一
雨の中、傘も差さずに濡れそぼる子猫……もとい、少女を拾った。
人間を拾ったなんて人道から外れていると非難されそうだけど、まさしくそうとしか思えない状況なのだから、致し方ないだろう。
男の一人暮らしの部屋に少女を上げるのはかなりの抵抗があったのだが、タイミングが悪いことに、給料日前で持ち合わせがなかったのだ。
そしてなによりも、少女の様子がおかしかったのも心配だった。
特に抵抗なく俺の部屋に入り、言われるがままにシャワーを浴び、出してやったインスタントのスープをぺろりと飲み干すと、安堵したのか、椅子に座ったまま船をこぎ始めた。
外を見れば雨が止む気配はまったくなく、夜も更けてきていた。
泊めるつもりはなかったが、こうなってしまっては仕方がない。
少女にベッドを譲り、俺は洗濯物であふれかえっているソファをどうにか片づけて、そこに寝た。
自分の部屋に自分以外の人間がいることを不思議に思いながら、雨音を子守歌にして、疲れも手伝い、ぐっすりと眠り込んだ。
閉じたまぶた越しに光を感じて、意識が浮上した。
いつもと感じが違うことに疑問に思いつつ、そういえばと昨日の出来事を思い出した。
おもむろに身体を起こしてソファの向こうを見ると、昨日の出来事が嘘だったようにベッドの中はもぬけの殻だった。ただ、いつもだと無造作に丸まっている掛け布団が綺麗に整えられているところを見ると、夢ではなかったようだ。
起きたらいなくなっている予感はあったが、あまりの予想通りっぷりに苦笑いしか浮かばない。
前髪をかきあげ、床に足をおろしたところで、ローテーブルの上に昨日はなかった紙が置かれていることに気が付いた。
見覚えのあるそれは、大学時代に使っていたものだ。端が黄ばんでいるのを見ると、あれからかなりの年月が流れたことを物語っていた。
懐かしさとツキリとした痛みを同時に感じながら、ルーズリーフを手に取った。そこには少女らしいころころの文字が記されていて、昨日のお礼と、バカ正直に連絡先が書かれていた。
「馬鹿か、あいつ」
泣きはらした顔を思い出し、思わずため息がこぼれた。
もっと狡く生きればきっと、昨日もあんなに泣かないで済んだはずなのに。
俺はもう一度だけため息を吐き、その紙をクローゼットの引き出しにしまい込んだ。
そんな出来事は日常の中にすっかり埋没した頃。
残業を終えてようやくたどり着いた最寄り駅で、ぐいっと強く袖を引かれた。突然のことで思わず足を止めてしまった。
「ようやく捕まえましたっ」
覚えのない声に袖を振り払おうとして、ふと心の端になにかが引っかかった。
「連絡先を書いたから電話を待っていたのに、なかなかかかってこないから、直接やってきましたっ」
連絡?
……新手の客引きか?
この手合いはとにかく無視に限る。
だから掴まれた袖を強く引っ張り、歩き出そうとした。
「この間のお礼にきました」
お礼をされるようなことをした覚えがなかったので、俺は掴まれた手を振り払った。客引きならもう少し気を引くセリフを吐いて欲しい。
そんなことを思いつつ、歩き始めると声を掛けてきた女性は焦ったように追いかけてきた。
「あっ……! ま、待ってください!」
どうして待たなければならないのか分からなかったので、立ち止まらずに歩くと必死になって付いてくる。
他にも俺と同じようにスーツを着込んだ男はいるのだから、そちらにすればいいのに諦めの悪い奴だ。
どうすれば引きはがせるのか考えていたところに、俺の疑問に対する答えが返ってきた。
「雨の日に濡れて冷たくなっていたわたしを助けてくれました」
雨の日?
逡巡して、思い出した。
あの日の子猫……いや、少女?
俺は足を止め、ようやく声を掛けてきた女性に視線を向けた。
真っ直ぐな黒髪、茶色い瞳。大人っぽく見せるためなのか少し無理して着ているように見えるグレイのスーツ。薄いピンク色のルージュがなんだか浮いて見えるのは気のせいだろうか。
「ノエル……、静井(しずい)ノエル、です」
女性の口からは、あのルーズリーフに書かれていたのと同じ名前がこぼれ落ちてきた。
※
交通の便はいいものの、すでに開いている店は皆無で、結局、またもや部屋に連れ込むことになってしまった。
駅前で会ったのだから、もう遅いからとホームまで連れて行けば良かったのに、どうして俺はそうしなかったのだろうか。
俺だって男だ。下心がまったくなかったと言えば、嘘になる。だけどそれよりも、この時は庇護欲の方が強かった。
化粧をしてごまかしているとは言え、明らかに世間慣れしていない未成年と思われる少女を無責任に帰すことが出来なかった。
……まあ、今にしてはそれは、ただ単に言い訳にしかすぎないのだが。
前と同じように部屋に上げて、戸惑った。
あの雨の日は弱々しい子猫のような少女だったのに、今はまるで雌猫のようだ。顔を上げて、真っ直ぐな視線を俺に向けてきている。
「とりあえずだな……今日は遅いから、ここに泊まっていけ」
気分は兄か、はたまた親戚のおじさんか。
そうとでも思わないと、なんだか落ち着かない。
「先にシャワーを浴びてきて。俺はまだメールチェックをしたりしなければならないから」
できるだけ少女に視線を向けないようにして、俺は必死に理性を保った。
少女は小さくうなずくと、シャワー室へと消えていった。
部屋に一人になり、ほっとする。
……それで、どうするよ、俺?
相手は幼気(いたいけ)な少女。遊びと割り切ってきた女たちとは訳が違う。
手を出したら最後。
俺は自分にそう言い聞かせ、気を紛らわせるために持ち帰った仕事に手を付けようとして、失敗した。
シャワーの音が妄想をかき立てる。
落ち着くことが出来ず、ベッドを整えたり、ソファを片づけたりと身体を動かして誤魔化した。
少女がシャワーから上がってきて、ベッドで寝るようにとだけ言い捨てて、入れ替わりで逃げるようにシャワーを浴びた。
いつもよりゆっくりとシャワーを浴びて、落ち着いたところで上がって身支度を済ませてからリビングから寝室をのぞくと、ベッドがこんもりと盛り上がっていた。知らない内にホッとため息がこぼれていた。少女が起きていたら、危うく手を出してしまいそうだった。
電気を消して、前と同じようにソファに横になった。
前の時と同じように起きたら少女がいなくなっていることを願いながら、目を閉じた。