失恋から始まる恋もある


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《二十一章》「異動」



 奈津美は荷物をまとめて……と言っても、大した荷物はなかったわけだが。一之瀬に連れられて、ホテル事業部へ行った。
「小林さん、改めてよろしく頼むね」
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします」
 事業部では角谷が待っていた。
「佳山くんも一之瀬さんから話は聞いているよ。よろしく頼むね」
「小林先輩の尻にしかれつつ、負けずに頑張ります!」
「連……。まだそれ、言うの……?」
 角谷はにこにこしてふたりを見ていた。
「角谷さん、ふたりを頼みましたね」
 一之瀬は少し名残惜しそうにしながらも自分の部署に戻って行った。
「小林さん、佳山くんと引き続き、リネンを担当お願いして、いいかな?」
「あ……」
「ああ、山本くんなんだが……。休職届を今日の朝提出して、そのまま帰ったんだよ」
 一之瀬に聞いてはいたが、奈津美はやはり、ショックだった。
「どこで壊れたのか分からないけど……。一番の要因はプライベートがうまくいってなかったみたいでね……。近々離婚する、という話も」
「え!?」
 奈津美は驚いて、手に持った荷物を取り落としそうになった。
「彼には少し、時間が必要みたいだから……。戻ってきたら、やさしく迎えてあげてくれないかって……。きみに頼むのは筋違いかな?」
「いえ……。責任の発端は……私にもありそうですから」
「きみが責任を感じる必要は、まったくないと思うけどね」
「…………」
 角谷はそう言うが、明らかに貴史が壊れたのは、自分……。一緒に仕事をしていて、拒絶したのは私。
 そして、あの廊下での事件。おとがめなしにしてほしいと頼んだのは、だれでもない自分。あれで……貴史は一気に壊れてしまったのだろう。
 自分から振っておいて……なんであなたが壊れるのよ……。ずきん、と奈津美の心が痛んだ。
「で、きみたちの席なんだが……」
「部長、こっちですよ」
 タイミングを見計らっていたのか、窓際から声がした。
「ああ、頼んだよ」
 角谷は奈津美と蓮を見て、
「これからしばらく忙しいと思うけど、よろしく頼むな」
「はい」
 奈津美は角谷に礼をして、窓際で手を振っている女性に近づいた。
「池本尚美(いけもと なおみ)です、よろしくね」
「小林奈津美です、お願いします」
「佳山蓮です、お願いします」
 それぞれ自己紹介をした。
「ここふたつ、好きな方に座って」
 窓際とその隣の席を指示された。
ずっと閉塞した窓のないところにいたので、窓があるというのが新鮮だった。
「外が見えるって、いいね」
 奈津美の言葉に、蓮はうなづいた。

