【五章】理園─りおん─
葵はすぐに理園(りおん)を探し出した。理園は晴希の住む近所の保育園に預けられていた。
「秋沢さん、身内の方がいらっしゃらないみたいでしたね」
葵は園長先生に話を聞き、唇をかみしめる。
晴希は理園を迎えに行く途中、発作に遭ってしまったらしい。人通りの少ない時間帯だった上、急いでいたようで裏道を通っていたのが災いした。早くに発見されて処置されていればもう少しどうにかなっていたらしいのだが……。
葵は自分と関わったからだ、と自分を責めた。自分と関わると、なぜか周りは不幸になる。
「理園くん、このままだと保護者がいないから施設に入れられてしまうわねぇ」
「あの……秋沢さんから理園くんの母親になってほしいと言われました」
「あなたと秋沢さんのご関係は?」
葵は園長にそう聞かれ、一瞬、返答に困る。しかし、顔をあげ、微笑みながら口を開く。
「私、秋沢さんと結婚の約束をしていたんです」
葵は口にして、自分で自分の言葉に驚く。園長先生も目を丸くして、葵を見つめている。
「理園くんの本当の母親のことは」
「亡くなった、としか」
本来はトラブルの元になるから駄目なんですけど、と言われながら葵は理園を引き取ることができた。園長先生は葵のファンで、サインと引き換えにと少し汚い手を使ったかな、と思いながら晴希と理園が住んでいたという家へと向かった。
理園は最初、葵のことを少しだけ警戒していたが、すぐに打ち解けてくれたようだった。
「ママ!」
と言って抱きついてくる。
「私はあなたのママじゃないんだけどね」
葵は苦笑しながら理園を見る。
家につき、葵は子どもを育てたことがもちろんなく、どうすればいいのか分からずに途方に暮れた。
すぐに食べられるものを、と思って途中で寄ったコンビニで買ったうどんをレンジで温める。テーブルには理園専用と思われる椅子。そこに座らせて、温めたうどんを理園の前に出す。フォークを探し出して目の前に置くが、理園はフォークを物珍しそうに握り、振りまわすだけだ。
「危ないって!」
葵は理園からフォークを取り上げ、まだ一人で食べられないことに気がつき、食べさせる。
理園はうどんを少し食べたら満足したようで、口に運んでも要らない、と首を振る。葵は残りのうどんを食べ、キッチンへ片づけた。
理園を椅子から降ろすと、葵は腕を引っ張られた。そのままされるがままになっていると、寝室に引っ張られた。理園の顔を見ると、眠そうな表情をしている。葵は布団に理園を寝かせるとすぐに寝てしまったようだ。
眠っている理園を起こさないように寝室を出て、葵は静かに家の中を探る。
晴希はノート、と言っていた。この家はリビングダイニング、寝室ともう一部屋の二LDKのようだ。寝室の隣の部屋に入り、電気を付ける。
壁一面にびっしりと本が並んでいて、机の上にノートが乗っていた。葵はそれを手に取り、表紙を見る。
理園へ、と手書きで書かれたノート。
葵は中を開き、読む。
仕事で何度か見たことのある、癖のある文字。晴希の字だ。神経質そうなその懐かしい字になぜか涙が溢れそうになる。
そこには、理園の母であるシャルロッテとの出会いから始まり、ちょっとした物語が綴られていた。
彼はこんな日がくると思って準備をしていたのだろうか。
葵はそんなことを思いながら文字を追った。
そこに書かれていたのは、どこにでもありふれていそうな男女の出会いの物語。だけど葵はそんなことに一生縁がないのを知っていて、ずきりと胸が痛んだ。
理園を生み、シャルロッテはそれまでの心労が原因でこの世を去ってしまったらしい。なにもできなかったむなしさが書かれていた。
自分はシャルロッテではないし、その女性を知らないけど、きっと彼女は感謝こそすれ、晴希を恨んではないだろう。むしろ、晴希と子どもを残してこの世から去らなければならないことを悲しんでいたかもしれない。
葵は晴希との今までのやり取りを思い出し、自然に笑みが浮かんだ。
自分が男だと知っても、晴希は態度を変えなかった。手のかかる女だな、とぶつくさいいながらも部屋を片付けて行ってくれた。
きっと彼は、シャルロッテにも同じように接していたのだろう。容易に想像がついた。きれいに片付いたこの家を見て、それを確信した。
シャルロッテはきっと、葵と同じくなにもできない人だったのだろう。
晴希によって書かれた二人の物語のラストには一枚の写真。結婚式の写真なのか、ウエディングドレスを着た女性とタキシードを着た晴希。この女性がシャルロッテなのか、と思いながらページをめくる。
次のページにも写真が貼られていた。
日常の何気ない風景を撮ったものだろう。一人の女性がはにかんで写っている。前のウエディングドレスの女性と同じ。黒髪に灰色の瞳。
ノートをめくっていくと、たくさんのシャルロッテ。
晴希はきっと、シャルロッテが死んだことを受け入れてなかった。だけど理園のために生きなくてはならなかった。葵はそんな感想を抱いた。
