『愛してる。』


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【二章】出会い─であい─



 航平の葬式が終わり、葵は魂が抜けたかのようになっていた。
 人の命とは、なんとあっけないのだろう。
 命を宿し、この世に産まれてくるまでは大変だというのに、死ぬ時はあっという間だ。
 葵の手元には、航平が命をかけて守ったバイオリンと、彼のお骨。
 航平にはどうやら、家族がいないようだ。
 彼の家は知っていたので、葵はそこに行き、身辺整理をした。と言っても、驚くほど荷物がなく、航平は死を覚悟していたというのを感じた。
 そして、後になって医者から聞かされた話。航平の命は、どちらにしても持って半年だったという。彼は死を覚悟していた、というのをあの部屋を見て、改めて知った。
 人生八十年、と言われているのに六十で亡くなるとは……。
 早すぎる死に、葵はバイオリンが弾けなくなっていた。

 航平の最期の願い。
 あのバイオリンとともに世界で演奏してほしい。
 その願いを聞き入れたい。
 葵はそう思っていたが、思っていた以上に彼の死は、痛手だった。

 予定をすべてキャンセルして、葵は家にこもっていた。
 冬だというのに雪が降らず、冷たい雨が何日も続くそんな日。
 窓を叩く雨を見ていた葵の脳裏に一つの旋律が浮かび上がってきた。物悲しいメロディ。聞きたくなくて、葵は耳をふさぎ、頭を振る。なのに、いくら振り払ってもずっと鳴り続けている。
「やめて!」
 葵は悲鳴を上げ、ベッドを叩く。長い間、掃除されていないこの部屋は、葵のその動作に埃が舞った。
 明かりを付けていない薄暗い部屋の中、きらきらと光を放つ埃。
 生きて、動いているからこそ起こる現象に、葵は悲しくなる。
 しばらくじっとしていると、埃は消えていった。

 いつまでも狂ったように葵の中で鳴り続ける音に観念して、拾い上げ、楽譜にしていく。
 それは葵にとって写経のようなもの。
 時が経つのを忘れ、葵は心の中の音を紙に写していった。

     *   *

 ドアを強く叩く音で、葵は目が覚めた。机に突っ伏して寝ていたようで、節々が痛い。
 ゆっくりと立ちあがり、中からチェーンをかけたまま開いた。そこには──航平が立っていた。

「せっ、先生?」
 葵はドアから手を離し、後退した。
「親父が死んだって、本当か」
 ドアの向こうの男は閉じそうになった隙間に手を挟み、中を覗き込んでくる。
「あなたは……だれ?」
 航平は死んで、焼かれて骨になった。それに、目の前に立つ男は、航平にしては若すぎる。初めて会った頃のようだ。
 堅そうな黒髪、茶色い瞳。
 死んだから、若くなって葵の元に帰ってきたのだろうか。
「おい、ここを開けろ!」
「開けろって……。ここは『女』一人が住んでいる部屋なんですけど」
 葵の言葉に航平によく似た男は目を細め、部屋の中をじっと見る。
「……女の部屋? こんな散らかった部屋にいるような女なんて、女じゃねぇ」
 葵はその言葉に目を見開き、大声で怒鳴りつけた。
「おとといきやがれ」

     *   *

 結局、葵はこの得体のしれない男を部屋に上げることにした。
 葵の目に、若い頃の航平の姿が見えたからだ。
「私、お茶なんて出さないわよ」
「期待などしてない」
 男はずかずかと部屋に上がり込み、まっすぐに先ほどまで葵が突っ伏して寝ていた机へと向かった。机の上に置かれた楽譜を見て、男は動きを止めた。
 葵は男が見ているものがなにかを知り、必死に取り返そうと後ろから抱きついた。
「見ないで!」
 取り返そうとしたが、手が届かなかった。男は楽譜を握りしめ、目で追っている。
「この曲は」
「……私が作曲したのよ」
 頭の中に鳴り響いていた音を拾って楽譜に書いたので、それを自分が作曲したと言いきっていいのだろうか、と思ったが、葵の口からはそう言っていた。
「なにか楽器は?」
「……バイオリンなら」
「弾けるか?」
「あんたね。私をだれだと」
「いいから、弾け」
 高圧的な態度が葵の癪に障ったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 久しぶりにバイオリンを取り出し、調弦する。航平が亡くなってから初めて弾く、バイオリン。しかも、気がついたら彼が命をかけて守った、あのバイオリンだった。
 初めて弾くバイオリンのはずなのに、妙に手にしっくりとくる。そして、調弦だというのに心が震えるその音。
 それは目の前にいる男も同じように思っているらしく、目を丸くして葵を見ている。
 葵は目を閉じ、頭の中に鳴り響く音をトレースする。
 男は葵の演奏と楽譜を見比べ、違う部分に赤字を入れていく。
 最後の音が鳴った時。部屋に静寂が訪れた。
「この曲は」
 先に口を開いたのは、男だった。
「歌詞を付けて売れば」
「売らないわよ! この曲は、先生への鎮魂歌なのよ!」
「……先生?」
 葵の言葉に男の顔色が変わる。
「おまえか。俺とお袋から、親父を奪ったヤツは!」
「な……んの、こと」
 葵は言われた意味が分からず、目の前に立つ男の顔をじっと見る。
 彼の目の前に、泣きくれる女が見える。
「お袋はずっと、親父の帰りを待っていた! お骨を、返せ!」
 男は目をつり上げ、部屋の中を見回し、白い布で包まれた四角い箱を見つけ出すと乱暴に奪い取り、そのまま部屋を出て行った。
「だ、れ」
 葵の口からはかすれた声しか出なかった。