   *   *

 それから、角谷が言った以上に忙しく……。
「いやー。思った以上に忙しくなっちゃって、ごめんねー」
 と角谷は笑っていた。
 まあ……まだこの時点では……笑える状況だったのだ、今にして思えば。
「なあ、先輩。ホテル事業ってこんなに忙しいものなのか?」
 ほとんど人のいなくなったフロア。奈津美と蓮はまだ残って仕事をしていた。
 奈津美が考案したシーツが予想以上に好評で、宿泊客から「売ってほしい」と熱望され、商品化することとなったのだが……。これが思った以上に難航していた。
「このフロアの状況をみてもらえばわかると思うけど、本来はそんなに忙しくないはずなのよ……」
 ふたりがこの部に配属になった日、社長逮捕のニュースがじわじわと全社にかけぬけ……バケツをひっくり返したかのような大騒ぎで……。定時になって帰ろうとしたふたりを、池本に止められた。どうしてかと思って上から玄関を見ると……。
「な、なにあれ!?」
 今まで見たことのないほどのすごい人だかりができていた。テレビカメラに野次馬に……と、とにかくすごいことになっていた。
「一応うちの会社、有名だからねぇ……。そこの社長の……あ、もう今は元、ですが……。不祥事、それも今話題の巨大売春グループの幹部だった、ってなれば……」
 帰るのを止めてくれた池本はそう言った。
「裏から帰れるかな……」
 奈津美は出口をいくつか考えた。
「あそこなら……大丈夫かな……」
 ひとつ思い当たる口があったので、蓮と一緒にそちらに向かった。そっと扉を開けて外を確認すると……だれもいなかった。奈津美はほっとして、外へ出た。少し遠回りになるけれどふたりは無言で駅まで行った。
 駅の前では号外を配っている人がいたので、奈津美は受け取った。号外は予想通り、社長逮捕の記事だった。
「元社長……?」
 見出しを見て、奈津美は疑問に思った。奈津美は道の端に寄り、記事を読んだ。
 巨大売春グループ幹部にして元社長逮捕、逮捕を受けて即解雇にしたことを記事は評価していた。
「社長、人望がなかったのかな……?」
「同情しない。あれは鬼畜だろう。すでに人間じゃない」
 蓮の言うことは確かだし、自分のあの状況を考えたら同情する余地はないんだけど……それでもやっぱりあわれと思ってしまうのは、甘いのかな?
「被害人数は……500人を超すって……」
「ひどいもんだろう?」
「うん」
 売春のみならず、人身売買もしていたなんて……。
「とりあえず、即解雇は評価が高そうだな」
「そうね……」
 奈津美は号外をたたんで、バッグにしまった。
「先輩、それよりもお祝いしませんか?」
「え? なんの?」
「オレたちの地下からの脱出を祝って」
「うん、そうね」
 奈津美は携帯電話を取り出し、家に電話した。
「あ、うん。心配しないで、遅くならないから」
 ぱちん、と携帯電話を閉じる音がして、ふぅ、と奈津美は深いため息をついた。
「ほんと……。お母さん、心配性なんだから……」
「?」
「もういい年の娘を捕まえて、遅くならないようにねって……」
「かわいい娘が心配なんですよ」
 蓮はにやにやして、わざと奈津美を下から見上げた。奈津美の顔は真っ赤になった。
「ほら、すぐに赤くなるしさ」
「!」
「心配するのも無理ないよなー」
「……ほら! 行くわよ!」
 奈津美は真っ赤になりながら、歩き始めた。
「せんぱーい、どこに行くんですかー?」
 にやにやした蓮の声が、後ろから追いかけてきた。その後、普通にご飯を食べて、それぞれ帰って。
「部長、忙しくなるって言ってたけど、そんなでもないですよね?」
 とか話していたのに……。

   *   *

「あー! これじゃあ、終電に間に合わない!」
 奈津美は受話器を取り上げ、どこかへ連絡を入れた。
「あ、お母さん? 今日、終電に間に合わない。あ? え?? 男??? なに言ってるの! 仕事だって! 忙しいから、切るよ」
 奈津美は乱暴に受話器を置いた。横で聞いていた蓮は、
「仕事だけど、男とふたりっきりですけどねー」
「あ、」
 奈津美はフロアを見回した。
 それまでぱらぱらといた人影はまったく見えず、隣にいる蓮と奈津美のふたりきりだった。
「ふざけてないで、早くその資料、まとめて!」
「はいはい」
 フロアにはかたかたというキーボードを打つ音だけが響いた。ふたりっきりになることなんて、あそこの課にいたときはよくあることだった。なのになんでこんなに……ドキドキしているんだろう。
 ふと視線を感じて横を見ると、真剣な顔をした蓮が、こちらを見ていた。
「蓮……なに?」
「なんでもないです。先輩が必死だったから、つい」
 次の瞬間、いつもの少しにやけた蓮の顔だった。
「終電に間に合うように、がんばりますよー」
「はい、そうしてください」
 奈津美はさっきよりもドキドキしていた。あんな顔で見られたら……私のこのドキドキがばれたんじゃないかと……。
 とにかく、このドキドキを忘れようと仕事に没頭した。奈津美は最終チェックをして、問題ないことを確認した。
「はい、終わり!」
「おつかれさま」
「蓮もおつかれさま。ごめんね、遅くまで付き合わせて」
「先輩ひとりにするの、危険ですから」
 蓮とふたりきりとどっちが危険なんだろう……と奈津美はふと思ったが、口に出さないでおいた。
 奈津美は時計を見て、
「ぎりぎり間に合いそうかも!」
 奈津美はロッカーに向かい、ばたばた帰りの準備をしているようだった。蓮は自分の机を片づけ、奈津美が出てくるのを待っていた。
 しかし、待ってもなかなか出てこない。蓮は訝しく思い、ロッカーへ向かった。


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