愛してる。02
由布子の話を聞き終わり、奈津美と蓮は渋い顔をした。
「また……あいつか……」
名前を聞いて、蓮は激しく嫌な顔をした。
奈津美も思い出して、同じく嫌な顔をした。
「あの……なにか……?」
「ああ、私もね、以前、彼女に嫌がらせを受けていたのよ」
奈津美の言葉に、由布子は目を見開いた。
これは……彼女のびっくりした時の癖かもしれないな、と奈津美は思った。その顔があまりにもかわいくて……奈津美は微笑んだ。
嫌がらせと言っても、奈津美の場合はロッカーの前にゴキブリの死骸を置かれたり(ゴキブリ大っ嫌いの奈津美はその時を思い出して、泣きそうになった)、目の前でエレベーターを閉められたりといった「ばっかじゃないの!?」で済むレベルだったのだが。
「これはねぇ……。犯罪、だよねぇ」
経緯は知らないが、直接暴力をふるってくる、という状況は……。
「いただけないなぁ……」
蓮は腕を組んで唸っている。
「社内いじめか……。そんなことしてるからいつまでも彼氏ができないんだよ、あの人」
「奈津美さま、それは言い過ぎ……」
松尾依子(まつお よりこ)、年齢36歳。仕事よりも人の噂話や嫌がらせが大好きな人。
かなり歪んでいて病的だな、と奈津美は思ったけど、どうしようもできなくて困っていた。
「最近大人しいと思ったら……こんなことやってたのね……」
奈津美は大きくため息をついた。最近、依子の話を聞かないと思っていたら……。
「さぁて……。どう調理しよう」
蓮はうれしそうに考えている。
「あの、わたし……!」
由布子が口を開いた。
「大丈夫ですから。今日の朝、あまりにもひどいので抵抗したら……こうなっちゃって」
そう言って、由布子は力なく笑う。
「うん、抵抗したのはえらい!」
奈津美は由布子をほめた。
「ああいう輩は抵抗できない人をターゲットにしていたぶるからねぇ……」
「でも、あの人の場合は抵抗すると……やばかったんじゃないのかな」
蓮の言葉に、奈津美はうっと詰まる。
奈津美に嫌がらせをしていた頃は依子は何人かとそういうことをやって本人的に「楽しんで」いたらしいのだが、蓮に睨まれていると知ったお仲間は……ひとり、また一人……と減って、今は依子ひとりがやっているという話も聞く。
「あー、またあいつらと接触しないといけないかと思うと……。気が重いなぁ……」
蓮の言葉に、奈津美は過剰反応する。
「な、蓮!? なにやったの?」
「あー、うん。独り言」
蓮はしまった、という顔をしていたが、もう遅い。
「蓮?」
奈津美はにっこりと蓮に微笑む。蓮はこの奈津美の笑みに弱い。
「あ……はい。あとで話しマス……」
「そう。よろしい」
にっこり笑い、奈津美は由布子を見た。
「お医者さまからどれだけ話を聞いた?」
「あ、はい。あまりよくないみたいで……一週間入院って」
「私も同じことを聞いたわ。とりあえず、会社にはきちんと話をしておくから。心配しないで。ね、蓮?」
奈津美は蓮を見た。
「あー、はい。やりますやります。やらせていただきます!」
蓮の言葉に奈津美は満足して、うんうんとうなずいた。
最近、蓮をこき使いまくっていると自覚はあるものの……蓮はうれしそうだ。本人に聞いてみたけど、本当に喜んでやっているらしいので、奈津美は遠慮なくこき使いまくっているのだが。
「えっと、木村さんは、一人暮らし?」
「いえ……その……彼氏と…」
由布子は消え入るような声で言った。
「同棲?」
「……はい……」
その目がおびえているようで……奈津美は疑問に思いつつも、あまり立ち入ったことを聞くのもと思い、聞かなかった。
「彼氏に入院中の荷物、持ってきてもらう?」
「あ、いえ! そんなこと……!」
由布子の激しい動揺に奈津美と蓮は顔を見合わせた。
「どうしよう……。私が取りに行ってあげ……」
「だめ!」
明らかなおびえの瞳に、奈津美は訝しがった。
