『愛してる。』


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未来へ架ける橋06



 それから退職日まで、お屋敷から会社に車で送り迎えしてもらうこととなった。
 智鶴を高校に送り、深町が運転してきた車に乗り換えて出社、という慣れない生活と退職に伴う片づけなどで、奈津美と蓮は疲れていた。
「あそこのマンションでの生活ってほんと楽だったんだね……」
 ぐったりとしている奈津美に蓮も賛成する。
「そんなに経ってないのに、もうあそこでの生活が懐かしいよ」
「慣れるまでの辛抱だよ」
「……慣れるのかなぁ」
「嫌でも慣れるよ」

 そして最終日。すべて引き継ぎも終わり、もう少しで就業時間が終わりという時。蓮は奈津美がいないことに気がついた。奈津美がなにも言わないでどこかに行くことは、今の状況から考えても、今までのことを考えても、あり得ない。やられたか?
 蓮は焦ってフロアを探すが見当たらない。もしかして、と思い非常階段に行くと……そこには、奈津美とテレビ画面でしか見たことがない真理がいた。
「ご本人さまが堂々と登場ですか」
 奈津美の姿を確認して、蓮はほっとする。
「蓮っ!」
 奈津美の安堵したような表情を見て、蓮も少し、安堵する。
「これを逃すとしばらくあなたたちに会えないと思いまして、少し危険を冒して会いに来た甲斐がありました」
 深町によく似た顔をしているが、深町が絶対にしない表情をした真理は瞳の奥に闇を抱いていた。
 奈津美はその瞳に、ぞっとした。蓮は奈津美の元まで歩いて行き、後ろにかばう。
「なんですか? わたしがなにかすると思いました?」
 真理は懐から封筒を取り出し、こちらに差し出した。
「今日は挨拶とお詫びです。この間はうちの部下が手荒なことをしたようでして。修理代です、受け取ってください」
 奈津美は蓮の前に出て、躊躇することなく封筒を受け取る。
「ありがたくもらっておく」
「奈津美?」
 本当に受け取っている奈津美を見て、蓮は焦る。
「私はあの修理費、自費で出すのは嫌だからね!」
 あそこの修理の見積もりを出してもらってため息をついていた奈津美を思い出し、蓮はそれ以上言うのを諦める。
「あんたのせいで、私と蓮の平穏な日々がなくなったのよ。返してよ!」
 贅沢は望んでいなかった。蓮と一緒に仕事をして、一緒に過ごし、そのうちくるコウノトリを待って……。少し仕事に不満はあったけど、それでもとても充実した日々を送っていた。
「私がなにをしたっていうのよ」
 泣きそうな奈津美に真理はすがめて、
「そうですね。あえていえば……わたしがあなたたちを気に入った、ってことでしょうか」
「あんたなんかに気に入ってほしくないわよ!」
「わたしは秋孝のことは嫌いですが、あいつの人を見る目は一目置いていましてね」
 真理は楽しそうに笑いながら話す。
「あなたたちふたりに興味を持っているのを知って調べたら……なかなか面白そうじゃないですか。秋孝なんて馬鹿の元で働かず、深町と一緒にわたしの元にきて働きませんか? 待遇は秋孝が提示したものより上の条件でいいですよ」
 真理の目的が分かった。秋孝はきっと、真理の目的を知っているだろう。だから「これでも足りない」と言っていたのか。
「お金の問題じゃないのよ。だれと一緒に、どんな仕事をするのか、が重要なの! あなたとなんて一緒に働きたくない!」
 奈津美のきっぱりした拒否に、真理はますます笑う。
「わたしも嫌われたものですね。まあ、いいでしょう。秋孝が嫌になったら、いつでもわたしのところに来てください。わたしはいつまでも待っていますから」
「冗談じゃないわよ! 絶対にあんたのところになんか行くもんですか!」
 真理は本当に楽しそうにくくく、と喉の奥で笑う。
「そう拒否されると、ますますどうやって手に入れようか……征服欲に火が付きますね。気に入りました、奈津美さん。あなたが無理でも……あなたの子どもでもいいのですよ」
 子どもがまだな奈津美は、その言葉に傷つく。
「こ、子どもができても絶対にあんたのこと、子どもも好きになんてならないわよ!」
「それは分かりませんよ……?」
 妙に自信たっぷりに言われると、奈津美は少し揺らぐ。だけどやっぱり、この男のことは好きになれない。生理的に受け付けない。
「おや、就業時間が終わりましたね。わたしもおいとまさせてもらいますよ。また会いましょう。その時は……よいお返事をいただけると信じていますよ」
 真理はにやりと口角をあげて奈津美と蓮を見つめ、右手をあげてとんとん、と軽やかに非常階段を降りて行った。奈津美と蓮は真理の背中を睨みつけたまま、動けないでいた。
「蓮、奈津美!」
 非常階段と社内を結ぶ扉がばん! と勢いよく開けられ、秋孝が現れた。
「ちっ、まりちゃん逃がしたか」
 秋孝は蓮と奈津美を見て、今までそこに真理がいたのを知った。
「慎重派なまりちゃんにしては、珍しくご本人登場とは、よっぽどおまえたちのこと、気に入ったみたいだな」
「気に入っていらなくて結構よ! ああああ、生理的に受け付けない、あいつ!」
