六
就職して二年。
志信が、わたしの前から忽然と姿を消してから──六年。
それでもわたしは、志信のことを忘れられないでいる。
自分でも未練がましいと思っている。
だけど志信以上に想える人がいないのだ。
切れ長な左目の下のほくろを思い出しては、ため息が洩れる。
すごく色っぽくて、あでやかで、艶やかで。
男の人なのに妙な色気に、どきどきした。
長い指だとか、優しい眼差しだとか。
そのどれもこれも上書きしてくれるような、素敵な男性はいなかった。
そもそもがわたしの家族が妙にスペックが高いというか、一般人離れしすぎているというか。
二人の兄と一人の姉。それに母に父たち。
あの人たちのせいで、求めるものを無意識のうちにハードルをあげていたのだと、社会人になって初めて知った。
だって仕方ないよ!
わたしはなんのとりえもないみそっかすだけど、周りがみんな高スペックなんだよ?
わたし以外、家族みんながゲーノージンだと、そりゃあ世間ずれしても仕方がないと思うのよ。
その中で、そのハードルをあっさりと志信は飛び越してきたんだもん。
志信みたいな人がたくさんいればいざ知らず、志信以外にいないんだもん。
わたしが志信に固執したって仕方がないでしょう?
それなのに、志信は……。
はあ、とため息。
わたし、このままずっとひとりなんだろうな。
だって志信以外、嫌なんだもん。
そう思っていたら。
「ノエル、ごめん」
って。
どーして?
どうしていきなり現れるの?
「う……そよ」
わたし、夢でも見てるの?
最後に別れたときより線が鋭くなったというか、やつれているというか。
だけどやっぱり左目の下のほくろは健在で。
「ごめん、待たせた。もしも俺のことを許してくれるなら……結婚、してくれないか」
って。
だって志信は、わたしに別れを告げるのも嫌なくらい、嫌っていたんでしょう?
それなのに。
「ちょっと事情があって俺、バツイチだけど……。ノエルがまだ独身で、俺のことを許してくれるのなら、そ……っ!」
バツイチってのがびっくりだけど、わたしはうれしくて、話の途中で志信に飛びついた。
「待ってたの! 迎えに来てくれるの、待ってた!」
迎えに来てくれるなんて、思っていなくて。
しかも! 再会と同時に、プロポーズだなんて。
「ノエルのお兄さんたちの説得に時間がかかった」
「え……? 兄たちに会ったの?」
「会った。あの人たち、煌びやかすぎて怖い」
兄たちふたりと、志信がいる光景を想像してみる。
──うん、ぜんぜん見劣りしないよ、志信!
むしろ、兄たちより素敵だと思う!
「そんなことない。志信の方がかっこいいもんっ」
「ノエル……おまえは相変わらずだな」
「そんなことないよ? だってね、わたし、気がついたの。わたしって世間ずれしてるなって」
「……今頃、気がついたのか」
「そーよぉ」
相変わらず口の悪い志信に、安堵した。
「でも、志信はそんなわたしのお眼鏡にかなったのよ? だから待ってあげていたの」
「そーですか。待っていてくれたのならよかった」
それなら、と。
スーツの内ポケットをなにかがさごそと探し、志信はいたずらな笑みを浮かべてわたしを見た。
「左手を出して」
「……ん?」
「ほら」
そうしてはめられたのは。
「指輪?」
「そう、指輪」
「でもこれ、ぶかぶかだよ?」
「あ……やっぱり? サイズが分からなかったから、ごめん、それ適当」
「もー!」
そういうちょっといい加減なところもやっぱり志信で。
「……志信の、馬鹿。女を待たせるなんて、最低」
こうして軽口がきけるのもやっぱり志信で。
「は……やく、迎えに、きてよっ。────…………っ。まっ、……て」
それ以上、涙で告げられなかった。
「ごめん」
って、ただ一言告げて、志信はわたしの身体を、ぎゅっと抱きしめてくれた。
わたしはその腕の中で思いっきり泣いた。
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忙しい母を捕まえ、結婚すると報告すると、兄からしっかりと連絡がいっていたようで、母は志信に根ほり葉ほり聞いた。わたしはなにも口出しできずに、じっと黙って、志信の横に座っていた。
「瀬戸丸家は知っているわ。あなたのお母さまのこともね」
「母を……ご存知なのですか」
「ご存知もなにも、親友だったのよ」
えっ?
「それで、うちの大切な娘を、馬鹿みたいなお家騒動に巻き込まないでよ?」
「はい。そこは大丈夫です。そこをクリアするのに、かなり時間がかかりました」
「ずいぶんと派手に後継者争いをしてきたのね?」
「……すみません。穏便に済ませるつもりが」
「新聞にもよく載っていたものねぇ。……それで? ノエルと結婚するために瀬戸丸を捨ててきたの?」
「はい」
お家騒動? 新聞に載っていた?
え、なに、なんの話デスカ?
