愛してる。03
奈津美と蓮は由布子の病室へ戻った。
こんこん、と扉をたたくと、由布子は起きていたようで、中から返事が返ってきた。
「あ、起きちゃった?」
「あ……。小林課長……すみません!」
奈津美が病室に顔をのぞかせると、由布子はベッドの上からそう謝った。
「あああ、寝てて! それと、その小林課長はやめて」
「でも、課長でしょ……?」
奈津美たちの会社は、学歴よりも実力重視。
いくらいい大学を出ていても仕事ができないものは、容赦なく切られる。
短大卒の奈津美でも課長になれたのは、その実力を認められたからだ。
入社十年で課長職は……それでも異例の出世で……。
それでなくても蓮と結婚したことでかなりいろいろ言われていたが、さらに課長となり、陰口を結構叩かれているらしい。
「蓮をたぶらかした女」と蓮のファンは陰口を言っているらしいんだけど、それは蓮をバカにした発言ではないか、とは常々思っていたりはする。
あなたたちの大好きな佳山蓮は、私みたいな馬鹿な人間にたぶらかされるような私よりも馬鹿な人だと思っているんですか、と言ってやりたい!
という話を蓮にしたら、蓮は苦笑していた。
『それは正しいな。オレ、奈津美より下だし』
と言っていたけど、どっちが上とか下とか思っていない奈津美にしてみれば、蓮をグーで殴りたかった。
でもそれは冗談で、わかっていて蓮は言っているから、仕方がないなと諦めた。
きちんと奈津美のことを蓮は対等に見てくれているし、お互いが尊敬し合える関係だって向こうも思ってくれていると……奈津美は勝手に思っている。
なんだか結婚してから蓮に対して諦めが多いような気がしたけど、それは後ろ向きのあきらめってわけではなく、蓮にはかなわないな、という意味での諦め。
だから好きになったんだな、と思う。
奈津美はそんな陰口にバカらしくて付き合えないから、言いたい人はいえばいい、とぐらいにしか思っていない。
「小林課長と呼ぶ人を次々ばっさばっさと切るから、余計に陰口言われるんでしょ、小林課長」
「仕事出来ないからはっきり言ってやっただけじゃない。そんな肩書を覚える暇があるのなら仕事しろって」
というものの、奈津美はきちんと役職のついている人にはきちんとつけて呼んでいる。
どうやら自分はその中には入ってはいけないと思っている節がある。
「若いながらも苦労があるのよ、私には」
「会社的にはね」
蓮の言葉に奈津美はむっとした。
「で、木村さん。これ使ってね」
奈津美は由布子に蓮が買ってきた入院グッズを手渡した。
「え?」
「ないと不便でしょ? ……って、蓮……」
中身を見て、奈津美は頭を抱えた。
「なんでしょう、小林課長」
蓮に渡された入院グッズの入った紙袋の中を見て、奈津美は赤面した。
「気がきくわね、と言いたいけど」
歯ブラシやコップ、スリッパ、あとはティッシュといったものと一緒に、下着も入れられていた。
「あー。それね、売店のおばちゃんに『女の子が急に入院になって困ってるんだけど』と話をしたら、入れてくれたよ?」
しれっと蓮は答える。
たぶん、そんなことをしていないのは、奈津美は知っている。
売店のおばちゃんに聞くより、自分で探して買った方がはるかに早いし、間違いがないからだ。
でもこの際、由布子にはそう言っておいた方が……たぶんその方がよいのだろう。
奈津美は蓮が下着を買っているのを想像しようとして……やめた。
「医者の指示があるまでは部屋からも出ちゃダメみたいだから」
奈津美はさっき自動販売機で買った水とお茶を備え付けの冷蔵庫の上に置いた。
「パジャマは病院に言えば貸してくれるみたいだし。一週間、暇だろうから私、たまに寄るね」
「え……でも……。忙しいんでは……」
「あー、大丈夫。優秀な部下がいるから」
奈津美はにっこり微笑んだ。
「山岸と山本のヤマヤマコンビをまだこき使うのか」
「うん。だって、仕事出来る人はやっぱり使わないともったいないでしょ?」
友也は言うまでもなく一を言えば十一くらいはやってくれる。貴史もまあ……いえば十くらいのことはしてくれる。
蓮は言わなくても、二十くらいのことはしてくれるから、困る。
「でもまあ、ちょっと谷間の時期で、よかったかなぁ……」
そんなふたりの会話を、由布子は黙って申し訳なさそうに聞いていた。
「親に連絡入れなくていいの?」
「わたし……。もう両親、なくしてますから」
「あ……。ごめんね」
「いえ」
そう言った由布子の瞳には、なにも感情がなかった。
これは……困ったな、と奈津美はちらっと思った。
「いつまでも他人の私たちがいても木村さん、疲れるでしょ? なにかあったら連絡して。いい、遠慮しないのよ? 私たち、ここから近いから」
奈津美は名刺の裏に自分の携帯電話の番号とメールアドレスを書いて、由布子の手に握らせた。
