『愛してる。』


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愛してる。12



   *   *

 ようやく落ち着いた蓮は、奈津美から少し離れた。
「……ごめん」
 奈津美は蓮を抱きしめて、両頬をそっと包んで見上げた。
「今日は……ありがとう」
 奈津美はトイレでの出来事を……依子の狂気に歪んだ瞳の色を思い出し、少し身震いした。
 あの時……本当に怖かった。
「今回オレ、気がついたことがある」
 奈津美と蓮は靴を脱ぎ、リビングへ移動した。
「奈津美は男相手だと、弱いな」
「そりゃあ……ねぇ」
「でも……女を相手にすると……、オレでも怖かった」
 依子に最後に向けた奈津美の表情を思い出して……蓮はぶるりと身を震わせた。
「そんなことないよー」
「たぶんあれ、男相手にやったら……怖がられるぜ」
「できないよ。女だとどう出てくるか分かるけど、男相手って……読めないから」
 あの後、あのふたりがどうしたかは知らない。
「あれじゃあ一之瀬さんの言ってた『救い』にはなってないよね」
「救うどころか……どん底にさらに穴掘って埋めただろ、あれは」
 奈津美は蓮の言葉に、しょんぼりとした。
「また松尾さんに会わないといけないのか……。嫌われちゃったからなぁ」
「あれだけのことをすれば……嫌がられて仕方がないかと」
「キスをしようとしただけじゃない」
「『だけ』ねぇ」
 蓮は複雑な気分になる。
 女相手のキスは、キスのうちに入らないらしい、奈津美の中では。
 どうもここのところ、奈津美にはさんざん振り回されているような気がしたが……。
 それは自分が望んでいることだから……仕方がない。
 奈津美のことを知れば知るほど……好きになり、愛の深さが増しているように思う。
 オレって……マゾだったのかな、とちらっとその考えが頭をよぎるが……。
 それでもいい、と思っている自分がいる。

「松尾さん……あのままだとまずいよねぇ……」
 奈津美はぶつぶつ呟いている。
「蓮、松尾さんってどこの部署か知ってる?」
 蓮は即答で、
「総務部」
「総務部かぁ」
 奈津美は渋い顔で天井を見上げた。
「できたら総務部とはかかわり合いたくないんだよなぁ……」
「なにかやったの?」
 蓮はソファの背に頭を預けて天井を見上げている奈津美の顔の上に逆さから覗きこんだ。
「いやぁ……」
 と言いながら、奈津美は目を泳がせている。
 なにかやったらしい。
「オレが行ってこようか?」
「蓮が? なんで?」
 奈津美はきょとんと蓮の顔を見た。
「だって、総務部に行きたくないんだろう?」
「行きたくないって言うより……向こうが私のこと、避けてるんだよねぇ」
 公私混同は極力しない奈津美なのに、妙に歯切れが悪いのは……。
「仕事でなにかやった?」
「……思い出したくもない」
 なにか激しくやりやったらしい。
 蓮はそれ以上追及することはやめて、台所へ向かった。
「ご飯作るの?」
 奈津美は蓮を目だけで追って、そう聞いた。
「うん。なにか食べたいもの、ある?」
「お魚食べたい」
「言うと思った」
 蓮はにやりと笑い、今日の夕食のメニューを考えながら、冷蔵庫から食材を取り出した。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

 ようやく戻った日常……。
 のようで、奈津美はどこかでずっと依子のことが引っ掛かっていた。
 向こうもそう思っているのかどうかはわからないが、動きがまったくなくて……不気味に思いつつも、こちらからはどうコンタクトを取ったらいいものかわからず。
「はぁ」
「先輩、今日でそのため息、そろそろ十回目なんですけど」
 隣の席の蓮にそう指摘され、奈津美はもう一度、ため息をついた。
「十一回目」
「小林さん、幸せが逃げますよ?」
 聞くはずのない声が聞こえて、奈津美はびっくりして立ち上がった。
「あ……れ? ゆ……木村さん?」
 制服を着た由布子が立っていた。
「在庫報告書、持ってきましたよ」
 由布子は奈津美に在庫報告書の帳票を渡した。
 在庫は社内システムで見ることができるのだが、たまにこうやって帳票にして在庫管理部から提出されることがある。
「これが出てくるってことは、なんか在庫がやばいの?」
「在庫はあるんですけど、生産中止になったものが含まれているとか話してましたよ」
 奈津美は由布子の言葉に眉根を寄せ、渡された帳票をめくる。
「うわっ! 苦労して仕入れたこの糸、生産中止なの!? あの禿げオヤジめ……!」
 ようやく探し当てた糸、思ったより安くて喜んで仕入れていたんだけど……。
 にやにやした顔の禿げオヤジ、なにか含んでいると思ったら。
「また一から探しなおしか……」
 奈津美は頭を抱えた。
 困ったことにホテルの宿泊客よりシーツの売れ行きの方が好調らしく、かなり値の張る金額なのに、飛ぶように……とまではいかないでも売れている。
 クオリティを保つためには余り糸というわけにもいかなくなってきてあの在庫の糸に近いものをようやく探し出し、販売できるまでこぎつけたのに。
「木村さん、ありがとう」
 奈津美は由布子にお礼を言った。
「いえ。おふたりの顔も見たかったし、気分転換に」
 とそこへ、友也が戻ってきた。
 その瞬間、由布子の顔が真っ赤になった。
 友也も由布子に気が付いて立ち止ったが、右手と右足が同時に出る、という器用なことをして自席に戻った。
 奈津美と蓮は内心にやにやしながらふたりを見ていた。
「こ、こんにちは……」
 由布子は消え入りそうな声で友也に挨拶をした。
 友也は目だけで会釈をして、
「あ……、退院したんですね」
「はい……」
 そこで会話が終わってしまった。
「わ、わたし、戻ります!」
「また来てね?」
 由布子は慌ててまわれ右をして、半ば走るように去って行った。
「あ」
 途中でなにかにつまづいて、こけそうになったのを奈津美は見てしまった。
「あーあ、あんなに取り乱して。かわいいなー」
 奈津美はくすくす笑いながら由布子の去った後を見ていた。
 奈津美は一通り笑い終わって、
「さてこれ、どうしよう」
 奈津美はブライダル課の課長であるのと同時に、余り糸のシーツも担当していた。
「織物工場の社長に相談してみたら?」
「そうか! 餅は餅屋だ!」
 奈津美はぽんっと手をたたき、名刺を入れたファイルを取り出して社長のところに電話していた。