 深町に似た顔をしているのに、なんで真理はあんなにぞっとするんだろう。瞳の奥の闇を思い出し、奈津美は自分を抱きしめた。蓮はそれに気がつき、奈津美をそっと抱きしめる。
「奈津美、よく頑張ったね」
 蓮の優しい声を聞いて、奈津美は涙が出そうになった。
「な、なんなの、あいつは?」
「だから、まりちゃん。俺が嫌っているわけ、分かっただろう? まだ深町の方がかわいげがある」
 深町もたまに意地の悪い顔をするけど、真理に比べればまだまだかわいいものだ。近づいただけで闇の中に引き込まれそうなあの瞳。思い出しただけでも気持ちが悪くなる。
「帰ろう」
 秋孝の言葉に奈津美と蓮はうなずき、社内に戻る。自分の席だった机の中身を確認して、忘れ物がないか確かめる。奈津美は着替えて席に戻る。
「みんな、今までありがとうね」
 ブライダル課のメンバーに奈津美はお礼を言う。課長は別の課から来た人がなることになった。顔と名前は知っている人だったので奈津美は安心して任せられると思ったし、蓮も大丈夫、と言っていた。
「なにかあったら美歌を頼ってください。彼女、私の代わりをたまにしてくれていたから」
「分かりました。今日までお疲れさまでした」
 引き継ぎ書も引き継ぎもきちんとできている……はず。あとは残った人たちがなんとかするだろう。
 織物工場の社長にも製糸工場の社長にもきちんと挨拶もできたし、やり残したことはないはずだ。
「どうしてもわからないことがあったら、電話して」
「大丈夫よ。どうにかなるから」
 美歌は微笑んで奈津美と蓮を見送ってくれた。友也と貴史も手を振ってくれている。見送られながらエレベーターに乗り、奈津美はぽつりとつぶやく。
「第四課だった部屋、最後に一度、見ておきたかったな」
「見に行く?」
 蓮の言葉に奈津美はうなずく。蓮は黒いプラスチックのカードを取り出し、行き先階ボタンの下の隙間に入れる。
「懐かしいな」
 周りをびくびくしながらエレベーターに乗り込んで差し込んでいた日々を思い出す。
 久しぶりに降り立ったフロアは、もちろんだれもいないので真っ暗だった。蓮は慣れた手つきでフロアの電気をつけた。ぱっと明るくなり、暗闇に慣れていた目を眩しさに細める。
「思えばここから始まったんだよね。第四課ってだれが名付けたのか知らないけど、『四』って数字は『死』を連想するからあまり好まれないらしいけど……私には『幸せ』の『四』だったな」
 奈津美の言葉に蓮はうなずく。
 窓のない閉塞的な空間。広い部屋に無造作に積まれた段ボール箱。乱雑に置かれた机。……と思っていたら、フロアにはなにもなかった。
「あれ……段ボール箱は私が全部運び出したからないのはわかるけど、机は?」
「撤去したんじゃないのかな」
「ああ、たまに見えていた風景はこの部屋だったのか」
 秋孝は物珍しそうに部屋の中を見ている。
「そういえば」
 ふと奈津美は思い当たる。
「もしかして……社長の悪事を逐一報告していた相手って」
「あ、うん。秋孝だよ」
 ずっと謎に思っていた。蓮と正式に付き合い始め、一緒に仕事をしていてもそういった人と付き合いがあるように見えなかったから。秋孝だったのか、と思うと……すべて納得できた。
「最初に連絡をもらった時は驚いたね。だけどまあ、確かにあいつは……できることなら俺も見たくなかったな、あれは」
 秋孝は思い出したのか、ものすごく嫌そうな表情でフロアを睨んでいた。
「やっぱりあのタヌキじじい、もう五発くらい殴っておけばよかった」
 前に聞いた時は三発と言っていたのに、増えている。
「檻の中からできたら一生出てきてほしくないね。テレビ画面に映っているだけでも、虫唾が走る」
 奈津美は感慨深く部屋を見ていたが、よし、と掛け声をかけて蓮を見た。
「帰ろうか」
 奈津美の笑顔を見て、蓮も笑顔になる。
「ほんと、いろいろあったね」
 ここで蓮に再会したとき──と言っても当時は初対面だと思っていたわけだが──だれがこの展開を予想していただろう。
「人生ってなにが起こるか分からなくて面白いね」
「運命や赤い糸は奈津美は信じないんだったよな」
「うん。あらかじめストーリーが決まっている物語なんて、面白くないもん。先がわからないから、面白いんだよ」
 あまりの急展開に戸惑っていた奈津美も、ようやくふっきれたようだった。
「よし、これからもよろしくねー!」
 奈津美は蓮と秋孝、深町に向かって両手をあげて宣言する。
「奈津美さまは暴走するぞ!」
「フォローできる範囲でよろしくお願いします」
 蓮の言葉に、
「やだ。絶対それは無理!」
 この中で一番年上はだれだろう、と蓮はふと思う。これでは本当に自分はおかんなんじゃないかと錯覚してしまう。
「男はいくつになっても少年だと言うけど……」
「本当にこれだと、あべこべ夫婦だな」
 秋孝と深町は苦笑して奈津美と蓮を見ている。公私ともによきパートナーに巡り合えたふたりを、少し眩しそうに見つめていた。








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