「木村さんの連絡先も教えて」
奈津美に強く言われ、由布子は拒否できず、素直に教える。
「行く前に連絡いれるから……って、病院って携帯電話禁止だっけ? まあいいや。メール入れるから」
そう言って、奈津美と蓮は病室を後にした。
外を出ると、まだ日が高かったが、気がついたらもう夕方だった。
「時間、中途半端だけど、どうする?」
「うーん、今日は早く帰ろうか。優秀な部下ふたりにあとは任せて。さっき蓮が言ってた話、聞きたいし」
「う……。覚えていたのか」
奈津美は会社に電話をして、友也にこのまま帰ることを告げ、状況を確認して、次の指示を入れて、切った。
奈津美と蓮のふたりは買い物をして、家に帰った。
荷物を片付けて、着替えてもまだ早い時間だった。
「さて、」
奈津美はアールグレイをふたり分入れ、ソファに腰かけた。
香りを楽しんでいたら、ようやく蓮が横に座った。
「さて、蓮はなにをしたの?」
にっこりと笑っている奈津美が怖かった。
「あ……う……」
「ま、大体想像はつくけど」
奈津美はそういって、紅茶を一口。
「余計なことだった?」
「んー。なにしたのか分からないから、なんとも」
蓮は重い口を開いた。
「嫌がらせしていた人たちに一言言っただけ」
そう言ったとたん、蓮は奈津美の両手首を掴み、耳元で囁く。
「奈津美はオレの物だ。なにかしたら容赦しないからな」
奈津美は蓮のその言葉に、心臓が止まりそうだった。
そうして離れた蓮の顔は……今まで見た中で一番冷たかった。
瞳に人を殺す力があったなら、三回くらい死んでいそうだ。
「……とやっただけだよ」
次の瞬間にはいつもの蓮がいた。
「殺されるかと思った」
奈津美の心臓はまだどきどきしていた。
「こんな顔だから、あまり迫力なくて困る」
「いや……怖かった」
あれが本気で自分に向けられたら、泣く。
「オレ、女は泣かしたくないけど、奈津美はもっと泣かしたくない」
しかし。
さっきのセリフ、なにか引っ掛かる。
「なんか私、蓮の所有物?」
「うん、オレのもの」
奈津美はその一言に機嫌が悪くなる。
「……奈津美?」
むっとした奈津美にすぐ蓮が気がつく。
「なにかオレ、いけないこと言った?」
「うーん……。なんだか釈然としないのよね……」
「奈津美はオレだけのもの。一生離さない」
そういって蓮は奈津美を強く抱きしめた。
「蓮……。苦しいよ……」
蓮は奈津美の胸に顔をうずめて、
「奈津美のいい匂いがするー」
奈津美は蓮の髪をなでて、
「それ、行き過ぎるとストーカーになるよ」
「うん、自覚はある。……自覚があるから押さえようと思うんだけど……暴走しそうになる」
どこかに閉じ込めて独り占めしたいという気持ちがどこかにある。
だけどそれは人としてやってはいけないことだし、やってはいけないし、本当にする気はない。
そんな思いが自分にあるのが驚きで……。
「オレ、こんなに独占欲強いって思ってなかった……。今までほんと、何事も冷めて見てたんだなと思ったよ」
「それだけ想ってくれてるのはうれしんだけど……」
奈津美は戸惑う。
それだけ想われる価値が自分にはあるのかな、と。
自分はそれだけ強く……蓮のことを想っているのだろうか。
蓮は「愛してる」と言ってくれるけど、私は……蓮のこと、愛してる?
好きだし……大好きだし……。
『好き』と『愛してる』と……どう違うんだろう。
「奈津美、愛してる」
「うん……。ありがとう」
奈津美は応えられない。
蓮はきっと、奈津美の言葉を待っている。
「蓮のこと、大好きだし……特別に想ってるんだけど」
「だけど?」
この先の言葉は言っていいのか分からない。
でも蓮はきっと、答えてくれる。
「大好きだけど……。どれくらい大好きか、わからない」
蓮は苦笑して、
「素直だね、奈津美は」
「笑わないでよ。すごく悩んでるんだから」
蓮は顔をあげて、奈津美を見た。
下から上の目線が苦手な奈津美は、赤面した。
「相変わらず弱いんだね、奈津美は」
くすっと笑って、かすめるようなキスをする。
「奈津美のそういうところ、好きだよ。だからますます……離れたくない。奈津美のこと、今からもいっぱい知りたい」
「それは私も同じだよ。蓮のこと、もっともっと知りたい」
視線が絡み合い、ふたりは自然とキスをして……。
ぷるるるる……
せっかくいい雰囲気だったところ、滅多にならない家の電話が鳴った。
「ったくだれだよ」
蓮は舌打ちをして、電話に出た。
「はい、」
蓮はなにか話している。
「いえ、要りません!」
そう言って、がちゃんと乱暴に電話を切る。
「ああああ、出るんじゃなかった!」
「なに?」
「セールスの電話」
奈津美と蓮ふたり、同時にため息をついた。
「ふふっ」
そしてどちらからともなく、笑った。
「ご飯、作ろうか」
「うん」
ふたり仲良く、ご飯の支度にとりかかった。