【太陽に花束を】10
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朝は少し早めに起き、ジャンとエルザに感謝の気持ちを伝えた。
潤哉を受け入れてくれて、ありがとう。
幸政を育ててくれてありがとう。
そして、俺たちを歓迎してくれてありがとう。
伝えても伝えきれない。
今度、幸政と三人で日本に行くからよろしくと言われた。日本に来たら歓迎すると伝え、俺たちは仕事へ行く二人を見送った。
咲絵はずっと、幸政にひっついて離れない。
俺と文緒は無言で荷物を片付ける。文緒はなにか言いたそうな表情で俺を見ているが、なかなか口を開こうとしない。俺は気がつかないフリをして片付ける。
「睦貴」
荷物が片付いた頃、文緒は俺の名前を呼んだ。返事はせず、文緒に視線を向ける。
「本当に幸政がここに残るという選択肢でいいと思ってるの?」
その質問に、俺は視線を逸らす。
「咲絵のあんな顔、今まで見たことない」
文緒の声は震えていた。泣くのを我慢しているみたいだ。
「咲絵、すごく我慢してるよ。本当はずっと一緒にいたいし、片時も側を離れたくないと思っているのに……ねえ、それなのに離してもいいの?」
文緒の言いたいことは分かっている。だけど、幸政がここに残ると決めたのだ。咲絵をここに残していけということなのだろうか。
「幸政は確かに、ここで幸せに暮らしている。でも、彼も咲絵のことを知ってしまったのよ。咲絵がいなくなったら……消失感に堪えられないかもしれないじゃない」
文緒のその言葉に、俺は考えてしまった。
新たな出会いというのは、お互いに影響を与えるということなのか。
俺は文緒になにも言えなかった。
ジャンは仕事を抜けて、帰ってきた。俺たちを駅まで送ってくれるためにだ。車に荷物を詰め込み、俺たちはこの家を後にする。
「パーパがいた家を見る?」
幸政にそう聞かれ、潤哉はずっとここに住んでいたと勘違いしていたことに気がついた。
「近いのなら、見てみたい」
幸政はジャンにそのことを伝えてくれたようだ。ジャンは親指を立てて任せておけ、とウインクしてきた。
車が入るとすれ違うことができないほどの細い路地を無理矢理走り、たどり着いた先には、想像以上に大きな石造りの家が建っていた。
「ここだよ。パーパはGiapponeに行く前に売りに出した」
手入れはされているが、しばらくだれも住んでいないのが一目で分かる家。この家はかつての主の帰りを待っているかのように見えた。
潤哉はルクレツィアが亡くなった後も祖父が亡くなった後もここに住んでいたという。何度も一緒に住もうと言ったのだが、ここでまるで帰りを待つかのようにしていた。守矢さんが亡くなった後、すぐに売りに出したのでようやく一緒に住んでくれるのかと思っていたら、なにも言わないで突然、日本へ行ったので驚いたというようなことを幸政は口にした。
あいつはもう、ここに帰ってくるつもりがなかったのかもしれない。日本で死ぬつもりだったような気もする。
「パーパは馬鹿だよ」
ああ、本当に馬鹿だ、あいつは。こんなにも周りのみんなは愛してくれているというのに。
車内はずっと、静かだった。駅に到着して、俺たちは再度、ジャンにお礼を言った。
「幸政、がんばれよ」
別れを惜しみ、咲絵はいつまでも幸政から離れようとしない。俺は幸政から咲絵を受け取る。
「やぁだ。ユキと別れたくないの!」
暴れる咲絵を抱きしめて落ち着くように伝えるのだが、そんなことで簡単に咲絵が落ち着くわけがないのはわかりきっていた。
困ったような笑みを浮かべている幸政は咲絵に近づき、優しく髪をなでる。
「サエ、必ず行くから。待っていて」
幸政はそういうと、咲絵の頬に手を当て、軽く唇を重ねた。
って……え、ちょっとっ!
咲絵はいきなりのことに驚いたのか、あれほど暴れていたのに急に大人しくなった。
「promessa」
プロメッサ……約束。
なにを約束したっていうんだ?
