失恋から始まる恋もある


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《二十章》「這い上がるとき」



 それから数日は、なにも動きがなかった。出勤時、角谷とたまたま会社への道が一緒になった。
「小林さん」
「あ、部長。おはようございます」
「おはよう。君にいい知らせだよ」
 角谷はうれしそうだった。
「はい?」
「インターネットでうちのホテルが口コミで広がって、女性プランの予約が少しずつ増えているらしいよ」
「本当ですか?」
 口コミに関しては、実は奈津美がちょっと仕掛けたものもあった。それでも、こんなに急速に広がるとは思ってもいなかった。
「宿泊客、増えるといいですね」
「ああ、そうだね」
 奈津美はコンビニに寄ると言って、角谷と途中で別れた。奈津美はコンビニで飲み物を買い、店を出た。そこへ貴史がふらり、と現れた。
「おはようございます、山本さん」
 奈津美は緊張しつつ、声をかけた。
「ああ…………」
 最後に見たときより、貴史は痩せたようだった。奈津美を見ているのか見ていないのか分からない瞳で見て、ふらふらと会社へと向かっていた。
 きっと、貴史のことを考えたら、おとがめがあった方がよかったのだろう。あの姿を見て少し心が痛んだが、自業自得。
「女って、怖いな」
 真後ろから聞き覚えのある声がした。
「おはよう、蓮。なにが怖いって?」
「いえ??」
 振り返ると、にやにやしたいつもの顔があった。
「今日は朝一番で出社なんて、珍しいわね」
「あれ、聞いてないの?」
「なにが?」
「あ。なんでもない」
 蓮はそう言って、あわてて会社へと走って行った。
「ちょっと!」
 奈津美は追いかけようとしたが、すでに蓮の姿は消えていた。奈津美は不思議に思いつつ、会社のエントランスへ行った。
 周りにだれもいないのを確認して、いつものように奈津美はエレベーターに乗り込む。行き先階ボタンの下の隙間にいつものようにカードを入れた。ういーん、と静かにエレベーターは動きだし、下へ向かった。
「おはようございます」
 見慣れた第4課に着くと、すでに一之瀬も来ていた。
「あれ、一之瀬さんも今日、早いですね」
「はい」
 一之瀬はにこにこと奈津美を見ている。
「?」
 疑問に思っていると、蓮がどこから仕入れてきたのか、いきなりぱーん! といい音をさせて、クラッカーを鳴り響かせた。
「な、なに!?」
「小林さん、おめでとうございます!」
「は? なにが??」
「あなたはめでたく、この課から卒業です!」
「????」
 奈津美はいきなりのことで、驚いた。
「あなたが初めてです、この課から抜け出たのは」
「え……?」
 きょとんと一之瀬を見た。
「今回のあの企画、とりあえずの成功です。なので、あなたの功績は認められ、この課から卒業となりました」
「先輩、おめでとう!」
 突然のことで、奈津美はなにも言えない。
「それでですね。角谷部長がぜひともきみを、と熱いエールが来ていまして」
「あ……え……」
「今日付けであなたはホテル事業部に異動になりました」
「!」
 一之瀬は少し悲しそうな顔をして、
「うれしいのですが、淋しくなります……。よかったですね、と笑顔で送り出したいのですが、わたしは少し、悲しいです」
 一之瀬にそう言われ、しんみりした。
「あなたのがんばりは、わたしたちがずっと見ていました。どん底でも負けないあなたの強さ。そしてなによりも、あなたのその笑顔」
 奈津美は面と向かってそこまで褒められることがなかったので、妙に居心地が悪かった。
「一之瀬さん、私をそんなに褒めても、なにもでませんよ」
「思ったことを素直に口にしたまでです」
 一之瀬は黒い細い眼鏡を人差し指で押し上げた。

