未来へ架ける橋04
*
次の日はいつもの秋孝と智鶴が来ている日曜日と変わらない日を過ごし、お昼を食べてしばらくして、
「水曜日にはそちらの会社に行くから、色よい返事を聞けるのを楽しみにしてるからな」
と言って秋孝と智鶴は帰って行った。
すぐに返事をしてもよかったのだが、そうなると週明けからばたばたしそうな予感がしたので、あえて返事は後にした。
「奈津美らしい選択だな」
「む。週明けから蓮はばたばたしたいの?」
「いや。判断は正しいと思うよ」
そして、週が明けて水曜日。秋孝は宣言通り、朝一番で深町とともにやってきた。
「朝一番で来るって、どれだけ張りきってるのよ」
久しぶりに見る秋孝と深町のコンビを見て、奈津美はため息をつく。
今回はきちんと打ち合わせ室を取って秋孝と深町を案内する。
「この間来てもらった時はすごいひどい扱いをしたからあきれられたと思ってたんだけど」
奈津美の言葉に秋孝は少し意外そうな顔をする。
「気にしていたのか」
「一応ね……。あの日は電話がすごくてあそこから離れるのをかなり躊躇したからああしたけど……ほんと、申し訳なかったと反省した」
お茶をトレイに乗せてやってきた蓮が入ってきたのを見て、秋孝は面白がっている。
「この間の非礼を詫びる」
蓮が少しムッとしながらそう言っているのが秋孝はおかしくて、思わず笑ってしまう。
「ほんとおまえたち、面白いな。なんでそうも同じことを言うかな」
「ひどいよねぇ、秋孝。こっちが謝ってるのに面白がるなんて」
「こういうやつなんだ。許してやってくれ」
蓮の言葉に秋孝と深町は苦笑している。
「単刀直入に言うね。秋孝、その話、受けるよ」
あまりにも単刀直入過ぎて、秋孝と深町はきょとん、と目を丸くしている。
「聞こえなかった?」
「いえ……聞こえています」
秋孝は急に立ち上がり、
「よし、おまえたちふたり。ここの会社、首!」
「はあ?」
「すぐに俺と一緒に働け」
いきなり俺さまモード全開で言われ、奈津美は反論する。
「ちょっと待ちなさいよ! いきなり首ってどういうことよ?」
「言葉の通りだが」
「あのね、引き継ぎだとか挨拶ってものがあるのよ、私にもっ!」
「そんなもの、どうでもいいだろう」
秋孝の暴言に奈津美は切れた。
「いいわけないでしょうっ! ちょっとそれはいい加減すぎでしょっ!」
奈津美と秋孝はにらみ合う。
「秋孝、一週間ほど猶予をくれないか。だいぶ整理がついているとはいえ、すぐのすぐにはさすがに無理だよ」
月曜日から奈津美と蓮は引き継ぎ書の作成に取りかかっていた。と言ってもすでに作っているものだったので見直すだけではあったのだが。
「会社の事務処理の問題もあるだろう? それにオレたち、給料の提示、待遇の話をされていない」
蓮の言葉に深町が苦笑している。
「やはりそうだろうと思っていました」
深町はカバンから書類を一式取りだして、
「あなたたちふたりの待遇ですが」
ふたりは熱心に話を聞いて、疑問は思ったときにすぐに聞いていた。
給料も待遇も問題ない。むしろ思っていた以上の待遇に、ふたりは余計に戸惑った。
「今までの待遇が悪かったんだ。これでも俺は足りないと思っているくらいだ」
「いや、充分だよ」
「だけど……この話をしたら、はたしてそう言っていられるかな」
秋孝はおもむろにその話を始める。
「深町のおじさん?」
「はい。僕と智鶴の父の兄で真理(しんり)、と言いまして……」
辰己(たつみ)真理、タツミホールディングスの元社長で粉飾決済で捕まった。
新聞やニュースを賑わしたから、知らない人の方が少ないというくらいの大騒ぎになったんだけど、その人がどうして出てくるんだろう?