『ふと振り返ればシャルロッテがいるような気がして、いつも後ろを気にしていた』
最終ページにそんなことが書かれている。
『そんな時に同じように愛する人の死を受け入れられない人に出会った』
葵はその文章にどきりとした。
『その人に父を奪われた。ずっと恨みに思っていた。だけどその人は、自分と一緒だった』
晴希の書いた文章に葵は首を振る。自分は先生の死をしっかり受け入れていた。
『彼女の奏でる音楽は、悲しみに満ちていた。
その曲は世間に出して共有しなければ彼女は救われないと思った。
彼女が救われることは、自分の救いになるとなぜか確信していた』
それは誤解だ、と葵は強く頭を振る。
自分は先生の死をきちんと認識していた。だから──。
そこまで考え、晴希と最初に出会った時のことを思い出す。
違う。自分は航平の死を受け入れてなかった。晴希に最初に会った時、航平の死を受け入れていなかった。だからバイオリンが弾けなくて、仕事をキャンセルしてひきこもっていた。
その気持ちを壊してくれたのは、晴希だった。
『父が死んだと知り、一人の女性がすべてしてくれたことを知ったのは、父の葬式が終わってかなり経った後だった。
その人を探し当て、家に出向くと彼女は父の死を受け入れてなかった。
自分がシャルロッテの死を受け入れていないのと一緒だった。
彼女は父を悼む曲を作っていた』
葵は一度、ノートから目をあげた。なにか声が聞こえるのだ。
「ママ……ママ」
耳を澄ますと理園の声だ。葵はノートを机の上に置き、部屋を出る。
「どうしたの?」
「ママ、いた!」
理園は葵の姿を認めると、走り寄ってきて足にしがみつく。
「パパは?」
理園の無邪気な問いに、葵は言葉に詰まる。
「パパは……私たちを置いて、旅に出ちゃったの」
理園は眠いのか、目をこすりながら葵の言葉を聞いている。
「寝ようか」
葵の言葉に、理園はうなずく。抱っこをせがんできたので、葵は理園を抱きあげる。思っているより軽くて、葵はその頼りない存在に不安になる。
「ママはいい匂いがする」
理園は葵の肩に顔をうずめ、顔をこすりつけるようにした。そのまま理園は眠ったようだ。葵は抱え、寝室に戻る。布団をはがし、理園を横たえる。小さく丸まって眠る姿に葵は複雑な気持ちになる。
心は女だが、身体は男。子どもをこの身に宿すことはできず、かといって他の男たちのように女を愛し、種を植え付けることもできない。自分の男の部分が機能しないわけではない。眠っている間、生理的には機能することはあった。意識的にすることに関しては嫌悪しかなく、自分で触ることさえ嫌だ。
どうして男として産まれて来てしまったのか。身体が男ならば、心も男ならばこんなに苦しむことはなかったのに。
もどかしくて、だけどどうすることもできないこと。
諦めて男として生きていけばよかったのだろうか。
晴希は最期、「理園の母親になってほしい」と言っていた。
父ではなく、母……。
葵は寝室の隣に戻り、読みかけたノートに視線を落とす。
晴希は葵とのやり取りを淡々とつづっていた。
『彼女との仕事が終わり、繋がりがなくなったことを残念に思った』
葵と同じことを思ってくれていたようで、少しうれしくなる。
『しかし、彼女には複雑な事情があり、』
その後ろはなにか書かれていたらしいが、消されていた。なんと書かれていたのか葵は知りたいとは思わなかった。きっと、葵の秘密に関して書かれていたに違いない。
葵はそのままノートを閉じた。
これは理園が大きくなった時、渡そう。それまでは大切にしまっておく。
葵は電気を消し、部屋を出た。
* *
葵は理園を正式に引きとり、育てることにした。
といっても、子育てなどしたことがなく、結局は母親に頼ることになった。最初、なにも言わないで連れて帰ったら……母は倒れ、父はどうすればいいのか分からないようでおろおろしていた。
事情を説明して、母親に子育てを手伝ってもらうことになった。
奈津美と結婚した蓮はさまざまな事情があって、こちらにまったく戻ってこれないようだ。待望の孫も生まれるらしいのだが、会いに行けないと愚痴っていた。そこにまったく期待を抱けなかった葵が二歳になる男の子を連れて帰ってきた。母は大喜びで理園の子育てをしてくれた。
ほぼ母にまかせっきりになってしまったことを申し訳ないと思いながらも仕事がない時は極力実家に戻り、理園にはバイオリンを教えた。航平の孫なのだから、それなりには才能があるだろうと思ってのことだ。
両親は年に一度、戻るか戻らないかの葵が頻繁に家に来ることを素直に喜んでいた。理園は葵のことを「ママ」と呼び、懐いていた。
「葵、部屋を引き払ってこっちに戻ってきたら? あなたの部屋はまだ残ってるし」
そう言われ、葵は実家に戻ることにした。三十にもなって実家に戻ることにいろいろな気持ちを抱いたが、理園のことを思うとそれでいいかと思った。