「木村さん?」
「……だめです、だめなんです!」
由布子は顔に手を当て、いやいやと頭を振った。
「あ、木村さん、頭振ると危ないよ」
奈津美の言葉に、由布子はますますおびえたようだった。
奈津美は由布子を落ち着かせて、つかれているだろうから少し眠るように言った。由布子は素直に奈津美の言葉に従った。
奈津美は蓮に仕事や由布子のことを指示して先に会社に戻した。奈津美は心配になり、このまま由布子の元に残った。 すやすやと穏やかな寝息を立てて寝ている由布子にほっとしたのもつかの間。
由布子は突然唸りだし、
「やだ! やめて! 孝祐(こうすけ)やめて!」
とベッドの上で暴れ始めた。
奈津美は焦ってナースコールを押した。
ばたばたという音がして、看護婦がやってきた。
「あの、木村さんが……!」
看護婦は由布子の様子を見て、名前を呼んで由布子を起こそうとした。
「やめて!!!」
起こそうとした看護婦を、ものすごい力で跳ね飛ばした。
「!?」
奈津美はやばいと感じて、看護婦を後ろからとっさに抱きとめた。
奈津美の力では止められず、看護婦と一緒に床に投げ出された。
奈津美は思いっきり尻もちをついた。
「いったー……」
「だ、大丈夫ですか!?」
看護婦は慌てて立ち上がり、奈津美の上にいたことを謝った。
「それよりも、木村さんを!」
由布子はベッドの上で暴れている。
点滴のスタンドも由布子が暴れるので、チューブに引っ張られて、ものすごい音を立てて倒れる。
部屋の扉があけっぱなしなので、廊下にもその倒れた音が聞こえたらしく、音を聞きつけた他の看護婦が慌てて病室に駆け込んできた。
部屋の様子を見た看護婦ふたりは、ひとりがだれか別の人……たぶん医者だろう……を呼びに行き、もうひとりが元からいた看護婦と一緒に由布子を押さえつけた。
「木村さん!」
奈津美は叫んだが、聞こえていないようだった。
由布子は暴れていたが、急にぴたっとおさまった。
「…………」
さっきのようにすやすやと眠る由布子に……奈津美はあまりのことにびっくりして、床に座り込んだまま、動けなくなっていた。
そのあと、医者が来て、また奈津美は病室から出された。
部屋の外のソファに座って、奈津美は今のはなんだったのか考えた。
……今のは、なんだったの?
あれは……医者の言っていた傷と……今日のあの事件と……なにか関係があるの?
呆然としてソファに座っていたら、蓮が荷物を持ってやってきた。
「奈津美?」
茫然自失している奈津美に不思議に思った蓮は、訝しげに声をかけた。
「あ……蓮……」
「どうしたの、こんなところで」
「蓮こそ」
奈津美は無表情に蓮を見上げた。
「ああ、木村さんの入院グッズを持ってきたんだけど。その様子だと、奈津美の方がやばそうだな」
蓮は奈津美の横に座った。
「なにか言われたのか? でもみたところ、言われたって様子じゃないけど」
奈津美はさっきあった出来事をどう説明すればよいのか悩んでいたら、由布子の病室から医者と先ほど飛ばされた看護婦が出てきた。
「あの……」
「さっきは大丈夫でしたか? ごめんなさい、わたしの下敷きになっちゃって」
「!?」
看護婦の言葉に、蓮は驚いて奈津美を見た。
「そのことでお話が……」
医者にそう言われ、奈津美は家族控室に連れていかれた。
「会社の同僚ということですが……なにかご存知ないですか?」
医者に開口一番、そう聞かれた。
「そこまで親しくないので……」
このことがあるまで、奈津美は由布子のことは知らなかった。そんなことを聞かれても、困る。
「木村さんが寝る前になにか、話をしましたか?」
そう聞かれて、奈津美は素直に答える。
「入院中の荷物を彼氏に持ってきてもらうか私が取りに行こうかと言ったら、激しく拒否されました。……ものすごく……おびえた目をしていました」
