四
金曜日の前日。ようするに、木曜日の仕事が終わった後のことだ。
最寄り駅の改札を出たところで、見知らぬ男に声を掛けられた。
「あなたが瀬戸丸志信(せとまる しのぶ)さんですね」
と。
そうだと答えると、ノエルの兄ですが、少しお話がありますと続いた。
ノエルの保護者がそのうち現れるだろうなと思っていたからそのことには特に驚かなかったが、夜にも関わらずにサングラスをかけているのはどうなのかと思った。
男に導かれるままについて行くと、ワゴン車が止まっていた。
乗るように促されたので俺は内心、びくつきながら、素直に従った。
夜の静かな駐車場だからか、ばたんと閉められた扉の音が思ったよりも大きく聞こえ、びくりと肩を揺らすと、サングラスの男は小さく肩を揺らした。
どうやら笑われているようだと気が付いたのは、サングラスを外して目元を拭っているのを見たときだった。……なにも涙が出るほど笑うことはないのではないだろうか。
「ご挨拶が遅れてしまい、大変失礼しました」
まだ肩を揺らしているものの、サングラスを外した男は俺を真っ直ぐに見つめ……って?
「え……、あ、っと?」
「わたくし、静井ノエルの兄で静井玲央(しずい れお)と申します」
って!
ちょっと待て。この顔、見覚えがあるぞ。
「えっ……? え、もしかしなくても、モデルのレオ?」
「はい、そうです」
というあっさりとした肯定に、言葉が出てこない。
「仕事が忙しくて、なかなか時間がとれずに挨拶が遅れました」
え……えええっ?
ノエルのお兄さんがモデルのレオだって?
ノエルとは決して短くない時間をともに過ごしてきた。だけど彼女の口からは一切、家族のことは聞いたことはない。だけど語らないということは、語れない、あるいは語りたくないなにかがあるということだと思っていたが……。
兄が俺でも知っているモデルとなると、ノエルの性格を鑑みて、話せないというか、どう話せばいいのか分からない、というのが正直なところか?
いや……それにしても、やはり芸能人ってのは一般人とはなにかが違うようで、威圧感というか、オーラというか、なんだか一緒の空間にいて本当にすみませんと言って逃げたくなるなにかを持っている。
かなりパニックになっているところに、ガラスをとんとんと叩く音が。
「失礼」
と言ってレオがドアを開けたところには、これまた見覚えのある顔が。
「ああ、もう来ていたのか」
そう言って車に乗り込んできたのは、歌手であり俳優でもある片桐秀哉(かたぎり しゅうや)。
「もう一人のノエルの兄、静井賢人(しずい けんと)です」
「え……あ、っと、そのっ」
「この度はノエルが色々とあなたにご迷惑をお掛けしていると聞き、遅くなりましたがご挨拶にうかがいました。夜分に不躾に引き留めて、すみません」
そう言いながら、秀哉は車に乗り込んで、ばたんとドアを閉めた。
なんだろう。
俺の人生、詰んだ?
怖いよ!
こんなきらっきらした二人とこんな狭い空間に一緒にいて、同じ空気を吸ってるなんて。
ファンに知られたら、確実に殺される……!
あわあわと内心で焦りつつ、俺は表面的には何でもないかのように必死になって取り繕っていた。
いや、しかし。
なんとなくノエルの育った環境は特殊なのではないかと思っていたのだが……。
兄二人が芸能人とは。
「って? えっ? お二人、ご兄弟だったんですかっ?」
なにを今更なつっこみをあえてさせてほしい!
芸能界事情なんて詳しくないけど、この二人って兄弟だったのかっ?
「まあ、あなたですから今更ですけどね」
「別に隠してるわけでもないし」
「母があんなだから……ねえ?」
ときらきらオーラを放つ二人は意味深に顔を見合わせた。
えっ? まだなにか爆弾でも?
「母はあなたでも知っていると思いますが、上善千種(じょうぜん ちぐさ)なんですよ。ただ、父がそれぞれ違うというか」
なっ、なんだって? それって特大の爆弾ではないかっ!
「ノエルのことだから、やっぱりまったく話をしてなかったのか」
「口振りからしてそんな感じではあったけど」
ノエルとこの二人の兄の関係は良好だということが分かって安心はしたけれど、しかし、ノエルはこの二人に俺のことをどう話をしているんだ?
「さらにノエルには姉がいるなんて話をしたら、パンクするかな?」
「雪ノ下真夜子(ゆきのした まよこ)が姉なんだけど」
「おれからすれば、どっちもかわいい妹なんだけどな」
雪ノ下真夜子といえば、俺が好きな女優さんではないかっ!
ちょっとこれ、どうなってるの?
……………………。
すみません、脳味噌フリーズさせてもいいですか?
「かなり特殊な事情があってさ」
「おれたちとしても大切な妹を任せるに値するのかってのも調査させてもらったりして、挨拶が遅れてしまったわけですよ」
調査……ですか。
「でまあ、君にならノエルを任せられるかなと思ったわけだ」
きらきらの二人の視線を受け、俺はその場にひれ伏したくなったけれど、ぐっと耐えた。
「こ……こちらこそ、その、こんなおっさんで、その……すみませんっ」
モデルと俳優の二人に値踏みされるような視線を向けられて、とにかく、落ち着かない。
「たっ、大切な妹さんはお預かりしているだけでしてっ、て、手は出してませんからっ」
ああ、俺はなにを言い訳しているんだ。
「それはノエルからも聞いている」
「かわいい妹にとっとと手を掛ける男もどうかと思うが」
「短くない間、二人っきりでも手を出さないのもどうかと」
両サイドからそう言われ、俺はぐうの音も出ない。なにも言わない俺に、いい男二人はさらに追い打ちをかけてくれた。
「ノエルは君のことを気に入っているし、君は真面目にノエルのことを考えてくれているみたいだし?」
「君の気持ち次第かな、あとは」
「そうだね。……だけど、ノエルを泣かせるようなことをしたら」
「分かってるよね?」
ときれいな顔でにっこりと凄まれると、怖いですって。
そして、ノエルの兄である二人に色々と言われ、遅くなったからと車で部屋まで送り届けられた。
「ノエルを頼んだよ」
と二人のこわーいお兄さまに釘を刺され、俺はようやく解放された。
それからどうしたかって?
それはまた、別の機会に話をしようと思う。
《いったんおしまい》