三
そう、あれで終わりのはずだった。
それなのにどうして俺の前にあの少女が立っている?
先週と同じ時間に、彼女はやはり同じように俺のスーツの袖を掴んで呼び止めた。
今日の出で立ちは先週とは違い、似合わないスーツではなく、飾り気のないパーカーとデニムのパンツ。本来の姿はこちらが正しいのだろう。初めて会った日も似たような服装だったのを思い出した。
背伸びをしていないその姿に、知らない内に顔が緩む。
……いや、いかん。ここで甘い顔をしたら彼女のためにならない。
だから俺はできるだけ険しい表情をして見せた。
「おまえな……」
「おまえではなく、静井ノエルです!」
どこかずれた返しに俺は頭痛を覚えた。だけどそれにめげず、睨みつけながら口を開いた。
「とにかく、来られると困るんだが」
「どうしてですか?」
「だから……」
続けようとしたが、改札前で押し問答をしていたため周りの視線が気になり、ひとまず移動することにした。
無言のまま、部屋のある方面へ。
「先週、来ないように言ったよな?」
歩きながら少し後ろを歩いている少女・ノエルへと言葉を掛ける。ノエルは必死な表情で俺の後ろを駆け足で追いかけてきていた。
「あのっ」
ノエルは息を乱しながらやっとの思いといった感じで口を開いた。
「なにかっ、言い……ました、か?」
ノエルの問いかけに俺は足を止めた。距離があったから聞こえなかったのかもしれない。
立ち止まった俺にノエルは気が付いていないのか、それとも反応できなかったのか、思いっきり身体をぶつけられた。
「おっと」
俺は慌てて彼女の身体を反射的に抱き留めていた。腕の中に思っていたよりも柔らかな感触。
先週の寝起きの時に抱きしめた感覚がそれで刺激され、慌てて肩をつかむと、投げ出すように腕を突きつけて身体を自分から極力、離した。眼下には真っ赤になった少女がいる。
なんだよ、このいたたまれなさ。
俺はノエルから数歩後ずさり、距離を取った。
近くにいたら、欲望のままに組み敷きたくなる。
「来られると、困るんだよ」
じりりと距離をとりながら、俺はもう一度、来ないようにと口にした。
「どうしてですか?」
「どうしてって……困るものは、困るとしか」
慰み者になりたいのか……なんて、この初な少女に向かって言えるはずもなく。
言葉を濁して伝えても、納得しなければまた来るのが分かっていたけれど、どうしてだろう。
少女のことを欲望の対象でしか見ていないのだと伝えるのがひどく怖い。
……怖い? どうしてだ?
自分の中に浮かび上がってきたその思いに違和感を覚えた。
どうして怖い? 俺はなにを怖がっている?
自分の気持ちが分からない。
だから、俺の気持ちをかき乱す少女には今すぐ目の前から消えて欲しい。そして、二度と再び、現れて欲しくないと思っているのに。
それなのに。
また、会いに来てくれたことに心が喜び、震えているのはどうしてだろう。
「……頼むから、こないでくれ」
俺の理性がまだ保たれている内に。
「どうしてですか? わたしのこと、嫌い……ですか?」
ノエルの口からこぼれ落ちてきた言葉に、頭をがつんと殴られたかのような衝撃を受けた。
「好き……なんですっ。好きだから……そのっ、少しでも側にいたくて」
飾り気なんてまったくないストレートな言葉。
心臓にナイフを突き刺されたかのような衝撃。
少女が俺に対して好意を抱いていることは表情から見てすぐに分かった。だからその好意が反転して、嫌悪されるのが嫌だったのだ。
歳が離れているだとか、未成年だとか、ノエルにそんなレッテルをべたべたと貼りつけて──自分の「好き」の気持ちにふたをしていた。
だって自覚してしまえば、引き返せないような気がして。
「好き」という感情を理由にして、簡単に肉欲に溺れてしまいそうだったのだ。
俺はそれが怖かった。
汚れを知らない少女に醜い欲望をぶつけて──嫌われたくなかった。
それに……好きだと伝えて、思いが通じなかった時の痛みをもう味わいたくなかったのだ。
だけどノエルはてらいもなく俺に「好き」だと伝えてきた。
「あの雨の日に、わたしはあなたに拾われました」
息を詰めて、俺はノエルの言葉に注目する。
「だれでも良かったんです。わたしを拾ってくれる人なら、だれでも」
だれでもいいなんて、投げやりな言葉を口にされるとは思わなかった。
「──世界にわたしひとりしかいないなんてことないって、だれかに教えてもらいたかったんです」
だから、とノエルは続ける。
「嫌いでも良いから、側にいさせてください」
そんなことを言われて、どうして拒否が出来ただろうか。
お人好しと笑えばいい。
結局また、俺は自覚したての気持ちを抱えたまま、ノエルを部屋へと招き入れることとなった。
※
据え膳くわぬは男の恥と昔の人は言ったらしいが、俺は未だにその据え膳を口にしていない。いや、正確には味見はしたのだが、あれは事故のようなものだ。
一度、本気で味わったら絶対、歯止めがきかない。ノエルは俺の欲望を目の当たりにして、あまりの醜さにきっと、嫌いになるだろう。そして、今まで去っていった女たちと同じように目の前からいなくなってしまうに違いない。いくら愛情がなくたって、いなくなれば俺だって悲しい。またあの悲しみを味わうくらいなら、襲いたくなる気持ちを必死に押さえつけるのは、そんなに難しいことではない。
手を出したらおしまいだと言い聞かせ、俺は必死に理性と戦い続けていた。
ノエルは週末になると現れて、土日を俺の部屋で過ごし、月曜日の朝、俺の出勤に合わせて帰って行く。そしてそんな生活は、気がついたらかれこれ三ヶ月ほど続いていた。
ノエルは部屋に来て、学校──予想通り、ノエルはまだ高校生だった──の勉強をしたり、買ってきたという雑誌や本、マンガなどを読んで過ごしていく。
俺はというと、そんな彼女を横目で見ながら、休日をのんびりと過ごしていた。そしてたまに一緒に料理をしたり、テレビを見たり、ノエルが買ってきたと持ち込んできたものを読んだりしていた。
我ながらなにをしているんだか、というのが正直な感想だ。
ノエルが望んだように、ただそばにいて、ひとりではないと一緒に過ごすだけ。
これでノエルが満足しているのなら、それはそれでいいと思っていた。
だけどそんな生活ともそろそろお別れなのは分かっていた。
季節はすっかり移り変わり、ノエルと出会った初夏から秋へと変わっていた。