そういえば……だれかの名前を言っていたような気がした。
奈津美は必死になって思い出し、
「そうだ。『こうすけ』って……言ってました」
「彼の……名前ですかね?」
それはこっちが知りたい。
「わかりました」
そう言って、医者は立ち上がった。奈津美も従うしかなかった。
奈津美はうなだれて、家族控室を出た。
医者に礼をして、見送った。
蓮は奈津美が出てきたのを見て、そばに来た。
「なに言われた?」
「あ……うん。なにも。聞かれただけ」
医者からは由布子の先ほどのことに関して、なにも言われていない。
「奈津美は大丈夫なのか?」
「え? なにが?」
「看護婦の下敷きになるって、普通、病室でそんなことになるなんて、ありえないだろう」
蓮は本気で心配している。
「うん……。なんだか分んないんだけど、木村さん、寝ていたらいきなり暴れだして。私、あわててナースコールで看護婦さん呼んで……」
奈津美はなにがあったか説明した。
由布子が眠る前に話したことも含めて、すべて話した。
「あと……。医者がぽろっと言ってたんだけど。身体のあちこちに傷があるらしくって」
「傷!?」
奈津美も見ていないから、その傷がどの程度のものかはわからない。
しかし、医者が問題視するほどっていうのは……。
「あまり考えたくないが……」
奈津美と蓮は、同じ結論に達した。
「DV(ドメスティックバイオレンス)か」
会社のいじめ以上に厄介だ。奈津美はため息をついた。
会社のことは仕事上のことだからどうにもできそうだが……依子がらみだから気は重かったが……プライベートのことになると……口をはさめないが。
「知っておいて放置は……できないなぁ、さすがに」
奈津美は前髪と一緒に頭を抱えた。
それも、あんなにおびえて、あの暴れ様。相当なものなのだろう。
「私、どうすればいいんだろう」
このまま見捨てられないし。
だからって今日、初めて知った他人の問題に……。
土足でずかずか上がりこむようなことしていいとも思えないし。
「オレは奈津美がしたいようにすればいいと思うよ。できる範囲で手伝うし」
「またそうやって甘やかす」
蓮の言葉に、奈津美は困った顔をした。
「うーん……。オレが奈津美の立場だったら、やっぱりほおっておけないし。あ、オレはもともとお節介だから余計にかもな」
蓮はとにかく、女に甘い。
仕事では男女平等を徹底しているけど、仕事から外れると、とにかくやさしいし、甘すぎる。
見た目も美人なうえに、そうやってやさしくて甘やかすから……勘違いする人もそりゃあ、いても仕方がないよなぁ……。
でもそれは蓮のいいところだから、直させようとも思わない。
直せって言っても直さないだろうし、それはなおすべきことではない。
ライバルが増えると最初はいろんな人に嫉妬したけど。
バカらしくて、最近はやめた。
蓮は確かに女の人にやさしいし甘いけど。自分に対しての態度と違う。
他人に対して蓮は激しく線を引く。線というより、壁だ。それも万里の長城クラスではきかないくらいのものすっごい壁。
知り合って二年。
まだまだ知らない蓮がたくさんありそうだけど、これだけはわかった。
蓮は一度、自分の懐に人を入れると、とにかくやさしくて甘くて……どんなわがままも聞き入れてくれる。
懐に入れた大切な人とその他の人との態度の違いに……奈津美はよく苦笑する。
その他の人にも優しいんだけど、時折見せる氷よりも冷たい表情……それはきっと、蓮の本当のやさしさを知る人にしかわからない、表情。
それを奈津美が知るようになってから、嫉妬することをやめた。
蓮が言うように、蓮は死ぬまでずっと自分のことを愛してくれる。
でも、奈津美はその蓮の「愛」に甘えることなく……っても、蓮は甘やかしすぎるから、ついつい甘えている部分もあるんだけど。
奈津美は蓮との生活の中で蓮への「好き」をたくさん見つけて……幸せだった。