二
唇に柔らかな感触。
瞳を閉じたまま手探りで身体を手繰り寄せ、甘い唇を欲望のままに貪る。
相手は苦しいのか、うーだとかなにか唸っていたので、ほんの少しだけ唇を離して続行する。
こんなに柔らかくて甘いキスは初めてだ。
いったいだれだろう。
──そこで、ぎくりと身体が強ばった。
だれ、だ。
俺は今、なにをしている?
ここは……どこだ?
正気に戻ったというか、目が覚めて、慌てて抱きしめていた身体から手を離し、唇を外した。
「っ……!」
目の前には、真っ赤な顔をした少女がいた。
「なっ……。おまえ、なにをっ」
あまりの出来事に動揺して、かなりの挙動不審。
慌てて身体を起こし、少女の身体を向こうへと押しやる。
「すっ、すまない……」
謝ったけれど、身体の奥底に眠っていたなにかが目を覚ましたのを自覚した。
だけど、俺の視界の端に、頬を赤くして必死の思いで首をぶんぶんと振っている少女が見えて、冷静になれた。
「寝ぼけていた」
俺はぼそりとそれだけ呟いて、少女から逃げるようにトイレに駆け込んだ。
……それにしても、今のはなんだった?
今まで感じたことがないほど柔らかく甘い唇の感触。
俺からキスをしたわけではないから、あちらから……?
──どうして?
俺がここで考えても答えが出ないのは分かっているが、そんな疑問が湧き上がってきた。
それにしても、すぐに冷静さを取り戻せたから良かったけれど、あれはマジでヤバい。
深呼吸を数回して、落ち着いてから部屋へと戻った。
時計を見ると、まだ朝の六時を少し過ぎたくらい。
本当ならば、せっかくの休日だから昼過ぎまで寝ているつもりだったのだが、予期せぬカタチで起こされてしまったし、二度寝をするような気分ではない。
そしてなにより、早いところ少女をここから出さなければ、先ほどみたいなことになってしまう。
引き返せるうちに。
欲望に負けて、少女を傷つけないうちに。
少女は俺がトイレに籠もっている間に着替えをすませたようだった。昨日と同じ似合わないスーツ姿を見て、ほっとする。
ヤカンに水を入れ、トースターで食パンを焼いている間に、俺も急いで着替えた。
一人暮らしの男の部屋だから、食卓があるわけではないため、少女にはソファを提供して、俺はシンクの横で立って食べる。食器も必要最低限しかないから、俺のパンは皿なしで、手に持ったままだ。
部屋の中にはパンをかじる音とスープカップをローテーブルに置く音しかしない。それでも、自分以外が出す音があることがなんだか変な気分だ。
「それ食ったら、駅まで送っていく」
先に食べ終えた俺は少女にそう告げ、シャワー室へと逃げ込むように向かった。
……さっきから俺、少女から逃げてばかりだ。なんだか情けない。
だけどこのままでは、少女になんの感情も抱くことなく組み敷いて、傷つけてしまいそうで怖いのだ。
蛇口を思いっきり捻り、冷たい水を顔に思いっきり掛ける。それから歯を磨き、髭を剃る。
冷静にならなくてはと心の中で呪文のように唱え、でも耳は部屋の中の少女の動きを逃さないようにと神経を研ぎ澄まして……。
ったく、格好悪い。
どう見たって少女とは十は歳が離れているのに、なんだろう、このざまは。
自分に言い聞かせてから部屋に戻ると、少女は流し台の前に立っていた。
「な……に、してるんだ?」
俺の問いかけに、少女はくるりと回り、いたずらが見つかった子どもみたいなぎこちない笑みを浮かべた。
「食器を洗っていたんです」
少女が言うように、少女が使ったスープカップとパンを乗せていた皿は洗われ、拭き終わっていた。
「んなもん、シンクに投げておけばいい」
ひどく動揺した俺は、思ったよりもキツい言い方をしていた。少女の驚いたような表情にしまったと思ったが、後の祭りだ。
いや、これでいい。
少女を傷つける前に、早いところ俺の前からいなくなってもらわないと。もう二度と再び、俺のところに来ないように。
それがお互いに傷つかない、最善の方法なのだから。
「……とにかく、早く靴を履け」
優しさを見せるから駄目なんだ。
だからわざとぶっきらぼうな態度を示して、少女を部屋から追い出した。
──といっても結局。
送ると言った手前、俺は今、少女を連れて駅に向かっていた。
少女は無言で俺の後ろを歩いている。
……めんどうなもの、拾ったなあ。
今の俺の感想はただこれだけだ。
この面倒事にまた巻き込まれないために、対策を立てなければ。
駅までの道すがら、少女にこないようにさせるのはどうするのが一番か、ずっと悩んでいた。
──迷惑だから、もう来るな。
……いや、これだと少女が傷つくな。
──親に怒られるぞ。
……少女と親の関係がどうなのか分からないときに親を出すのは危険だ。下手したら地雷の場合がある。そもそも、未成年の身なのに外泊している辺り、親との関係が良好ではない可能性が高い。
それかもしかしたら、親はなんらかの理由で不在なのかもしれないし。
これはまったく使えない手だな。
ならば。
──もう来るな。
……理由もなく来るなと言われて、納得できるか? それとも、向こうは来るつもりはなかったのに、俺に言われて気になってまた来てしまう可能性もないだろうか。
ああ、なんといえばいいんだ。
悶々と考えても、いい言葉は浮かばない。
それならばいっそ、シンプルに来て欲しくないと言えばいい?
とここで、俺は根本的なことに気が付いた。
そもそも、だ。俺はどうして来て欲しくないと思っている?
そこがクリアになれば、少女を説得するのは簡単ではないのか?
それならば、そちらからアプローチすることにしよう。
俺はどうして少女が俺のところに来るのが迷惑だと思っている? どうして来て欲しくないと思っている?
……………………。
悩むことなく、それはすぐに答えが出たのだが、改めて考えると最低だ。
側にいたら抱きたくなるからだなんて。
俺はいつから肉食系になった?
しかも十は歳が離れている相手に対してだぞ? ロリコン属性はなかったはずなんだが。
今までの女性遍歴を思うと、追いかけるよりは追いかけられる、年下よりは年上だった。だけどやってきた相手に対しては尽くしてきたと思う。
でもそうやっても、彼女たちから離れていった。
きっと心が伴ってこなかったからだろう。
ずっと一緒にいたいだとか、愛おしいだとか、そんな感情が一切、湧かなかった。
身体だけの関係。
今までの女性相手なら、それで良かった。
だけど少女相手にそれでいいかと問われると、駄目だと即答が返ってきた。
だから傷つける前に、俺の前から姿を消して欲しい。
傷つく姿は見たくなかったから。
そんなことを考えていたら、駅にたどり着いた。
改札前までたどり着き、半ば強引に少女を改札の奥へと追いやった。
「とにかく、お礼なんて要らないから、もう来るな」
「どうし……っ」
「お礼なら、もらったから」
そう言って、人差し指で自分の唇を指さして、お礼がキスだったことを告げてみせた。
少女は意味が分かったのか、瞬時に真っ赤になり、慌てて目をそらした。
最近の子にしてはずいぶんと初なものだなと思いながら、少女から視線を外した。
「それじゃあな」
これで終わりなのかと思ったら心が引き裂かれるかのように痛みを覚えたが、俺は気が付かなかったふりをして、駅を後にした。