   *   *

「あと、もうひとつ……。いや、ふたつかな? 朗報ですよ」
「?」
 奈津美と蓮は一之瀬を見た。
「まずひとつ」
 一之瀬は改まってこほん、と咳払いをした。
「本日付で、この第4課は解散となります」
「へ?」
 奈津美と蓮は顔を見合わせた。
「え、なくなるんですか?」
「はい」
「なんで?」
 蓮の言葉に、一之瀬は笑った。
「蓮、喜んでください。ここから出られるんですよ?」
「あ、いや、うれしんだけど……。いきなりすぎて……」
 一之瀬は蓮の言葉に、にやりと笑った。
「それには蓮、あなたの今までの頑張りがあったからなんですよ」
「……え?」
「ふたつ目の良い話……良い話なのかな? うーん……。会社的にはよくない話なんですけど」
 一之瀬は歯切れ悪く、奈津美と蓮を見た。
「夕方の新聞に載ると思うんですが、今日の朝、社長が逮捕されました」
「!!」
 社長が逮捕!?
「え、どうして……?」
 奈津美はあまりのことで、びっくりした。
「まあ……。蓮くんがここのところずっと外出していたのはその……裏を取るためにあちこち調べていたんですけどね……」
「オレは社長を殴ってここに来た、って言っただろう」
「ええ」
 蓮は社長を殴ってここに来た、と蓮本人の口から聞いた。
「オレ、あの社長がとにかく許せなかった」
 蓮はぎゅっとこぶしを握りしめた。
「オレ……見たんだ……。社長が……」
 ぐっとなにかをこらえるように蓮は眉間にしわを寄せ、
「明らかに中学生と分かる子を……売春していたんだ」
「!?」
「最初、街でたまたま社長を見かけて……。挙動不審だったからこっそり後をつけたんだ。そうしたら……中学生の子と……ホテルに入っていくのが見えて」
 それが事実なら……。
「下半身で捕まるのは……やめてほしいですよね……。社名に傷がつく」
 一之瀬の言葉に、奈津美はうなづいた。
「それで、いろいろ調べたり社長をつけたりしてみたら……。これがとにかくひどくて」
 自分も買うけど、別の仲間にも売る、泣き叫んで嫌がる子にも強要していたという。
「うっわー……。それは……最低だわ」
 奈津美は話を聞き、眉をひそめた。あまりにも……ひどすぎる。
「中には小学生もいたようですね」
「………………」
「で、社長にそのことを問い詰めたらしらばっくれるから……。つい、我慢できなくて、気がついたら殴ってた。かつらだったのは……まあ、殴った反動で……外れただけなんだが」
「殴っただけで取れるかつらって……」
「小林さん、突っ込むところ、そこじゃないから」

   *   *

「それで、社長逮捕を受けて、会社としては即解雇、と」
「素早すぎないですか、その対応」
 奈津美は驚いた。
「蓮が情報を逐一、経営陣に提供していましたからね」
「社長が、最近問題になっていた巨大売春グループの幹部だった、ってのが……」
 これは……会社にとっては激しくマイナスになる……。
「経営陣が実はつながっていた、ってことは?」
「どうやらそれはなさそうです。社長ひとりが個人的にやっていたことみたいです」
 それにしてもだ。とにかく、ひどい話だ。
「物的証拠を固めて、とにかく逃げられないようにするのに時間がかかったけど、あれだけ証拠を固めたから、逃げられない」
 蓮はずっとひとりでその証拠を探していたのか。
「それで、社長は解雇、新しく別の人が社長になるわけですが、この課は逮捕された社長が作った課なんです。こんな会社の暗部、新しい社長は残しておかないと思いますよ」
 この課は、「第4課」と名前はついているが、ようするに「リストラ寸前課」なのだ。リストラにするより、自分から辞めるように仕向ける方が、会社としてはいろいろと都合がいいのだ。
「どこまでもあの社長、腐ってやがる……」
 蓮が怒るのも分かるし、殴りたいのも分かるが。
「やっぱり……殴ったのは……よくなかったかもね」
「……それはもう言うな。殴り足りなかったんだから」
 なんか……いや、かなり違う。
「さて、ここの在庫もかなり減りましたし、わたしは本来の人事部に戻りますね」
「え、一之瀬さんって、人事部だったんですか?」
 奈津美はびっくりした。
「そうですよ。あれ、言ってませんでした? この第4課、人事部管轄なんですよ」
「……………」
「一之瀬さん、オレはどうなるの?」
「あー。言い忘れてました。蓮も小林さんと一緒にホテル事業部に移ってください」
「あ、オレも?」
 予想外の答えだったらしく、蓮はきょとんと一之瀬を見ていた。
「山本さん、心神耗弱で休職届を提出したらしいですよ」
「え……」
 今日の朝、貴史を見たけれど……。
「ホテル事業部、今、相当忙しいみたいで、小林さんの補佐として、角谷さんが蓮を指名してきましたけど?」
 一之瀬は、ものすごくにやにやしていた。どう考えてもこの人事、一之瀬の一存で行われたのがわかった。
「はいはい、小林先輩の元で尻に引かれてきます!」
「ちょっと、蓮! なにその言い方!?」
 蓮はにやり、と笑って
「ね、小林先輩」
 蓮はわざと下から上を見上がる形で奈津美を見た。奈津美の顔ははたから見ても分かるくらい、真っ赤になった。
「だから先輩、免疫なさすぎ」
 蓮はくすっ、と笑い、奈津美のおでこをつん、とつついてロッカーへ向かった。
「…………!」
「あー、若いっていいですねー」
 一之瀬はふたりのやり取りをみて、にこにこしていた。


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