認した。
 少しばかり青白い、精細に欠けた顔が写っている。特に美人ではない、平凡な顔。薄い唇と癖毛なのが気に入らないが、それも些細なことだ。
 少し伸びてきた前髪を払いのけ、口紅が取れていないことを確認すると万里は頬をぱちんとはたき、気合を入れて部屋を出た。

「あら、万里」

 部屋を出たところで、帝の部屋から戻ってきた幸にばったりと出会った。

「幸さん、私、今から帝さまに謝ってこようと思うんです」
「お兄さまに? どうして?」

 不思議そうに首をかしげている幸に、万里は説明する。

「私がはっきりとした態度を取らなかったばかりに、先方に変な誤解を与えてしまったような気がしまして……」
「変な誤解って?」
「その……」

 万里はそんなつもりはなかったのだが、鹿鳴館家側から見たら、万里は幸に成り代わって大和に取り入ろうとしている女に映ったかもしれない。
 しかし、それを幸に説明するのはなんとなく恥ずかしい。まるで万里が幸を羨んでいるかのように聞こえないだろうか。
 そう思うと、万里は口にできなくなってしまった。

「お兄さまなら、もう怒っていらっしゃらないわ。それに、あたしが全部、悪いんだもの」

 あれから帝と幸がどんな会話を交わしたのかは分からない。しかし、あれほど嫌だと言い張っていた幸とは思えないほど、悪かったと言い切っているところをみると、考えを改めたのだろうか。

「ね、それよりも万里」
「はい、なんでしょうか」

 幸はくりくりと目を瞬かせて万里を見上げ、左腕にもたれかかってきた。

「万里は今日、大和さまとお会いしたんでしょう。話を聞かせて?」

 帝からなにを言われたのだろうか。急に興味を持ったことに驚くと同時に、次回のお見合いという名の顔合わせはごねずに行ってくれそうだとほっと安堵した。

「あたしの部屋で、話を聞かせてちょうだい」
「はい」

 手を引かれ、万里は幸の部屋へと訪れた。

「幸さん、なにか飲まれますか?」
「んー、お茶がいいわ」
「かしこまりました」

 万里は部屋の奥に用意しているワゴンに乗っている電気ポットから急須にお湯を注ぎ、お茶を入れる。幸は椅子に腰かけ、ふうっと息を吐いていた。
 幸の部屋は万里の部屋と違い、女の子らしいふんわりとした空気が漂っていた。シーツやカーテンが淡いピンクで統一されているのが一番の大きな要因なのだろう。万里の部屋は最初に用意されていたままでいじっていない。無機質な白いシーツにベージュのカーテン。何度も幸に模様替えしましょうと言われているが、充分すぎるので断っている。

「お兄さまにもっと怒られると思っていたの」

 万里がトレイにお茶を乗せて戻ってくるのを確認して、幸は口を開いた。

「幸さんは帝さまに怒られたかったのですか?」
「違うわよ。お兄さまを怒らせたら怖いから、あたしだって嫌よ。でも、それよりもっと、今日のお見合いはお兄さまに怒られても行きたくないほど嫌だったの」

 テーブルを拭き、トレイからカップを置くと幸が待ってましたと言わんばかりにすぐに手に取った。

「熱いですから気を付けてくださいね」
「もうっ、わかってるわよっ。子どもじゃないんだから」

 拗ねたような幸の言葉に、万里はくすりと笑みを洩らす。
 幸はふうふうと息を吹きかけ、冷ましている。

「お兄さまと大和さまは小さい頃から仲がいいの。日比谷と鹿鳴館は仲が悪いって言われているけど、そんなことないのよ? 今日のお見合いだって、本当はする必要がないものだったの」
「……と、申しますと?」

 幸の言いたいことがまったく見当がつかず、今度は万里が首をかしげた。

「世間的に、日比谷と鹿鳴館は仲がいいんですよっていうポーズだったんですって」

 ますますわけが分からず、万里は眉間にしわを寄せた。

「分からない?」
「……はい」

 万里の正直な返事に、幸は嫌がる様子を見せず、さらに説明をしてくれた。

「あたしは知らないんだけど、日比谷と鹿鳴館って昔はとっても仲が悪かったんですって」
「……のようですね。私は噂でしか知りませんが」
「あたしも知らないわ。だってお兄さまと大和さまは親友ですもの。それで仲が悪いなんて言われても、まったく説得力がありませんもの」

