【太陽に花束を】09
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俺と幸政はしばらく、黄金色に輝く聖堂を無言で見つめていた。
ここにはもう、よほどの理由がない限りは来ることがないだろう。俺は忘れないようにこの景色を焼き付けようと見つめていた。
潤哉はこのまばゆい黄金色に包まれて、なにを思っていたのだろう。ルクレツィアが生きていた頃は安らぎを覚えていたのかもしれないが、亡くなってからは……この景色に慰められていたのだろうか。それとも、悲しみを深めるだけだったのだろうか。
無機質に感じる石なのに、どうしてこの町の建物たちはこんなにも温かく感じるのだろう。それはこの輝く黄金色のおかげなのか。だけどどこかその景色は淋しさを覚える。終わりゆく一日を嘆いているかのようにも見えるからか。
この町は、緩やかな時間と温かさに包まれている。昼間の太陽は強烈だが、それでも愛を感じる。きっと、ここに住んでいる人たちが優しいからだ。
異国の人間である潤哉を受け入れてくれた、この町。
潤哉はそのことに気がついていたら、あんな凶行をすることなく穏やかにこの国で暮らせていたのかもしれない。
アドルフォの罪は重い。
確かに、だれもがみな、闇を抱えている。だけどこの黄金色はその闇さえも優しく包み込み、ゆらゆらと分解してくれる。文緒が抱くこの国の太陽よりも熱い熱とはまた違う、激しくはないけれどそれはそう、まるでワインが熟成するときのような、穏やかさ。闇はこの黄金色と溶け合い、深みを増す。
本来、闇は恐れではなく安らぎを感じるものだったはずだ。そのことに気がつかせてくれる、この黄金色。
「帰ろう。ノンノとノンナが待ってる」
幸政に声をかけられ、俺は名残惜しさを感じながらもサンタ・クローチェ聖堂を後にした。
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家に戻ると、ジャンとエルザは帰っていた。黒瀬とジャンは無言で酒を酌み交わしていた。文緒は櫂士を抱きかかえた状態でエルザのお手伝いを楽しそうにしている。
「お帰り」
俺たちが帰ってきたのを見て、文緒は笑顔で出迎えてくれた。俺は思わず文緒を抱きしめる。
「どうしたの?」
「……なんでもない。ちょっとの間、こうさせていて」
俺は櫂士ごと抱きしめ、その肩に顔を埋める。櫂士が俺の頬を無邪気に叩いている。
どれくらいそうしていただろう。咲絵の幸政の名を呼ぶ声にようやく、現実に戻ってくることができた。
文緒から櫂士を預かる。身軽になった文緒は、エルザの手伝いの続きを始めた。
俺は櫂士を抱きかかえ、ソファに座る。
日本にいるときは文緒から離されるだけで不満の声を上げていた櫂士だが、この旅行で少しだが親離れが出来たようだ。ご機嫌な表情で俺に抱っこされている。
ふと視線を上げると、部屋の隅で咲絵は幸政に抱きついていた。幸政の表情はとても柔らかだ。もしかしたら、妹が出来たとでも思っているのかもしれない。
俺の醜い嫉妬心は、二人の間に出来ようとしている『絆』を断ち切ろうとしているのかもしれない。だけど、幸政は咲絵ではなく、ジャンとエルザを選択したのだ。
明日はお昼の列車に乗り、ローマへと向かう。ローマで一泊して、次の日のお昼前の飛行機に乗って、日本へと帰る。
ここでの夕食は最後ということで、少し豪華な食事内容となった。
俺たちはエルザの作った美味しい料理をたくさん食べた。咲絵は苦手だったトマトを幸政の膝の上で美味しそうに食べている。
夕食が終わり、デザートを食べている時、幸政は咲絵を抱っこしたまま立ち上がり、俺たちを見回した。
「ここに残るよ」
俺と文緒に向かい、そう口にする。そして、ジャンとエルザにはイタリア語で残るという意味の言葉を口にした。