「あいつはどうあっても深町を手に入れたいらしい。で、おまえたちふたりが俺と一緒に働く、ということは、おまえたちもまりちゃんのターゲットになる、ということなんだ」
「意味がわからないんだけど」
「わからないか? あいつはな、どうあっても深町を手に入れたい。深町を手に入れるには……深町の近くの人間に手を出してくる、ということだ」
やっぱり意味のわからない奈津美は首をかしげる。
「蓮は意味がわかった?」
「分かったような、分からないような」
「俺としてはおまえたちふたりもお屋敷から会社に通ってもらった方が警護しやすくていいんだけどな」
ぼそっと秋孝はそう言う。
「は? マンション、どうするのよ」
「貸すなり売るなりすればいいだろう。どうせお屋敷なんて部屋が腐るほど空いてる。おまえたち夫婦のために改装してもいいんだぜ」
「いや、それこそ意味がわからないから」
なんだか話がとんでもない方向に向かっているような気がしてきた。
「まあいいや。まりちゃん、こういうのは仕事が早いから。今週に入って、なんかあっただろう?」
秋孝には隠しごとができないことをすっかり忘れていた奈津美は、むーっと顔をしかめる。
「ロッカー前のアレ……」
月曜日の朝、出社してきて奈津美のロッカーの前にゴキブリの死骸が山積みされていたのは、記憶に新しい。また嫌がらせかと思ったけど、どうも今までと質が違うな、と思っていた。ゴキブリの死骸が置かれていたのは以前にもあったけれど、それは一匹のみだった。しかし、今回は気絶寸前までいくほど……山積みだったのだ。
「あれ……がまりちゃんとやらのせいなの?」
奈津美は思い出して泣きそうになった。
「今回のまりちゃん、おとなしいなぁ……。向こうも様子見、というところか」
秋孝はその時の様子を見ているようだった。
「あいつは平気で人を殺すようなやつだからな。ちぃの両親はあいつに殺されたんだ」
火事で死んだ、とは聞いていたが……。
「俺としては大事に至る前にお屋敷におまえたちふたりが来ることをすすめるな」
奈津美と蓮は顔を見合わせた。
そう言えば、と蓮は思い出す。
「ここのところ、マンションの周り……不審なやつがうろうろしているんだよな」
奈津美を怖がらせないように黙っていたが、秋孝の言うことが事実なら……もうすでに手遅れのような気がしてきた。
「え、うそ」
奈津美はやはり予想通り、青い顔をしている。
「おまえたちふたりが俺と仕事をする、というのはもうまりちゃんの耳に届いているはずだ。そうなると……様子見だけでは済まなくなるぞ」
どれだけのやつなんだ、と蓮は思う。とんでもないことに奈津美を巻き込んだかな、とちらりと後悔の念がよぎる。しかし、もうすでに動き出してしまった歯車を止めることはできない。
これは相当覚悟をしなくてはならないらしい。
「わかった。秋孝、すぐに引っ越しの手配はできるか?」
深町はすぐに携帯電話でどこかに連絡を取っているようだった。
「えっ? 蓮、ちょっと待って」
奈津美は焦っている。
「引っ越しって」
「いいか、奈津美。落ち着いて聞いてくれ」
仕事中にも関わらず、蓮は奈津美と呼んでくる。奈津美はその異変にごくり、と息を飲む。
「俺が見かけたのは、その筋のやつらだった。気がつかれないように普通を装っていたけど、残念ながら妙な殺気は消せなかったみたいで、オレは気がついてしまった」
そういえば、と奈津美は思い出した。蓮は柔道を昔からしていて、黒帯だったんだ、と。それでなくても蓮はとにかく周りをよく観察している。
「秋孝の話を聞いて、合点したよ」
「蓮さん、夕方過ぎでいいですか?」
深町はすでに手配をしてくれたようだった。
「ああ、その方が助かる」
深町は業者が何時頃にくるのか教えてくれた。
「すべて向こうにしてもらうように手配しました。秋孝、お屋敷の部屋の確保は?」
「じいに電話してやってもらってくれ。どこか適当な部屋があったはずだ」
深町は再び携帯電話でどこかに電話をしていた。まさか……こんな大ごとになるとは思ってもいなかった。あまりのことに、別世界の出来事のように奈津美は聞いていた。
「とりあえず今日からお屋敷がおまえたちの家になる。マンションは売り払うなり貸して金にするなり好きにすればいい」
気にいっていたマンションをあっさり手離さなくてはならなくなり、奈津美はしょんぼりした。
「気に入ってたのにな、あそこ」
「そうだな。あそこのマンション、すごく居心地がよかったから……俺も残念だ」
秋孝は申し訳なさそうな表情で奈津美を見ていた。
「だけど、ちぃは喜ぶな。週末におまえたちの家に行くのをすごく楽しみにしていたから」
それだけが救いと言えば、救い、か?