 くすくすと笑い、幸はゆっくりとお茶を口にした。

「お父さまが生前、鹿鳴館家といがみ合っていたら生き残れないから仲良くやりましょうって提案をしたんですって」

 幸は誇らしげな笑みを浮かべている。

「それでお父さま、鹿鳴館家と約束をされたみたいなの」
「約束……ですか」
「日比谷家と鹿鳴館家が仲良くするための取り決めっていうのかしら」

 そこで幸は困ったように片眉を上げ、お茶を口に含んだ。口を湿らせて話しやすくしたものの、なにかをためらい、また、カップを傾ける。先ほどまでの饒舌さが嘘のようだが、言いにくいことなのかもしれない。
 なかなか話し出そうとしない幸を、万里は根気よく待った。
 幸のカップが空になったことを察した万里は無言で立ち上がったが、幸に止められた。

「ごめんなさい。お父さまのことはとても尊敬しているし、鹿鳴館家と仲良くすることにあたしも異存はないの。だけどね」

 幸はなにかを吹っ切るかのようにして息を吸い込み、吐き出すと同時に口にする。

「だからって、娘が生まれたら嫁がせるって約束、本人不在でしないでよっ!」

 ため込んでいた思いを吐き出し、幸は少し、すっきりしたようだ。

「だから、あたしはどう足掻いても、あの意地悪な大和さまと結婚をしないといけないの」

 なるほど、帝が幸だけを部屋に残して話をしたのはそれだったのかと合点がいった。
 幸は空になったカップを傾け、なにも入っていないことを思い出し、少し照れたような表情を浮かべた。

「お代わりをお持ちしましょうか?」
「……そうね、お願いするわ」

 幸からカップを受け取り、万里はお代わりの準備を始めた。

「大和さまももちろん、そのことに関してはご承知されていると思うわ。大和さまは産まれた時から、婚約者だったの」

 大和は幸の婚約者……。
 万里はその言葉に、なぜか心がずきりと痛むことに気がついた。

「それでね……って、万里っ?」

 ワゴンの前で呆然として胸を押さえている万里を見て、幸は慌てた。椅子から立ち上がり、万里の側に駆け寄ってきた。ふんわりと花の香りが万里の鼻腔をくすぐる。

「ごめんなさい、あたしのせいね。無理言って断りに行かせてしまったから……」
「いえ……大丈夫ですよ」

 幸を心配させないようにと必死に笑みを浮かべようとするのだが、それは失敗に終わった。頬が引きつり、上手く笑みの形にならない。

「顔色も悪いし……やっぱり万里、休んでちょうだい。無理言って話を聞かせてなんて言って、ごめんなさい。また今度、万里の体調が良くなったら聞かせてね?」
「私は……」
「だぁーめっ。万里はすぐに無理しちゃうんだから! 今日は本当にごめんなさい。もうあんなわがままは言わないから」

 幸は万里の手を取り、部屋の外へと誘った。

「お夕飯は部屋に運ばせるから、万里の今日のお仕事はこれでおしまい!」
「しかし!」
「なぁに? 雇い主に逆らうっていうの?」

 そう言って目をすがめると、帝にそっくりになる。ああ、兄妹なんだなと万里はいつも思う。
 使用人の一人でしかない自分に対してここまで気を遣ってくれる幸に、万里は申し訳なく思う。

「とにかく、今日は万里にはいつも以上に働いてもらったから、お休みしても大丈夫なの! その代わり、明日はお買い物に付き合ってね?」

 下から顔をのぞき込むようにそう言われたら、万里も嫌だとは言えない。
 だから引きつる顔の筋肉を必死に動かして、笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて……」
「もー、堅苦しいわね。もっと肩の力を抜いて?」

 と言われても、こればかりはもう、性格と言うしかなく、今更簡単に直せる部分でもない。それでも当初に比べれば、ずいぶんとフランクになった、と万里は思っている。

「それじゃあ、明日を楽しみにしてるわね」
「……はい。それではかなり早いですが、お休みなさい」
「おやすみ」

 幸はくすくすと笑い声を上げ、万里が部屋に入るまで見届けた。







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