【一章】訣─わかれ─
電話をもらって約一時間後。
葵は先ほどかかってきた病院の入口へようやく着いていた。
二・三度大きく深呼吸をして、中へと入る。受付に向かい、要件を告げるとすぐにどこに行けばいいのか教えてくれた。
目の前にいるのは葵よりも年下の女性。葵は思わず目を細め、彼女を見る。
さまざまな風景が彼女の後ろに浮かんでは消えていく。物心がついた頃から見える、不思議なこと。耳を澄ますと音も聞こえてくる。
「その彼氏、二股かけてるわよ」
気がついたら思わずそんなことが口から出ていた。
葵の言葉に親切に教えてくれた彼女の顔がさっと青ざめる。
……またやってしまった。
葵は自己嫌悪に陥りながら、その場にいたくなくて無言で言われた部屋へと向かった。
軽くノックをして、部屋へ入る。どうやら個室のようで、部屋の奥にぽつりと白いベッドが置かれていた。
その上には……。
「先生!」
葵は駆け寄り、枕元にひざまずく。
ベッドの上には、葵がよく見知っているけどいつもより小さく見える、葵にバイオリンを教えてくれた、大切な先生・秋沢航平(あきさわ こうへい)。
彼もまた、将来を有望視されていたにも関わらず……家庭の事情で演奏家になることを断念。しかしそれでもバイオリンに関わることに諦めがつかず、演奏者から指導者になり、葵が六歳の時、出会った。
葵は三歳すぎてからバイオリンを始めた。最初のきっかけは、たまたま見たテレビ。きれいな女の人が黒いドレスを着て舞台の真ん中でスポットライトを浴びて奏でるバイオリンに心奪われ、両親に「習いたい!」と言ったのが始まりだった。
『あたしもあの人みたいに将来、きれいなドレスを着て舞台に立つの!』
葵の言葉に両親は戸惑いを浮かべ、最初は駄目だと言った。
葵の父は柔道の師範で食べて行くのが精いっぱい。しかもちょうど弟の蓮が産まれたばかりの頃。産まれた蓮が男の子で、しかも葵にそっくりで、その頃から少しずつ母は壊れ始めていたのかもしれない。
葵は両親に男の子だ、と言われても信じられず、下半身についている変な突起物がとても嫌で、両親の目を盗んでは切り落とそうとしていた。両親は目を離すと自らの身体を傷つけようとする葵に手を焼いていた。刃物などは葵の手の届かないところ、目のつかないところに隠された。
『あたしは女の子なの!』
近所の女の子の名前を挙げて、あの子と自分のどこが違うのか、と両親に詰め寄った。
今思えば、三歳にしてそこまで認識していた自分はすごいと思う。
両親は葵のその言葉に困惑を浮かべ、おまえは男なのだ、と言われた。葵はその言葉にいつも反論して、泣き叫んだ。
心は女の子なのに、身体は男。違和感は日が経つにつれ大きくなり、ある日、ほつれた糸を使って切り落とすことを葵は思いついた。テレビでやっていた「粘土をきれいに切る方法」と言って糸で粘土をくるりとまきつけ、両端を引っ張って切っているのを見て思いついたのだ。
必死にやっていた葵。三歳児なので、一つのことに夢中になると周りが見えない。
いつも以上に静かでおとなしい葵のことをいぶかしく思った母が様子を見にやってきて……葵の行為に母は倒れた。その音に葵は我に返り、倒れた音に父が駆け付け、大騒動に発展してしまった。
その事件がきっかけになり、葵は両親から「女の子」として扱われるようになった。両親はだれかに相談したのか、そのあたりのいきさつは分からない。
葵はその事件の次の日、バイオリンを与えられた。葵は喜び、あのテレビの中で弾いていた女性を思い出し、見よう見まねでバイオリンを構えた。両親はすぐに葵が飽きると思っていたらしく、バイオリンはどこからか借りて来ていたものらしい。
しかし、飽きるどころか寝ても覚めても必死になってバイオリンを弾こうとしている姿を見て……両親は考えを改めたようだ。バイオリンを買い与えられ、そして教室にも通わせてくれた。
家族四人が暮らしていくのにやっとの生活だったはずなのに、両親は自分のわがままを許してくれた。もちろん、当時の葵はそんなことは知らないし分からなかった。
嫌になることもあったけど、それでも葵はあの女性のようにきれいなドレスを着て舞台の上でスポットライトを浴びて演奏することを夢見て、必死になった。
サラサラの黒髪は肩まで伸ばしていた。ぱっと見、性別がどちらか分からない見た目。どうすれば女の子に見られるのか葵は必死に研究した。それでも、「はつらつとしたいい坊ちゃんですね」と言われると必死になって違う、と言い張った。
小学校に上がって、両親は発表会に出させてくれた。せっかくの晴れ舞台だから、と両親は葵にスカートを履かせた。それまではどんなに必死に頼んでも、スカートなんて履かせてもらえなかった。自分も女の子たちと同じようにひらひらでふわふわのあのスカートを履きたい、と思っていた。その夢が、叶った。