俺は幸政に聞こうとしたが、文緒に強く腕を引かれてしまったので幸政をにらみつけるだけにとどまった。
「幸政、待っているよ!」
俺は大声で最後に一言だけ、幸政に伝えた。
自分では別の言葉を言うつもりでいたのに、気がついたらそう言っていた。幸政は驚いた表情で俺を見つめていた。
レッチェの町からローマへ。
バロック時代の遺物が色濃く残る、黄金色の町。闇を取り込んで光に変えてくれるこの町でも、潤哉の闇を消し去ることはできなかったようだ。
しかし……。
「咲絵、幸政となにを約束したんだ」
列車に乗り込み、動き出して落ち着いたところで開口一番、咲絵を問い詰めた。
「むっちゃんにも秘密っ」
咲絵は幸政にキスをされたことで見たことがないくらい、ご機嫌だった。柔らかな頬を真っ赤に染め、幸せそうに窓の外を眺めている。
最近の子は早くてけしからん!
「幸政も積極的ね。さすがイタリア人!」
と文緒は感心しているが、なにか違わないか。
「完全に睦貴の負けよね」
文緒さま……とどめを刺さないでください。俺、泣きそうです。
列車内でエルザが持たせてくれたお弁当を広げて食べる。ああ、美味しい。エルザの愛を感じるよ。
俺はぼんやりと車窓を見ていた。咲絵は久しぶりに、俺の腕の中で丸くなって眠っている。櫂士はようやく慣れてきたらしく、黒瀬を叩いて遊んでいた。文緒はやめなさいと言っているが、黒瀬は、
「大丈夫です。子どもはこんなにかわいいものとは思ってもいませんでした」
と言っている。
「日本に帰ったら、結婚したいと思いました」
「だれかいい人、いるの?」
文緒は黒瀬に聞いている。俺は耳だけそちらに向け、視線は窓の外に広がるぶどう畑を見ていた。
「こんな仕事ですから、今まで、特定の人は作ったことがありません。でも、想い人はいますから、気持ちを伝えようと思います」
「想いが通じればいいですね」
うつむいて、真っ赤になっている黒瀬が窓ガラスに映っている。
「それにしても……白水のことは、申し訳ございませんでした」
黒瀬はそういうといきなり、床に正座して、頭を下げている。いわゆる、土下座というヤツだ。俺は慌てて黒瀬へと向き、咲絵を落とさないように注意しながら、顔を上げて椅子に座るようにうながしたのだが、黒瀬は頭を上げない。
「そこはおまえが謝るところではないだろう? 顔を上げてくれないか」
「しかし、結果として、あなた方を危険な目に遭わせてしまった」
とは言うが、どこが危険だったのか俺にはまったく分からなかった。
「黒瀬、危険な目とは言うが、危なかったとは思わない」
これまで、もっと危険な目に遭ってきた俺としては、今回はずいぶんと穏やかに終わったと思っていたのだが、黒瀬の見解は違うようだ。
「危なかったとは思わないとおっしゃいますが」
「とりあえず、頭をあげて椅子に座れ。話しにくくて仕方がない」
黒瀬は渋々といった感じで頭を上げて、ようやく椅子に座ってくれた。
「逆に俺は、ボディガードとしてついてきてもらってのに、ただの荷物持ち状態にしてしまっていることに申し訳なく感じているんだ」
何事もないのが一番ではあるが、それにしても、だ。
「あれくらいでしたら、いつでも歓迎ですよ」
荷物持ちはかなり不当な扱いだと思うんだがなぁ。
「わたしは今回、あなたたちにつけたことを誇りに思います。人生観を覆された」
ずいぶんと大げさなことを言うな、この人は。
「お互いがお互いを思いやり、相手を大切にしている。とても心が温まりました」
黒瀬にそう言われ、俺は自分を守るために幸政に対してイタリアに残れと言ったことを思い出し、胸が痛む。
「そんなことない。俺は自分のエゴで咲絵の悲しむことをした」
黒瀬は首を横に振った。
「わたしも見させていただきましたが、彼はやはり、この国に残るのが正解だと思います」
そう言った後、黒瀬は慌てて否定する。
「申し訳ございません、出過ぎたことを口にしました」
黒瀬の言葉を聞き、文緒は口を開く。
「黒瀬さんも、幸政はイタリアに残るのが幸せだと思ったんですよね」