愛してる。11
「おはようございます」
奈津美は努めて明るく挨拶をして、室内に入った。
時間五分前。
部屋の中を見ると、半分くらいの人が集まっていた。
奈津美の挨拶に、だれも返さない。
大人げないなーと奈津美は思う。
奈津美はいつもの席に着き、蓮はその後ろに立つ。
いつもの月曜日の風景。
時間になり、角谷が部屋に入ってきて。
「おはようございます」
その声に、口々に挨拶を返す。
「ホテル事業部報告会議を始めます。なにかある人は」
角谷の声に、だれからも手が上がらない。
それを見て、奈津美は挙手した。
「小林さん」
角谷は意外そうな顔をして、奈津美を見た。
「はい」
奈津美はその場に立ちあがった。
「おはようございます」
その言葉に、だれも返事を返さない。
「あ、みなさん。まだおやすみですか?」
にこりと笑い、奈津美は集まっている面々を見る。
「社会人として、挨拶できないような人たちがこの部を仕切っているって、悲しいですね」
奈津美の言葉に、空気が凍る。
「ここ何か月か毎週参加させていただきましたが。挨拶できない、会議を開いてもなにひとつ議題がでてこない。みなさん、給料泥棒ですね」
にっこり……嫌味なくらいの笑顔を奈津美は向ける。
蓮は意外そうな顔をして、奈津美を見守った。
奈津美は蓮に合図をした。
蓮はゆっくりとひとりひとりに奈津美が作った資料を手渡す。
そっぽを向くもの、受け取りを拒否するもの。
蓮は心の中で苦笑した。
ここのおっさんどもは……子どもだな、と。
若くて女で……しかも短大卒というハンデキャップを背負って出世した奈津美に、ここのオヤジどもは嫉妬しているのだ。
おまえのような若造に俺たちの苦労のなにがわかる、と言わんばかりのオーラを出していて……。
蓮は配り終え、奈津美の後ろに戻った。
「私がこの一週間でまとめた資料です。ま、見ていただけないようですが、これを見て、少し現実を見つめなおしていただきたいものですね」
奈津美の作った資料は、奈津美が提案したシーツの導入前と導入後の客足状況と売上高の資料だった。
明らかに目に見えて客足が増え、売上高が上がっている。
「みなさん、私がこの部に配属前からこうやって毎週会議をして、なにか進展してますか? たかがビジネスホテルだから適当にやっていればいい、と思っていませんか?」
奈津美はそこで一度言葉を切り、会議室を見回した。
「ここに集まってぼーっとする時間があるのなら、企画書のひとつでも書いてみる、コストを見直してみるということができますよね? この会議に意義を感じている人、いらっしゃいます?」
だれも……返事をしない。
「意義を感じていないのに集まるって、もったいないですよね。じゃあ、来週から集まるの、やめましょ」
「小林さん」
角谷がようやく、口を開いた。
「わたしも……常々それを感じていたよ。でも……言い出せなくてね。キミにこんな感じで悪役をやってもらって……申し訳ない」
角谷の言葉に奈津美は微笑む。
「だれかが言わないと変わらないことですから」
「月曜日のこの定例会議、廃止に意義がある人は挙手して」
ぱらぱら、と手が挙がる。
「今手を挙げた人、意義を唱える理由を」
と角谷は言うと、全員が手を下した。
奈津美はそれを見て、クスッと笑った。
「では、廃止にしよう。なにか議題があったときにわたしが召集をかける、そういう形にしていいかな?」
角谷の言葉に、全員が挙手する。
「では、そのように。今日の会議は終了とします」
角谷が一番に退室した。
がたがたっ、と椅子を立ち上がる音がして、そそくさと部屋を後にする。
奈津美はほっとして、動けなかった。
奈津美と蓮は全員が部屋を出るのを待ってから、口を開いた。
「先輩……。やること大胆すぎ」
「そう?」
とは言うものの、奈津美は明らかにほっとした表情をしている。
「先輩、戻りましょうか」
「あ……うん」
そう言ってもなかなか立ち上がろうとしない。
「……奈津美?」
蓮は奈津美の横に立ち、奈津美の視線の高さに合わせる。
「もしかして」
蓮の言葉に奈津美はかーっと赤くなる。
「緊張しすぎて、腰が抜けた?」
「う、うるさいわね!」
どうやら図星だったようだ。
「た、タヌキオヤジども相手に……心臓が壊れるかと思った!」
まったく緊張しているそぶりを見せないから……大丈夫だと思っていたら。