 蓮は奈津美の電話を聞くともなしに聞きながら、自分の作業に戻っていた。
 そしてふと前の席の友也を見ると。

 心、ここにあらず。
 蓮は友也を見て、ため息をひとつ、ついた。
「先輩のため息がうつっちゃったよ」
 電話を終えていた奈津美は蓮の独り言を聞き逃さなかった。
「私がどうしたって?」
「あ、いえ。き、聞こえてた?」
 奈津美は無言でにっこりと笑った。
 蓮も顔を引きつらせながらにっこりと笑い返し、こっそりと友也を指さした。
「あー」
 奈津美は友也を見て、
「こっちもねぇ……どうにかしないとねぇ」
 奈津美は右手で軽くこぶしを作って自分の後頭部を叩きながら、
「とりあえず、蓮。今から外出できる?」
「あ? オレだけ?」
「いや。今からちょっと話をしに行かないといけないところがあるんだけど。同伴してくれるとうれしい」
「キリいいところだから、大丈夫だけど」
「そう、ちょっと待ってね」
 そう言って奈津美はまたどこかへ電話をかけた。
「アポ時間より少し早いけど、すぐに出られる?」
 奈津美は机の上を片付けながら、蓮にそう話しかけた。
「いいけど?」
 奈津美の真意がわからなくて、蓮は少し疑問の感情をこめてそう答えた。
「山岸さん」
 向かいの席でぼーっとしている友也に奈津美は声をかけた。
「今から私と蓮、出かけてくるから」
「あ、はい」
「今お願いしている仕事、今日中にあげてね?」
 奈津美はにっこりと友也に笑いかけた。
 そのとたん……友也は青ざめた。
「え!? 明日まででいいって……」
「事情が変わったのよ。よろしくね? あがってなかったら、わかってるわよね?」
 にこやかに笑う奈津美に……友也はぞっとした。
「はい! 山岸友也、全力出して頑張ります!」
 友也はいきなり立ち上がって右手を挙げ、そう宣言した。
「ともくん……。その体育会系のノリ、直さない?」
 奈津美はげんなりして、友也を見た。

 奈津美と蓮は久しぶりに仕事での外出をした。
「前はよく出かけてたのに、久しぶりだね」
 糸が決まらないであちこち飛び回っていた頃を思い出し、奈津美は笑った。
「蓮がいなかったら私、迷子になってたからなぁ」
「先輩、地図が読めないもんね」
「違うよ! 地図が間違ってるんだよ!」
 地図を作っている人たちが聞いたら怒りそうなことを奈津美は言っている。
 蓮は苦笑しつつ、
「で、その方向音痴の先輩は、オレをどこに連れて行こうとしているわけ?」
「あ」
 奈津美は今から向かう先を調べてくるのを忘れたことを蓮に言われて思い出した。
「……その顔は、調べてないでしょ」
 蓮は奈津美に向かって手を出した。
「はい、住所教えて」
 奈津美はごそごそとメモを取り出し、蓮に差し出した。
「ここか」
 蓮は住所を一瞥して、奈津美に返した。
「もういいの?」
「いいよ。だってそこ、織物工場の横だろ?」
「は?」
 奈津美は先ほど電話で聞いた道を思い出していた。
「あ……。そっか、どこかで聞いた道のりだと思ったら……」
「先輩……」
「なーんだ、初めての場所だからちょっと早めに出ようと思ってたのに。あそこならそんなに時間、かからないじゃん」
 奈津美は安堵したように、笑っている。
「オレがついてきて、よかったですね、先輩」
「ほんとにね」
 蓮がこうしてフォローしてくれるから助かる、と奈津美はいつも感謝していた。
「蓮は公私ともに私の優秀なパートナーだね、ありがとう」
「だから先輩……。後ろガラ空きすぎですよ」
「蓮はだって、後ろからいきなり私をばっさりは切らないでしょ? だから大丈夫」
 蓮は奈津美のその言葉に、苦笑するしかなかった。
 奈津美と蓮は織物工場の横の製糸工場を訪ね、事情を説明して、まったく同じものは作れないが、似たような糸なら作れるということで新規で会社の契約をすることになったのだが。





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