「あの……話がまったく見えないのですけど」
「ああ、ごめん。あとできちんと話すから」
「あとではなく、今、ここで、私にも話しなさい」
「……はい」
そして志信は、観念したかのように話し始めた。
志信の家は、代々続くこちらも芸能一家ということで、ちょっとしたお家騒動というか、周りが勝手に後継者争いをさせていたというか。
志信のお母さんは長女ということで、家が決めた人と結婚して、瀬戸丸家を継ぐ予定だったらしいのだけど、なんと、結婚を前に失踪したという。
そして何年かして見つかったのは、お母さんと三歳の志信だった。
志信のお母さんは、身の回りの世話をしてくれていた人と恋仲になって駆け落ちしたらしいんだけど、その人が亡くなり、世間知らずだった志信のお母さんは、幼い志信を抱えて逃げ切れず、瀬戸丸家の人に見つかってしまったという。
それから志信は、母と二人で瀬戸丸家にほぼ監禁されるような状態で生きてきて、志信は母の死と同時に、瀬戸丸の家を出た。
そしてあの部屋で、一人暮らしをしていたのだけど……。
ようやく解放されたと思っていたのに、瀬戸丸家は志信を放っておかなかった。
瀬戸丸家には、志信以外にも直系の子はいるのだけど、前当主──志信から見たらお祖父さん──が志信のことを気に入っていて、次期当主もすでに決まっているというのに混ぜっ返されて、騒動に巻き込まれてしまったのだという。
「──祖父さんから、決めた相手と結婚しなければ、ノエルを殺すと言われて」
「ふぅん? で、本当にノエルは殺されそうだったの?」
おかーさん、なんでそんな物騒なことを平然と聞けるのよっ。
「分かりません。でも俺のせいでノエルが死んだらと思うと」
「馬鹿ねえ。あたしがいるんだから、ノエルを殺させやしないわよ」
「……そうですね。婚姻届にサインをした後になって、そのことを知りました」
「馬鹿ねえ。あんた、なんのためにうちの息子があなたに連絡先を教えたと思ってるの? 利用できるものはなんでもしなさいよ」
「それが……すべてとりあげられてしまって」
「はあ。あなたも難儀ねえ」
ということは?
「ノエルに最後、連絡を取った日。本当はもっといろいろと伝えたかったんだ。でも、ノエルの身を思ったら、ああいうしかなかった。……ごめん」
それでは志信は、家族に誘拐されるかのようにしてあの部屋を去ったの?
「祖父さんも強引で……。結局、祖父さんが死ぬまでの辛抱だと思ったら、六年もかかった」
「あんたもまた物騒なことをいうのね」
「でも、あの異常な瀬戸丸の家で決定を覆す力なんてなくて」
「まあ、知ってるわ。──あなたのお母さんの駆け落ちに協力したのはあたしだし」
「え……」
「愛する人と結ばれたい。その気持ち、あたしは痛いほど分かったから、協力したのよ」
「……思い出しました。あなたは母が実家に戻る前に、一度、母に会いに来てくれましたよね」
「あら、思い出してくれた?」
「はい。あなたは、俺たち母子を匿ってあげると言ってくれました」
「そうよ。あたしの責任でもあったから」
そんなつながりがあっただなんて。
偶然のはずの出会いだったのに。
「それで? 後継者は?」
「元通りに、俺の従弟になりました」
「そう」
「祖父さんが亡くなったらすぐ、離婚しました」
「冷たいわね」
「お互い、別に好きな人がいましたが、命令で仕方がなく」
「それで?」
「それで、とは?」
「形ばかりの結婚って、名実ともに形ばかりだったの? 相手には手を出してないの? いやよ、ノエルと結婚した後に実は子どもがなんて、どたばた」
「ないです。指一本、触れていません」
わたしだって子どもではない。
離れていた六年、お互いになにかあっても仕方がないって分かっている。
だけどバツイチとはいえ、なにもなかったと知り、安心した。
志信の言葉を聞いた母は、大きくうなずくと、わたしに真っ直ぐと視線を向けてきた。
自分の母とは思えない、美しい人にそうやって見つめられても、わたしは目をそらさず、じっと見つめ返した。
それを見て、母はとても幸せそうな笑みを浮かべた。自分の母だというのに、その笑顔に、思わず見惚れてしまった。
「いいわ。結婚を許可する」
「……………………え?」
「ノエル、好きなんでしょ? ずっと待っていたんでしょ? 好きな人と一緒になれるってのは、とっても幸せなことなのよ。例え、泣くことになっても、今が幸せなら、それでいいのよ」
刹那的な生き方と言われる生き方をしている母らしい言葉だったけれど、許してくれたことに、わたしは自然と笑顔になった。
「ありがとう、お母さん!」
嬉しくて、わたしは隣に座る、志信に視線を向けた。志信も嬉しそうに、笑っていた。
──そうしてわたしは、静井ノエルから、瀬戸丸ノエルとなった。
【おわり】