蓮は奈津美の手を取った。
緊張で手のひらには汗をかいているが、指先は氷のように冷たくなっていた。
「怖かった?」
「こ、怖くないよ! 蓮がいてくれたから」
つかんだ手から、震えを感じた。
ふわり、と奈津美は蓮に抱きしめられた。
「れ、蓮!? 今は仕事中だよ?」
「うん、知ってる。大丈夫だから」
それでもいつもの蓮の匂いがして、奈津美は安心した。
「先輩が……あんなに頑張り屋さんだったなんて、知らなかった」
「……我ながら大胆だったって……思ったよ」
奈津美は思い返して、苦笑した。
かなり年上のおじさんたちを、奈津美は挑発した。
奈津美の態度が気に食わないとなにかしてくる人がいるかもしれない。
あれだけ正面切って喧嘩を売ったようなものだから。
「あれ、オレがやってたら……絶対無理だな」
「そんなことないよ」
「いや。オレが奈津美と同じ立場で同じことしてたら……猛反発くらってたな」
角谷のおかげでどうにかなった感も否めない。
「あとで部長に謝りに行ってくる」
「奈津美は……角谷部長が好きなんだね」
「うん。お父さんみたいで」
奈津美の父も部長職らしいので、余計に親近感がわくのだろう。
「お礼はねーさんのチケットを渡すから、安心して」
「えー、ものでつるの、よくないよー」
「いいの」
いいのかなぁ、と思いつつも、角谷は喜んでくれるから……。
「角谷部長には嫉妬しないんだ」
「しないよ。オレもあの人、好きだもん」
ふたりは顔を見合わせて、笑った。「さて、片付けて帰ろうか」
「あ、私、お手洗い」
奈津美は蓮に助けてもらって立ち上がり、会議室を出た。
蓮は手早く部屋を片付けて、奈津美の荷物を持ち、なかなか帰ってこないことに嫌な予感がした。
この十階の会議室に来るには、通常ルートでは来れない仕組みになっている。
前もって使用する人は登録しておき、一回限りのパスを発行してもらって初めてこの階に来ることができる。
ただし、役付きクラスになると、社員証がパスになるため、そんな面倒な手続きは不要になる。
今のさっきでなにかあるとも思えないが……。
嫌な予感がする。
蓮は焦って部屋を出て、女子トイレに向かった。
「奈津美!?」
蓮はトイレに向かって声をかけた。
「れ……!」
奈津美の声がしたが、口をふさがれたのか、聞こえない。
女子トイレなのを躊躇したが、蓮は荷物を放り出し、中に入った。
中に入ると……。
「おまえ……」
松尾依子と知らない男が奈津美をはがいじめにしていた。
口にははんかちをかまされ、しゃべれないようにされていた。
「あら、王子さまはお早いおつきで」
依子はにやりと笑って蓮を見た。
以前見たときより暗い目をしていて……蓮はぞっとした。
「あなたが前の社長を捕まえたんですって?」
依子はヒールをコツコツと言わせて、蓮に近寄った。
「なかなかいいこと……してくれたわね」
依子は蓮を見上げて手を伸ばし、顎に手をかけた。
「ほら、あたしにキスして?」
「!」
奈津美は男を振り払おうと必死にもがくが、力の差は歴然で、動けば動いただけ、痛い。
「断る」
「あら。じゃあ……彼女がどうなっても……いいの?」
「それも断る」
蓮の言葉に、依子は男に合図を送る。
「奈津美になにかしてみろ。今日がおまえたちの命日になるぞ」
そう言った途端、蓮は依子の腕を掴んで場違いながらも教科書に載せたいくらいきれいな背負い投げで依子をトイレの床に投げ飛ばし、その足で奈津美の元に行き、奈津美をはがいじめにしていた男の左腕をつかみ、奈津美からひきはがした。
それはあまりにも一瞬の出来事だった。
「大丈夫か、奈津美!?」
蓮は男を振り払って投げ飛ばし、奈津美を引き寄せ、はんかちを外した。
「蓮、遅い!」
涙目の奈津美を強く抱きしめ、蓮は謝った。
「ごめん……」
依子と男はうめいている。
「おまえら、ただで済むと思うなよ」
蓮はにやりと笑う。
「あ、蓮。こ、怖いから!」
「奈津美がこんな怖い目にあったのに、ただで済ますわけないだろう!?」
蓮の腕の中で奈津美は震えている。
ものすごく怖かったのがわかる。
「松尾さん、」
蓮の声に依子はびくり、と身体を震わせた。
「オレの大切なものに手を出したら……どうなるか、知ってるよね?」
「そ……それでもいいのよ! あなたが振り向いてくれるなら!」
依子はキッと蓮を見る。
