『愛してる。』


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【三章】露見─ろけん─



「なんでっ!」
 葵は電話口で思わず叫んでいた。
『葵ちゃん、これは幸運だよ! 彼が自らプロデュースすると言ったんだろう? これからも演奏家として生きていくつもりならば、お願いするべきだと思うんだよ』
 次の日、葵が所属している会社の社長自らが電話してきた。どうやらマネージャーが話をしたらしい。
『これは社長命令。こちらから彼にコンタクトを取るから、いいね』
 嫌だと言えず、葵はしぶしぶ承知する。
 昔なら嫌だ、と言って飛び出していただろう。しかし、航平との約束を守るため、葵は我慢した。
 社長の電話が切れてそれほどせずに、マネージャーから電話がかかってきた。
「どうして話をしたのよ!」
 葵はマネージャーに開口一番、文句を言った。
『葵さん、チャンスはつかまないと駄目なんですよ。ぼんやりしていると気の多い世間は忘れてしまいますよ』
 反論できなくて、葵は口をつぐんだ。
『明日、お迎えに行きますからきちんと準備をして待っていてくださいよ!』
 そんな声を聞きながら、葵はぼんやりとした。
 電話を切り、散らかった部屋を見て、ため息を吐く。
 食事を摂る気にならなくて、冷蔵庫からチーズとミネラルウォーターを取りだす。冷凍庫から氷を出し、グラスに入れて棚にしまったバーボンを出し、入れる。水で薄め、昼間だというのに一気に煽る。
 空っぽの胃にアルコールがしみわたるのが分かる。チーズをかじりながらもう一杯、作る。
 蓮が見たらいろんなものに対して怒るだろうな。
 そんなことを考えながら、この先、自分がどうなるのかあまり考えたくなくてバーボンを飲んだ。
「Rain doesn't stop falling.
Bourbon to one hand」
 酔った頭にあの歌が流れていて、それに合わせて適当な歌詞を入れて歌ってみる。
 バーボンのせいで少しかすれ気味の声。
 タバコは煙がバイオリンを痛めるから嫌いだ。だから吸わない。その代わりに葵はよくお酒を飲んだ。お酒を飲むと、自分が「男」だと自覚する部分が萎えるから好き。自分の身体を否定したくて葵の手はアルコールに手が伸びる。
 その中でもよく飲んだのはバーボン。それは航平が好んで飲んでいた。葵はいつからか真似をしてバーボンを飲むようになった。
 熟成させる時に内側を焦がした樽に詰めるので独特の匂いがある。最初はこれが鼻についてものすごく嫌だったが、飲み慣れるにつれ、これがないお酒は物足りなくて気がついたらいつもバーボンばかり飲んでいた。
 二杯、三杯とすすめていくうちに時間感覚がなくなってきた。つまみにコンビニで買ってきたチーズとサラミ。
「……みじめよね」
 葵はぽつり、と今の状況を思って口にする。
 家には寝るためにしか帰らないから、という理由でワンルーム。狭い部屋の中、片付けられなくてさまざまな物が散乱している。
 昔は蓮が来てマメに片付けてくれていたけど、彼も社会人になり、そして前以上に葵がここに帰ってくることがなくなったため、彼も来ることがなくなってしまった。
 いつまでも弟に甘えていられない、それは分かっていたが……「手を怪我するから駄目」という理由でやってこなかったことを今さらできるわけがなく、荒れ放題になっていた。眠る場所があればそれでいい。葵はそう割り切ってごみ部屋と化したところで一人、バーボンを飲んでいた。
 どれくらい飲んだのだろう。いい感じで酔っぱらってテーブルに突っ伏していたところ、インターホンが鳴り響いた。葵はのろのろと立ちあがり、ドアを開ける。
「よう」
 ドアの向こうには、航平によく似た男・秋沢晴希が立っていた。

     *   *

「明るいうちからバーボンなんて、そんなだから彼氏なんてできないんだろう?」
 晴希は部屋に入り、散らかった物を片づけながらぶつぶつと文句を垂れている。
「うるさいわね。なんの用よ」
 葵は思わず晴希を部屋に入れたが、よくよく考えればほぼ初対面だ。今日で会うのは三度目だが、彼が何者かよく知らない。
「秋沢って、あなた、先生のなんなの?」
「息子だよ」
 ごみ袋の音を立てながら晴希は放置されているごみを拾い、中に入れる。葵は知らんぷりをしてバーボンをちびちび飲んでいる。
「息子?」
「そうだよ。オレができたからあのおっさんはバイオリンを続けられなくて、指導者になったんだよ」
 初めて聞く話に葵は椅子の上で膝を抱え、ぼんやりと晴希を見る。
「先生からそんなこと、聞いたことない」
「そうだろうな。あいつはオレたちを捨てたから」
 晴希はごみを拾っていた手を止め、葵を見る。
「『探していた人材を見つけた。つきっきりで育てるから』そういってあいつは、オレとお袋を捨てたんだ」
 航平は確かに葵につきっきりだった。
「悔しいけど、親父は正しかったよ」
 晴希は音を立て、ごみ拾いを再開した。
 葵はなんと言えばいいのか分からなくて、対抗してグラスの中の氷の音を立てる。
「あの曲は、売れる」
 熱っぽく語る晴希を葵は冷めた瞳で見つめていた。