「ユキは、日本に来ないの……?」
咲絵の泣きそうな声に俺は視線を下に向けた。お皿の上にはエルザお手製のティラミスが乗っている。甘くてほんのりとコーヒーの苦みがきいている。
「ごめんね、サエ」
「やだ! やだやだ、ユキも日本に帰るの!」
咲絵は幸政にそういうなり、泣き始めた。幸政は慌てて慰めの言葉をかけているが、日本語の単語をあまり知らないようで、イタリア語でなにか必死になって言っている。俺はどうすることも出来ず、目の前のティラミスを口に運ぶ。先ほどまではあんなに甘かったのに、今は苦みしか感じない。この苦みは、咲絵の悲しみだ。
エルザの声が聞こえてきた。幸政に話しかけている。ジュンヤ、という言葉が聞こえるところ、本当にこのまま残るのかということを改めて聞いているような気がする。対する幸政は、マンマやらノンナという単語が多い。俺も潤哉も母親に対してはいい思いを抱いていないので、幸政がうらやましく思う。幸政は大切に育てられ、まっすぐに育ったのだなと改めて分かった。
しかし、幸政とエルザの会話はどんどんと熱を帯びてきて、端からみるとまるでけんかをしているかのように激しくなっているのだが、このままでいいのか?
ジャンに視線を向けると、片眉を上げ、両手を広げて肩を上げている。やれやれ、といったところか?
あれほど泣いていた咲絵は、二人があまりにも白熱して言い合いをしていることに気がつき、泣き止んだ。困ったように幸政を見上げている。
「ユキ、けんかをしないで」
咲絵は幸政の服を引っ張り、言い合いをやめるように促しているのだが、夢中になっているので気がつかないようだ。イタリア人は討論を好むというのを聞いてはいたのだが、これは激しいな。
「櫂士が寝ちゃったから、部屋に戻るね」
文緒は俺の耳元にそれだけ告げると、部屋へと戻っていった。この賑やかな中でも眠ってしまうとは、櫂士も将来が楽しみだな。
幸政とエルザの討論は、まだまだ続いている。咲絵がじれて、大声を上げた。
「ユキっ!」
そこでようやく、幸政は気がついたらしい。言い合いは止まり、幸政はしゃがみ込んだ。
「けんかしないで」
「けんかではないよ」
幸政は優しく咲絵の髪をなでている。やっぱりその姿は潤哉にしか見えなくて、胸がきりきりと痛む。
「サエ、今度、Giapponeに行くよ」
Giappone(ジャッポーネ)は日本だ。そうか、なにも日本で生活するとしなくても、観光で来ればいいのか。いきなり、慣れない日本に突然来ることもなかったのか。そこまで考えが回らなかった俺、かなり頭悪いな。
咲絵はそれで納得したのかどうか分からないが、ようやく笑顔を見せた。
咲絵は今日は幸政の部屋で寝ると言い、部屋には俺と文緒と櫂士だけだ。文緒は櫂士とともにもう眠っていたので、俺は起こさないように慎重にベッドへと入る。
一週間の休みでは、本当に短い。移動で数日取られるのが痛いな。
この国を再び訪れることがあるのかどうか分からないが、機会があれば、来てみたい。
幸政はこの国で生きていくと決めたようだ。
俺は痛みを覚えつつも、妙に安堵した。
どこまでもひどい独占欲に、俺はため息を吐いた。
文緒も咲絵も俺のものではない。二人にはきちんと自我があり、それぞれが個なのだ。それなのに、どうしてもこう、気持ちは俺のものだと主張したがっているのだろうか。
俺は寝返りを打ち、文緒の寝顔を見つめる。幼い頃からずっと見つめてきた、顔。その頬に、そっと触れる。
手を伸ばせば、文緒はいつだって側にいる。
だけど、咲絵はもう、手が届かないところにいる。
まさかイタリアに来て、こんな気持ちになるとは思わなかった。なにかを得るために来たと思ったのに、失ってしまった。
俺は喪失感を忘れたくて、強く目をつぶった。
まぶたには、夕方見た聖堂の黄金色が映っていた。