その発表会には秋沢航平が来ていて、葵は彼に「スカウト」された。
両親は航平にすべての事情を話したらしい。
舞台に立ち、スポットライトを浴びた中で演奏すれば葵も自分の才能のなさに気がつき諦めがつくだろう、両親はそう思っていた節がある。だからこそあの日、スカートの着用を許可したのだろう。それが逆に葵の才能を開花させてしまったなんて、両親は思いもしなかった。
『このままこの才能を埋もれさせるのは、もったいない! 神から与えられたギフトを無駄にするのは、神に対して冒涜です』
航平にそう説得され、両親はしぶしぶ葵がバイオリンを続けること、女性の恰好をすることを許可した。
それがきっかけになり、母は完全に「壊れた」。
自分の今までの人生を返り見ると、いろいろな人を犠牲にしてきた。
きっと一番の被害者は、弟の蓮であろう。
その彼にようやく、幸せにしてくれそうな相手ができた。
昨日はそんな思いの中、幸せに演奏できたというのに。
「先生……」
葵は青ざめた顔で眠る航平を見つめる。
これは、自分がいろんな人を犠牲にしてきた罰なのか。それならばどうして──自分ではなくて大切な人に。
「先生……お願い、目を開けて」
葵は涙が溢れそうになるのをぐっとこらえた。ここで自分が泣いてはいけない。
葵は悲しみに耐え、両手を握りしめ、祈るような気持ちでずっと自分の手を見つめていた。
──この手は、なにも生み出さない手。音楽なんて、お腹の足しにもなりはしない。
葵はかつて、航平にそう告げたことがある。
航平は葵の言葉に表情をなくし、冷たい視線を向けてきた。
『おまえは本当にそう思っているのか?』
そのセリフを言ったのは、いつだっただろう。
そう、あれは……蓮が中学に入ってすぐのこと。葵は中学三年生だった。
小学校の学年が上がるにつれ、どんどんと男と女の差が出てくる。心は女なのに、変わりゆく身体は男。弟の蓮は葵によく似ているのに、彼は日々、男らしくなっていく。
自分は男にも女にもなれず、苦しんでいた。
中学に入り、気持ちとは裏腹に身体は男としての機能が完成していく。その気持ちを忘れたくて、葵はますますバイオリンに没頭した。
毎日、気が狂うほど練習をして、バイオリンを弾いている時だけは現実を忘れられ……でも、バイオリンから離れると、嫌でも現実を知ることになり。
反抗期真っ盛り、ということもあり、航平にそんなセリフを吐いていた。
その時の航平の表情を思い出し、葵は苦い気持ちが胸に広がる。
あれは思っていても言ってはならない言葉だったのだ。
『そう思うのなら、やめればいい。おまえに救われている人は、世の中におまえが思っている以上にいるのだから』
そう言って、航平はしばらくの間、葵の前に姿を現さなかった。
今なら分かる。
確かに、音楽を聞くことはお腹の足しにはならない。
だけど。
心の食事にはなる。
うぬぼれているわけではないが、自分にはその力がある。
あの当時、アンバランスな自分に戸惑っていた。
いつまで経っても大きくならない胸。朝起きた時に感じる、下半身の痛み。
その度に切り落としたい衝動にかられた。
どうして自分は、男の身体に産まれてしまったのだろうか。
女だったら……。
その先の言葉を、葵は飲み込んだ。
口に出したところで、願望が現実になるわけではない。だったら、現実を受け入れるしかないじゃないか。
何度も自分にそう言い聞かせた。
だけど、違和感しかなかった。
両親は自分が『女装』することに関して、思うことはあったのだろうが、あの時以来、なにも言ってこなかった。
あちらとこちらの境界線上に乗ったままの母。母の代わりに家のことを取り仕切っている蓮。
自分には、バイオリンしかない。
そのバイオリンを否定してしまったら、自分の存在は──なくなってしまう。
この手は、人から奪う手。だけど、同時に心に安らぎを与えることができるかもしれない手。
自分には「バイオリンの演奏家」として過ぎた才能を与えられてしまったのかもしれない。
普通に女の子として生まれたかった。自分は、普通に生きたかった。
だれかを犠牲にしてまでこんな才能、ほしかったわけではなかったのに。
この才能だけでなく……見えないはずの物まで見えてしまう。
もしかしたら、過ぎたる才能とセットで与えられてしまったものだったのかもしれない。
心と身体が不協和音を奏でるのは、この才能と要らない能力のせいだとすれば。
他の人に「ギフト」できるのなら、熨斗(のし)と過剰包装した上にリボンまでかけて贈りたい。
「gift」は「神からの贈り物」という意味もあるという。どうして自分にそんな物が与えられたのだろうか。こんなもの、要らない!