 晴希は部屋の片づけが終わると無言で出て行った。なにをしに来たのだろう、と思いながらも葵はバーボンを飲み続けた。しばらくして、晴希は戻ってきた。その手には買い物袋。
「なにしてるのよ」
「なにって、起きてから飯も食わないで酒飲んでるんだろう? 忙しいみたいだし、肌が荒れてるぞ」
「……ほっといてよ」
 葵は膝に顔をうずめ、首を振る。
 どうしてこの男は自分にこんなにも親切なのだろう。
 葵の才能がほしい男たちは葵に媚を売ってきた。ブランド物をプレゼントしてきたり、美味しいレストランに連れて行ってくれたり。きっと、普通の女だったら喜び、あまつさえ……。
「下心、見え見え」
 葵のつぶやきに晴希は笑う。
「おまえこそ、物欲しそうな目をしてオレを見るなよ」
「そんなこと……!」
「あるだろう?」
 晴希は手を止め、葵の元へと歩いてきた。
「知ってるか? おまえ、裏でなんて言われてるか」
 晴希は葵の肩をつかみ、顔を上げさせる。
「その美貌と才能で男を手玉に取っている女だって」
 予想していなかった言葉に、葵はめまいがする。
「ブランド物を貢がせ、高級料理店に連れて行かれても身体を開かない堅物。先生、と慕っている男といい仲だから駄目だって」
 あまりのひどい言葉に葵は目を見開き、晴希を見る。
「オレは親父に似てるらしいな。だからか? いなくなった親父の代わりに抱いてもらおうと」
 葵は晴希にバーボンの水割りを顔にぶちまけた。
「私と先生は、そんな仲じゃなかったわよ!」
 葵は航平との思い出を穢されたようで無性に腹が立った。
「そんな仲になるはず、ないじゃない!」
 半ばヒステリックに叫ぶ葵に晴希は嘲笑する。
「本当にそうなのか? オレを見る目は違っていたぞ。物欲しそうな、女の目をしていた」
 晴希はタオルを探し、濡れた顔を拭きながら料理の続きに取りかかっていた。
 葵は晴希に言われた言葉の意味を考えて──再び、膝を抱えた。
 自分の身体が女なら、その可能性はゼロではなかっただろう。だけど残念なことに。
「あるわけ、ないじゃない」
 何百回、何千回、何万回とそれは考えた。
 女だったら自分の想いを航平を素直に伝えられた。
 心と体の性別が違うから。
「こんな想い……先生は迷惑なだけよ」
 航平は知っていた。葵の身体が「男」であることに。見た目は確かに「女」だし、心も女だけど。
 男の象徴であるモノを切り落としたい衝動にかられる。だけど、酔っていてもまだそこまで理性を失ってはなかった。葵は必死になってその思いを耐える。
 膝を抱えて必死に耐えている葵の鼻腔に食べ物のいい匂いがしてきた。お腹が鳴る。
「食えよ」
 のろのろと顔を動かし、テーブルの上を見ると、スープとスパゲティ。
「簡単なもので申し訳ないけど」
 そういうなり、晴希は葵の正面に座り、同じように盛りつけたスパゲティを食べ始めた。
「冷めないうちに早く食えよ」
 目の前で美味しそうに食べ始めた晴希につられ、葵は恐る恐る、口にする。
 薄味だが、久しぶりに口にするまともな食べ物。葵は無言ですべて食べた。
「女のくせに料理もできない、片付けもできない……。親父、甘やかしすぎだろ」
 晴希はため息交じりに言いながら、片付け始めた。
 実際、航平からそういったことをするな、と言われていたので言い返せない。
「あんたの演奏は素晴らしかった。オレが親父の代わりに身の回りの世話をしてやるよ」
「……はあ?」
 突然の申し出に、葵はさすがに目を見開く。
「なんなら、一人寝がさみしい夜のお相手になってやってもいいぞ」
 晴希は蛇口を閉め、すっかりかたづいた部屋を大股で横切り、葵の目の前に立つ。
「年齢も近いようだし、なんなら結婚してやってあんただけをプロデュースしてやってもいいんだぜ?」
 今まで何度もそうやって迫ってくる馬鹿な男どもはたくさんいた。葵はいつもその手を振りほどき、男たちの下心を払いのけてきた。
 心は女、だけど身体は男。
 好きになったのは、先生──男だった。
 だけどきっと、先生の性別はどちらでもよかった。男でも女でも、航平が「先生」であったから、好きになった。
 その「好き」という気持ちは、尊敬の念もかなり含まれていて……。
 晴希は葵の腰に腕を回し、強引に抱きしめてくる。葵は怖くなって身じろぎして、腕から逃れようとする。
「やめて!」
「やめない」
 晴希は葵を強引に押し倒す。普段ならよろけないが、今は思いっきり飲んで、葵は酔っぱらっていた。力が入らなくて、床に押し倒された。
「親父にこうやって抱かれていたんだろう?」
 晴希は葵の身体をまさぐり、なにか違和感を覚えたのか少し変な表情をしている。しかしそれでも手を緩めることなく、上に羽織っているものをはがし、下に着ているパジャマを脱がそうとして、そこでようやく、晴希は違和感の正体をつかんだらしい。
 目がこぼれそうなほど見開き、葵を見下ろしている。
「……早く私の上から降りなさいよ」
「おまえ……」
「そうよ、私は──変態よ」
 葵の泣きそうな声に、晴希はなにも言えず、葵の上から無言で移動した。






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