     *   *

 そうだ、いつまでもこうしてぼんやりしていられない。
 葵は航平が守ったバイオリンを抱え、彼との約束を守ることにした。
 悲しんでばかりいられない。
 よくわからないが、彼にはきちんと家族がいた。本来、帰るべき場所に帰った。

 これでよかったのよ。
 葵は自分に言い聞かせる。
 解決したことなのだ、と自分の心に言い聞かせるのだが、納得がいかない。頭では分かっているのに、割り切ることができない。
 それでも、ようやく葵はバイオリンを弾く気になってきた。自分には「弾くこと」しかできない。それがなくなってしまったら、なにもない。
 先生の最期の願いを叶えよう。
 航平が守ったバイオリンとともに、葵は次々に仕事をこなした。
 航平が言った通り、このバイオリンで演奏をするようになって今まで以上に仕事が舞い込んできた。それが幸せなことかどうかはともかく、葵にとっては「バイオリンを弾くこと」は自分を肯定することに繋がる。
 今まで支えてくれた航平はもういない。
 弾いていないと砕け散ってしまいそうになる心をバイオリンが支えてくれる。
 葵はがむしゃらに弾いた。

 コンサートが終わり、楽屋でぼんやりとしていたら、マネージャーが一人の男を連れてきた。
「あんた」
 目の前に立つのは、航平の若い頃そっくりのあの男。
「あんたの演奏、聞かせてもらった」
「帰って」
 葵はかすれた声でつぶやく。
「オレだって来たくなかった。だけど、どうしてもあの曲が忘れ」
「帰って!」
 男の言葉を遮り、葵は叫んだ。
「あの曲は、だめ!」
 葵はマネージャーに男を出すように指示をする。マネージャーは航平そっくりの男の腕を取り、外に出るように促す。
「オレは秋沢晴希(あきさわ はるき)。プロデューサーをしているんだ!」
 マネージャーに部屋から出されながら、名刺を押し付ける。
 音を立ててドアが閉まり、葵は部屋に一人になった。
「今さら……なんなのよ」
 あの曲が葵の頭に駆け抜ける。物悲しいメロディ。航平の死に顔がちらちらと浮かぶ。
 ようやく前に進めるようになったのに。航平の死の悲しみから脱出できたのに。
「葵さん!」
 男を部屋から追い出したマネージャーはなぜか名刺を片手に赤い顔をして戻ってきた。
「今をときめく秋沢プロデューサー自ら声をかけてくるなんて! チャンスですよ!」
 そう言われ、世間に対して関心の薄い葵でさえ知っている名前に目を見開く。
「秋沢プロデューサーって」
「そうですよ! お金をいくら積んでも気に入らないとまったくプロデュースしてくれないというくらい、偏屈で名が通っている人が」
「……いやよ」
 葵の言葉にマネージャーは泣きそうな顔になる。
「せっかくのチャンスじゃないですか! やっぱりそのバイオリンは幸運のバイオリンですよ!」
 マネージャーの言葉に葵はケースに視線を向ける。
 このバイオリンを手にしてから、葵の運気は急激に上昇した、としか思えない幸運に恵まれていた。
 航平の命は奪ってしまったが……いや、航平がいうように「命を吸い上げた」からか、とにかく怖いくらいにいいことばかりが続いている。幸運はいつまでも続かない、と戦々恐々としながらもこのバイオリンがあればそれはいつまでも続くと信じて疑っていなかった。
「とにかく、私は今日は疲れたわ。帰るから!」
 葵は立ちあがり、ケースを持った。マネージャーの
「お疲れさまでした」
 の声を聞きながら、部屋を出る。
 葵の頭の中からはすっかり、あの曲は消え去っていた。







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