愛してる。13
製糸工場を訪れて、一週間。
奈津美はすぐに会社に戻り、マスター登録申請をしたのだが。
「蓮、総務部に怒鳴り込んできていい?」
「どうしたんですか、先輩?」
「先週、製糸工場の新規契約のマスター登録を申請したんだけど、まったく登録されてないのよ」
奈津美は社内システムをにらんでいた。
「それはないでしょ。先輩、なにか間違って申請してるんじゃないですか?」
蓮も同じように社内システムを見て、検索をかける。
「あれ。ほんとだ。ないですね」
蓮はマスター管理画面を見ていた。
「先週から一件も新規登録されてないですよ」
「ったく、なにさぼってんのよ」
奈津美は立ち上がり、エレベーターに向かった。
「先輩?」
「総務部に行ってくる」
蓮は慌てて奈津美の後を追う。
「先輩!」
「仕事が進まなくてイライラしてるのよっ!」
とにかくなにをするにもマスター登録されていないとなにもできない。
「あんなのすぐにできるでしょ。怒ってくる」
奈津美は二階にある総務部に出向いた。
「あら、小林課長」
きれいに茶色に染めた髪を縦ロールにしてばっちりお化粧を決めた女が奈津美を認めて、声をかけてきた。
女は蓮を見て、媚びるような視線を流してきた。
奈津美は一瞬、眉をひそめたが、
「取引会社のマスター管理してる人、だれ?」
「ああ。松尾さんよ」
奈津美と蓮は意外な名前を聞いて、顔を見合わせた。
「松尾さんは?」
「先週からずっと病欠」
「病欠!?」
先週といえば……。
奈津美に心当たりがあったのでひそめた眉をさらにひそめた。
「で、病欠はいいとして。他にだれかいないの?」
「いませんよ。そうそういじるものじゃないからひとりで充分でしょ」
女は縦ロールのロール部分に人差し指を入れ、くるくるといじっていた。
奈津美はそのしぐさにいらいらした。
「松尾さんがいない間の業務、滞るじゃないの。だれか代役いないの?」
「いませんよ。それで?」
「あのね。私、新規で申請出してるでしょ。急いでるのよ」
奈津美の言葉に女は依子の席に行き、埋もれている書類を探していた。
「ああ、これね……。急いでるって言う割には、提出日は一週間前。本当に急いでるんですか?」
奈津美はその言葉に、切れた。
「つべこべ言わずに早く登録しなさいよ!」
「えー、アタシ、わかんないー。小林課長、こっわーい」
蓮は奈津美と縦ロールの女のやり取りを見て、ため息をついた。
そして奈津美の書いた申請書をひょいっと女から取り上げ、
「オレが代わりに登録してやるよ」
と言って、依子のデスクのパソコンに電源を入れ、机の上に置かれていた登録マニュアルを開いた。
「よく見たら申請書、たくさん来てるな」
依子の机の上はそれなりに書類が置かれていて、どれも申請書のようだった。
「蓮、登録方法、わかるの?」
「マニュアル見ればわかるよ」
蓮は机に座り、マニュアルを見ながら登録している。
奈津美と縦ロールの女は後ろから見ていた。
机の上にたまっていた申請書があっという間に片付いた。
申請書に登録日と付与されたIDと登録者を記名して、すべて作業は終わったらしい。
蓮は依子のパソコンの電源を切って椅子から立ち上がった。
「これで終わり。杉山さん」
蓮は縦ロールの女……名前はどうやら杉山というらしい……を見て、
「あなたも日本語が読めるのなら、マニュアル見て登録すればみんなスムーズに仕事ができてみんな幸せになれると思うんだけど、ね? 暇してるんでしょ」
にっこりほほ笑みながら、申請書の束を渡した。
杉山はぼーっと蓮を見つめていた。
奈津美は蓮の言葉にくすくす笑った。
蓮は奈津美の腕を掴んで、その場を去った。
