五
わたしと瀬戸丸志信(せとまる しのぶ)の出会いは、ちょっとだけ特殊だと思う。
世界に絶望した……というと少しチューニビョーとやらっぽいかしら?
だけど、あの時のわたしの心境を表すには、この言葉以外は思いつかないって感じで。
別に家族仲が悪いとか、いじめに遭っていたというわけではないんだけど……。
とにかく。
ただただ、人恋しかったのだ。
だからわたしは家を抜け出て、人の多いところへとやってきた。
そうすれば、わたしはこの世界にたった一人残された生存者的な気持ちから少しでも抜け出せるかと思ったのだけど逆効果で、よけいに孤独感が強くなっただけだった。
──わたしの周りには人がたくさんいる。だけどそれはやっぱり気配だけだった。
わたしの知った気配はひとつもない。
ここには知らない他人ばかり。
たまにこちらに視線が向くことはあったけど、わたしの視線を感じるとやっかいごとに関わりたくないって表情をして視線を逸らしていく。
その中で志信は心配そうに声を掛けてきてくれた。
『捨てられた子猫みたいだな』
って言われたときには意味が分からなくて、きょとんと真っ直ぐと顔を見つめてしまった。
あ、この人、左目の下にほくろがある。
──最初の印象はそこだった。
切れ長の目の下にあるほくろは、妙に色っぽいというか、艶があるというか。
男の人相手にこんなことを言うと怒られるかもしれないけど、そのほくろのせいなのか、すごく婀娜(あだ)っぽい、危うい感じの人だと思った。
年の頃は二十代後半くらいだろうか。
スーツを着ていて、少し疲れた表情をしていたけど、わたしを見つめる瞳がひどく優しかった。
──あ、この人だ。
一目見て、わたしは直感した。
この人なら、大丈夫って。
だから付いてくるようにと言われて、素直に従った。
温かいシャワーを浴びさせてくれて、スープまで用意してくれて。
やっぱりこの人はいい人だって思ったら安堵して、信じられないほどの睡魔に襲われた。
本当はそんなつもりはなかったのに、しかもベッドまで借りてしまって、わたしはそのまま眠ってしまった。
朝、目が覚めると、志信──そのときは名前を知らない、親切な男の人だったけど──は気持ちよさそうに寝ていたから起こすのは忍びなくて、少し漁らせてもらって出てきた紙に、お礼と連絡先を書いて、そっと出た。
わたしが『運命』を感じたように、あの人も同じように感じたに違いない──って思っていたのに。
待てど暮らせど、連絡は来なかった。
おかしくない?
どーして?
だからわたしは金曜日の夜、あの人に会った駅へと向かった。
粘り強く待っていると、ようやく見覚えのある人が改札に向かってきた。
いい男かと言われたら、そうなのかもしれない。
だけどわたしの基準は母代わりの喜代さんいわく『ずれている』らしいから分からない。
近づいてくる姿をどきどきしながら見ていたんだけど。
えっ? スルーですかっ?
わたしのこと、気が付いていないのっ?
こっちは一目ですぐに分かったのに。
すれ違うときに左目の下にあるほくろはやはり健在でどきりと胸が高鳴ったのにっ。
「まっ、待ってくださいっ!」
わたしは必死の思いで、彼のスーツの袖を掴んだ。
それなのにっ!
間に合ってますだとか、別の人に声を掛けてくださいってタニンギョーギなことを言うものだから、困ってしまった。
雨の日に拾われたんですって伝えたら、分かってもらえたみたいだけど……。
顔を見て、お礼を伝えたら帰るつもりだったのに、なぜかまた、おうちにお邪魔することに。
泊まるつもりなんてなかったから、準備もしてないんだけど、いいのかなあ。
でも、なんとなく帰りますって言えなかった。
だって、このまま帰ってしまったら、この人との縁が切れてしまうんだろうなって分かって。
身の危険ってのは特には感じなかった。
この人とそんな関係になってもいいと思ったし、なんとなくだけど、すごくわたしのことを考えてくれてるってのがよく分かったから。
鈍いとよく言われるけど、そういうのは分かってるって思っていたし、もしもそんな気があるのなら、前に部屋に行ったときに襲われてるよね!