「夕方にまた来る」
秋孝はそう言って、お茶を飲み干すと深町を連れて出て行った。奈津美と蓮は部屋に残され、どちらからともなくため息をついた。
* *
奈津美と蓮は角谷の元に訪れ、経緯を話した。角谷は驚いてはいたが、自分のことのように喜んでくれた。
「きみたちふたり、わたしのもとで腐らせるのはとてもおしいと思っていたので、旅立ってくれるのはとてもうれしいことです」
とは言うものの、かなりさみしそうな顔をしていた。
「角谷部長には……本当にお世話になりっぱなしで……」
奈津美は少し泣きそうになった。
席に戻ると一之瀬から電話が入っていたらしく、メモが残っていた。電話をかけると前に話をした会議室に来てほしいと言われ、ふたりそろっておもむく。
「話は聞きました。おめでとうございます」
深町がすでに人事部に話をしてくれたらしい。仕事の早さに感心した。
「第四課で過ごした日々が昨日のことのように思えます……」
しみじみと一之瀬は言う。
「一之瀬さん……あ、そういえば、松尾さんとご結婚されたんですよね、おめでとうございます」
いつか話を聞きに行こうと思っていたのを今になって思い出した。
「聡香(さとか)ちゃんをどうやって買収したんですか?」
聡香は松尾依子の娘の名前だ。
「買収だなんて、人聞きが悪いですね。聡香ちゃんには前からいろいろと……」
きちんと下準備をしていたらしい。
「急な話ですみません」
奈津美は一之瀬に謝った。
「謝ることはないですよ。前から言われていましたから、準備はできていますよ」
「は? なんだって?」
深町の妙ににこやかな笑顔を思い出した。
「……あいつっ……」
「一之瀬さんと深町さん、気が合いそうだよね」
なんとなく系統が似ているような気がしてきた。一之瀬は準備していた退職にあたる資料を奈津美と蓮にどっさりと渡した。
「すぐに提出してくださいね」
にっこりと微笑まれ、奈津美と蓮はため息をついた。
席に戻り、すぐに書類に目を通して署名・捺印をしたり調べて書きこんだりしていた。
「奈津美、どうしたの?」
一度退職している美歌はすぐに気がついたようだ。
「あー、うんと……」
そういえば、まだ話をしていなかったのを思い出した。
奈津美はブライダル課の人たちを集め……と言っても美歌と貴史、友也の三人なのだが、ことの経緯を簡単に説明した。
「なぬ?」
話を聞き終わり、三人は絶句する。それはそうだろう。いきなり降って湧いてきた新会社設立に伴う退職、と聞かされたのだから。
「いきなりだな」
「うん。私も聞かされたのは、実は土曜日なんだよね……」
奈津美の言葉にさらに三人は驚く。
「な、なっちゃん? そんな性急に将来を決めて、いいの?」
友也の言葉に奈津美は笑う。
「もうね、決まってたようなものだし」
決してあきらめたような響きではなく、それは未来を期待しての言葉。友也にもそれは分かったので、それ以上なにも言わなかった。
「ゆうとの約束が守れないのが残念だわ」
奈津美は由布子と約束していた。友也を将来的に社長にする、と。
「まあ、私が要らないお世話するより、ともくんは自力で社長になるよね?」
「は? なに言ってるの?」
「奈津美さん!」
背後でいきなり声がして、奈津美は驚いて飛び上がった。
「ななな、き、木村さん?」
由布子が真後ろに立っていた。
「会社辞めちゃうって、本当ですか?」
今にも泣きそうな顔をしていて、心なしか息も切らしているようだ。
「情報、早いなぁ」
そう思っていると、次から次へと人がやってくる。蓮に会いに来た、という人が大半だったのだが。これを見て、やっぱり蓮の方が人望あるな、と奈津美はぼんやり思った。蓮も連れて行かなくては自分の仕事に支障がありまくりなのはわかったけれど……独り占めしているのも申し訳ないな、と思う。
奈津美は一之瀬から渡された提出物にすべて目を通し、記入しなければならないところはすべて済ませた。
「蓮、提出してこようと思うんだけど、書けてる?」
いろんな人に囲まれている蓮にどうにかたどりつき、奈津美は聞く。
「あ、書けてるよ」
奈津美は机の上に置かれていた蓮の提出物を確認して、
「出してくるね」
「ちょっと待って! 山岸、先輩について行って」
「ひとりでいけ……る」
蓮の表情がかたいことに気がついた奈津美は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「ともくん、ごめんね」
奈津美の言葉に友也は苦笑した。
「気にするな」
一之瀬の元に提出しに行った。
途中、見覚えのない人とエレベーターが一緒になったけれど、友也が奈津美を隠したので奈津美は気がつかなかった。奈津美たちが知らないところで、すでに動き始めていたのだ。
だれになにを引き継ぎするか、は奈津美と蓮が相談して決めていたのでそれほど問題なく引き継げた。
しかし。
「角谷部長はだれを課長にする気なんだろう。それに、私たちの抜けた穴はどうするのかな」
「まあ、今日の今、は無理だろう。明日あたりにでもお達しがくるだろ」
蓮の言い分はもっともだった。