奈津美と蓮が総務部の扉をくぐった頃、杉山は蓮に言われた意味をようやく理解したらしい。
「なに、今の!?」
その声を聞いて、奈津美は笑いをこらえるのに必死になった。
エレベーターに乗り、奈津美はお腹を抱えて爆笑した。
「先輩……笑いすぎだよ」
「あははは! おかしすぎる!!」
「先輩みたいに何事も正面からいくから、喧嘩になるんですよ」
蓮の言葉に奈津美はむっとした。
「悪かったわね」
「まあ、そこもいいところなんですけど……。時と場合によりますね」
蓮はしれっという。
「それよりも。松尾さんには困りましたね」
蓮は腕を組んでなにか考えている。
席に戻るなり、蓮はなにかを調べていた。
奈津美は先ほど蓮が登録したばかりのマスターから情報を引っ張ってきて、手続きを開始した。
隣では蓮はどこかに電話をかけている。
電話を切るなり、
「先輩、定時後、ちょっと出かけよう」
「どこに?」
「それは後でわかる」
それだけ言ってさっさと蓮は仕事に戻った。
奈津美は疑問に思いつつ、定時に終わるように仕事を進めた。
奈津美と蓮は定時に仕事を終え、会社を出た。
「どこに行くの?」
蓮はなにも言わないで家の方角へと向かってはいるものの、家にはいかずに駅へと向かった。
改札を通り、電車に乗り込む。
久しぶりに電車に乗った。
駅三つ目で蓮は電車から降りた。
そこは以前、蓮が住んでいたアパートの最寄駅のもう一つ先の駅だった。
改札を通り、蓮は迷いなく歩く。
奈津美は聞いても答えてくれないのがわかったので仕方なく無言で蓮について行った。
日が暮れてきて少しさみしい住宅地を奈津美と蓮は歩いた。
蓮は途中、立ち止まり、スーツのポケットから紙を取り出して、何かを確認して、また紙をしまった。
少し歩いたところ、道は行き止まりになっていて、その横に建っているアパートに蓮は顔を向けた。
それと同時に一階の真ん中のドアが開き、中から人が出てきた。
「松尾さん……?」
蓮は奈津美を自分の後ろへやった。
依子はドアを閉めて鍵をかけ、こちらに向かって歩いてきた。
「松尾さん」
蓮の言葉に依子はびくり、と身体を震わせ、奈津美と蓮を見た。
「え……」
依子は驚きの表情をして、止まった。
「一週間も病欠って、大丈夫ですか? 心配で見に来ました」
「…………」
蓮の言葉に、依子は警戒している。
「でも、お元気そうで安心しました」
奈津美は蓮の後ろにいるので、表情は見えない。
にこやかな声をしているが、きっと目は笑っていないだろう、と奈津美は想像する。
「オレ、松尾さんを投げ飛ばしたからちょっと心配してたんです」
それは本音らしい。
「今から娘さんのお迎えですか?」
「!」
意外な言葉に、奈津美は蓮を見上げた。
「聡香(さとか)ちゃん……と言いましたか」
「佳山さん……あなた……」
依子はようやく、口を開いた。
「別になにもしませんよ。ただ、松尾さん、あなたは仕事をやめたら困るんですよね? オレたちも松尾さんに仕事してもらわないと、困るんですよ。今日も総務の杉山さんと奈津美が喧嘩になりまして」
なんで蓮は……そんなかなり詳しいプライベートなことを知っているの!?
「蓮、また……」
「ん? 情報入手ルートは、秘密」
また社内システムに無理矢理侵入して情報を得たらしいということは分かった。
「明日から、出社してくれますよね?」
蓮はにっこりとほほ笑み、依子を見た。
「なんで……」
「なんで? うーん、いろいろと……頼まれてまして。一之瀬さん」
「は?」
なんでここで一之瀬の名前が?
と思っていたら、後ろからだれかが来る気配がした。
目の前に見たことのある後ろ姿が奈津美の視界に映った。