「あたしはずっと、あなただけを見ていたのに! なんでそんな女がいいのよ!」
依子の言葉に、蓮の瞳から感情が消えた。
「あたしの方がいい女よ! そんな色気のない女のどこがいいのよ!? あなたは……間違っている!」
奈津美は苦笑した。
なんかもっと気の利いた台詞が聞けるかと思っていたら……あまりにも陳腐で……。
あんなに怖かったのに、恐怖心はどこかへ消え去った。
「言いたいことはそれだけか?」
腹の底から湧きあがってくるような冷たい声に……依子はひぃ、と悲鳴を上げた。
「オレの警告を無視して……これはやったんだよな? 覚悟はできているか?」
自分に向けられている言葉ではないのはわかっていても……だからこそ奈津美はさっきとは別の意味で、怖くなった。
今の蓮は、奈津美より依子に気持ちが向いている。
「嫌だ! 蓮、私だけを見て!」
奈津美は気がついたら叫んでいた。
「嫌だ。蓮が別の人を見るのが……一番怖い……!」
「奈津美……」
「蓮は私のものなのよ。あんたなんか、見てもらう資格なんてない!」
奈津美の言葉に依子は敵意をむき出しにして、かみつく。
「これを見てもまだそう言えるの?」
そう言って、依子は奈津美と蓮の前になにか投げた。
奈津美は一瞥して、
「で?」
そこには、奈津美と由布子がキスしていたり、それが美歌だったり……見たくないけど貴史とのだったりした写真があった。
「これがなにか?」
「こんな無節操な女、あなたにはふさわしくないわ」
依子は動揺している。
本当は……これをみて、奈津美が動揺するはずだったのに、なんで自分が動揺しているんだろう。
「で、この写真は……どういうつもり?」
奈津美は依子を睨みつけた。
「蓮が知らないとでも? おあいにくさま、蓮は知ってるわよ」
「!?」
依子はなぜかぎょっとする。
「ねぇ、松尾さん?」
奈津美は目を細め、依子をくすくす笑いながら見る。
「あなた、やることが甘いのよ」
奈津美はゆっくりと依子に近寄る。
依子は……奈津美になにをされるかわからない恐怖からか、後ずさりする。
依子は壁にぶつかり、恐怖に顔をゆがめている。
奈津美はそれを見てにっこりと微笑み、依子のそばまで歩き、しゃがみこんで依子の顎に手を当てて上を向かせ、覗き込む。
「キス、してあげようか?」
依子は再度、ひぃ、と悲鳴を上げた。
「どんなキスがお好み? あなたに選ばせてあげる」
奈津美は恐怖で泣きそうな依子の瞳を覗き込みながら、唇を近付ける。
依子は抗おうとしているが、恐怖で動けない。
唇と唇が触れそうになったところで……。
「奈津美」
蓮は奈津美の首根っこをつかみ、止めた。
「あん! 止めないでよ!」
「おまえ……。こいつらより明らかに悪役だぞ、それ」
「えー」
奈津美はブーイングを蓮に向けるが、蓮は奈津美の顔を見て、苦笑する。
「ほんと、今日は意外な奈津美をたくさん見れた」
「意外じゃないよー」
なんとなく今までもこうやって奈津美が嫌がらせなどをしてきた人たちを封じてきたのかと思うと……思いやられた。
「だからなんで……やることが男っぽいんだ」
「うーん。そう?」
あっけらかんと奈津美はそう言うが……。
「松尾さん、まだ私に嫌がらせするのなら……覚悟しておくのね」
にっこり笑って、依子に近づく。
「来ないで!」
依子は恐怖に顔をゆがめ、全身で奈津美を拒否する。
「あー、嫌われちゃった」
傷ついた表情で奈津美は依子を見る。
それは……嫌われても仕方がないだろう。
「あ、私の大切なゆうを傷つけた罰」
奈津美は嫌がる依子に近づいて、両腕を素早くつかみ、右の耳たぶを軽くかむ。
「奈津美!」
蓮が止める間がなかった。
「っ!」
依子は羞恥で真っ赤になる。
奈津美は依子の腕を離し、
「少しでも後悔の念があるのなら、ゆうに謝って」
蓮は奈津美の冷たい瞳に……ぞくっとした。
ふたりは何事もなかったかのように仕事に戻り、今日の業務をすべてこなして家路についた。
玄関のドアを閉めるなり、蓮は奈津美の腕を掴んだ。
「な、なによ、蓮」
「あんなこと……もうするな!」
「なんで?」
蓮は奈津美を抱き寄せて、激しいキスをする。
「蓮!」
息が苦しくなり……奈津美は息を求めて口を開いた。
そこに蓮の舌が割って入ってきた。
いつも以上に激しく求められ……奈津美は戸惑う。
奈津美は蓮に身を任せた。