「先生、目を覚まして。私のこの『ギフテッド』と引き換えにしていいから」
それで航平の意識が戻るのなら、バイオリンを弾くことはやめ、本来の性別である「男」として生きよう。
今よりも苦痛に満ちた人生になるかもしれないけれど、航平がいなくなるよりずっといい。
「先生、お願い──」
葵はバイオリンの弦で固くなった指先でそっと航平の額をなでる。指先の皮が固くなればなるほど、先生は喜んでくれた。それだけたくさん練習をして、その証拠を指に刻みつけているんだよ、と言ってくれた。
バイオリンを弾くことは好きだったけど、指先が固くなっていくことが嫌だった葵にとって、航平のその言葉はとてもうれしかった。
爪を伸ばしてきれいにマニキュアを塗りたかったけど、大好きなバイオリンのために我慢した。
それ以外のところで「女の子」に見える努力はおしみなくした。
航平が目を覚ましてくれたら、それはもうしないから。
両親から贈られた本来の性として生きていくから。
だから──お願い。
しかし、航平はピクリとも動かない。
呼吸しているのかどうか不安になり、口元に手をあて、わずかにかかる息にほっと息を吐く。
航平は昨日、葵のコンサートの後に葵のために、と新しいバイオリンを受け取りに行ってくれた。バイオリンを受け取るために最終の新幹線に乗って行き、受け取ってその足ですぐに寝台列車に乗り……こちらに帰ってきた。そして、葵の元へ行く途中に、事故にあったという。
救急車が駆けつけた時、航平はその腕の中にバイオリンを抱えていた。
バイオリンを持っていなかったら、もしかしたら助かったかもしれない。
葵はそう思うと、いたたまれない気持ちになる。
自分のために……航平はいつもそうだった。
「先生、お願い」
葵のかすれた声。それに呼応するように、航平のまぶたがピクリと動いた。
「先生?」
「……ああ、葵か」
うっすらと目を開き、航平は葵を見た。
葵の目には、昨日の夜、葵と別れてから事故前の風景が航平の顔にかぶって見える。
「バイオリンは……無事なのか?」
「バイオリンのことなんていいから! バイオリンより、先生、自分の身体を大切にしてよ!」
葵の言葉に航平はかなり不機嫌な表情になる。
「あれは、おまえの運命を良くするバイオリンなんだ」
「よくしてないわよ! 先生が事故に遭うなんて、不幸のバイオリンじゃない」
葵の言葉に航平は力なく笑う。
「ボクとしたことが、ぼんやりしていたよ。あのバイオリンを君が弾いた時のことを考えていたら」
「馬鹿じゃないの!」
「馬鹿……か。そうかもしれないな」
航平はふっと笑みを浮かべ、
「葵、すまない……」
「なにがすまない、よ。早く元気になって、また私に教えなさいよ! 先生が守ったバイオリン、いくらでも弾いてあげるから」
葵は極力、いつもの口調で航平に言った。
「あのバイオリンは……ボクの魂を吸い上げて、完成するんだ」
「なに、馬鹿なこと、を」
「ボクが死んでも、あのバイオリンのせいにしないでくれ。そして、ボクと一緒にあのバイオリンで世界を──旅してくれないか」
航平の言葉に葵は涙が溢れそうになった。
「ほんと、ばっかじゃないの! 私が先生を演奏旅行に連れて行ってあげるから、早く元気になりなさいよ!」
「ボクはずっと、君と演奏したいと思っていた。ボクのこの身体は駄目になるけど、魂はバイオリンに宿るから」
「なに馬鹿なことを」
葵はそれ以上、言葉を紡げなくなった。
「葵、すまない……」
航平はもう一度同じセリフを言い、ゆっくりと瞳を閉じた。
「先生? やだもう、ふざけないでよ!」
葵がいくら呼び掛けても、航平は二度と目を覚まさなかった。