前が無事だったから、今度も大丈夫って甘い?
そうかもしれないけど、わたしはこの人と縁が出来るのならそれでもいいって思っていた。
わたしにはきちんと家もあるし、そこには自分の部屋もあったけど、なんだか自分の居場所とは思えなくて。
いくら長い時間を過ごしても、何度、そこで寝起きしようとも馴染めなかった。
借りてきている場所って気がずっとしてた。
だけど志信のそばにいると、なんだかそこが昔からある自分の居場所のような気がして、気がついたらわたしは自分の心を落ち着かせるために、志信の都合なんて考えないで押し掛けていた。
だけど志信は、少し困った顔をしつつも、わたしを受け入れてくれた。
それに志信は、わたしに合い鍵も渡してくれていた。
それって志信が、わたしのことを信頼してくれている証だよね?
わたし、自惚れてもいいのかな?
そう思っていた。
──あの日まで。
いつもと変わらないはずの土曜日。
雲一つない、晴れた日。
木曜日に珍しく志信から連絡があって、金曜日は都合が悪いから来るのは土曜日にしてと言われて。
素直に分かったと言って、電話(スマホ)を切った。
それなのに。
「……どうして?」
通い慣れた道を歩いてやってきて、鍵を開けると中は前からなにもなかったかのようにきれいさっぱり消えていた。
「な……に、どーいうこと?」
だって志信、電話を切るときに土曜日に会おうって。
あれは嘘だったの?
初めて交わした約束は、嘘だったの?
部屋を間違うはずない。
だって部屋が違っていたら鍵が開かないはずだもん。
そうだ。
電話してみよう!
わたしはカバンからスマホを取り出し、着信履歴から志信にかけたけれど。
『おかけになった電話番号は現在、使われていません』
う……そ。
そんなの嘘だ。
だって、木曜日には通じたんだよ?
茫然自失で玄関ドアを開きっぱなしで突っ立っていたら、ドアをノックされた。
「お嬢ちゃん、どこから入ったの?」
「え……と」
「今からここ、クリーニングするから、ほら、出て行って」
と追い出されそうになったから必死になってとりすがった。
「あっ、あのっ! ここに住んでいた人はっ」
「さあ? 引っ越したんだろ? だからオレたち、依頼されてクリーニングに来たんだけど」
「ほらほら、嬢ちゃん、どいて」
そうしてどやどやと見知らぬ男の人が何人か部屋に入って、わたしは閉め出されてしまった。
引っ越した?
志信が?
だってなんにも言ってなかったよ?
わたしに内緒で引っ越したの?
ねえ志信。
わたしの存在は──志信にとって迷惑だったの?
わたしに引っ越すことを内緒にしていなくなってしまいたいほど、わたしのこと、嫌い、だったの?
志信のそばはわたしの居場所だと思っていた。
志信もわたしのことを拒否していなかったから同じように思っていてくれていると勝手に思っていた。
それなのに──。
わたしの一方的な想いで、志信は違っていた。
あまりのできごとに涙も出ない。
悲しいなんて気持ちを通り越して、世界が凍り付いてしまったようにしか思えない。
志信から連絡が来るかもしれない。
そんな一縷の望みにわたしはかけた。
そして時というのは無情にも流れていく。
四月になれば大学生になり、目の前を通り過ぎていくことを機械的にこなして。
無為に時間が経っていくだけ。
志信が突然、わたしの前から姿を消して一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎて。
四年目になってようやくいつまでも甘えていられないことに気がついた。
そうしてわたしは就職活動をして、どうにか内定をもらうことができた。
スーツを着た男の人を見る度に思い出す。
疲れているようだったけど、優しそうに笑う志信のことを。
あんなに優しそうな笑みを浮かべる人が、わたしにさよならも言わないで消えるなんてあり得ない。
だからきっと、なにか理由があったんだ。
ようやくそう思えるようになった。
もう四年も経ったのだから忘れてしまおう。
自分にそう言い聞かせたけれど、だけど志信のことが忘れられない。
わたしの居場所は志信のそばにしかないと思っているから。
だからお願い。
帰ってきて。
あなたの隣にとは言わないから、わたしをそばにおいてほしいの。