【太陽に花束を】03
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そして、十三時間。
長かった。機内では時間をつぶすためのものが色々と用意はされていたし用意もしてきたが、それでも長かった。
幸いなことに咲絵はぐずることはなかった。問題は櫂士だ。文緒に抱っこされてさえいれば満足かというとそういう訳でもなく、ずっと抱っこに耐えられなくなったらしく、むずがりだした。ゆりかごを借りて寝かせてみたのだが、普段からそんなものを使ってないから余計に暴れ出し……外を見せても下は白い雲しか見えず、ほんと、困った。帰りの飛行機が今から思いやられる。
荷物を受け取り、空港からレッチェ行きの列車が出ている駅まで向かう。荷物はボディーガードな二人が率先して持ってくれたので助かった。子どもが小さいと、荷物が必要以上に多くなってしまうのがネックだ。
ローマに到着して、俺たちは小腹が空いたからカフェ──こちらではバールというらしい──に入り、軽く食べた。こちらもチップ制度があるのだが、アメリカほど厳密ではない。端数を切り上げておつりを受け取らないのもチップになるし、あらかじめ日本で言う
「サービス料」
を請求するところもあるという。必ずしも必要ではないと考えて問題ない。サービスが良かった場合や無理をお願いしてやってもらったときなど支払うのが基本のようだ。と考えると、日本は請求された金額を素直に払えばいいのだから、楽なものだと思う。
少し休憩をしたら、早めに駅へと移動しておく。
咲絵は相変わらず俺にしがみついていた。櫂士は飛行機でのむずがりが嘘のようにご機嫌でいてくれて、助かった。
レッチェ行きの列車に乗り、ここからまた約六時間。飛行機とは違い、外がよく見えるからか、櫂士は思ったよりも機嫌良くいてくれた。
飛行機の中でよく寝ていたとはいえ、さすがに眠くなったのか、列車に乗るなり咲絵は俺に抱きついて寝て、櫂士も気がついたら文緒に抱っこされ寝ていた。俺たちもさすがに疲れてきて、少しだけ眠った。
日付が変わる前にレッチェにようやく到着した。こんな遅い時間だというのに、幸政の祖父が迎えに来てくれていた。車に荷物を詰め込み、無理矢理乗り込んで俺たちは幸政が住むという家へと連れて行かれた。そしてようやく、俺たちはベッドに身体を横たえることが出来た。飛行機に乗ってから、ほぼ一日が経過していた。
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窓から差し込む強烈な光が目を貫く。まぶしさに顔をしかめながら目を開けると、見覚えのない風景が飛び込んできた。俺の腕の中には、咲絵が丸まって眠っている。背後には文緒の気配。しばらくどうしてこういう状況なのか、悩む。
ああ、そうだ。ようやく思い出した。俺たちはイタリアまで幸政を迎えに来たのだった。
布団の中を身じろいだことで文緒と咲絵も目が覚めたようだ。
「ここ、どこ?」
まだ眠そうな咲絵の声。
「幸政の家に来たんだよ」
日本とはまったく違う空気に咲絵は戸惑いを覚えているようだ。いつも以上に不安そうな表情で俺を見ている。
「おはよう……さすがにまだ、眠いね」
飛行機の中でイタリア時間に修正した時計を確認すると、朝の九時を過ぎていた。日本時間だと現在はサマータイムなのでプラス七をして夕方の四時か。時差ボケで寝たはずなのに油断すると寝てしまいそうになる。気合いを入れて起き上がり、ぼさぼさになった髪の毛を直して部屋から出る。もちろん、咲絵は当たり前のように張り付いている。
「チャオ」
部屋を出てキッチン──こちらでは
「クチーナ」
というらしい──と思われる場所へと足を向けると、この国の太陽のような明るい笑顔の年配の女性がいた。今もきれいだが、若い頃は美しかったのだろうなと想像がつくほどの人だった。
「チャ……チャオ」
つられて挨拶をしたが、俺、イタリア語はまったく分からないんだよな。女性はなにか話しかけて来ているのだが、申し訳ないがまったく分からない。困っていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「チャオ」
その声の主がだれか確信を持ち、俺は振り返った。
そこには、潤哉が立っていた。
いや、違う。潤哉に似ているが、その表情はまったく違っていた。女性と同じ、見ているこちらがまぶしいと感じるほどの輝く笑顔を浮かべていた。
彼が空知幸政か。潤哉はいい息子を持ったなと俺もつられて笑顔になる。
「ようこそ、イタリアへ」
少しイントネーションは怪しかったが、彼の口から日本語が出てきた。
俺の腕の中で固まっていた咲絵はいきなり身じろぎしたかと思うと飛び降り、あろうことか幸政に向かって駆けだし、足に抱きついた。幸政は突然の出来事に驚き、どうすればいいのか分からない戸惑いの表情を浮かべている。
「あたし、咲絵っていうの」
咲絵は幸政の足に抱きついたまま、見上げて自己紹介をしている。幸政はしゃがみ込み、咲絵と同じ目線になってくれた。
「幸政だよ」
「うーんと、ユキだ!」
そういうなり、咲絵は幸政の腕に飛びつき、はしゃいでいる。
あれほど人見知りが激しい咲絵が、一目で幸政になついている。なんだ、この妙な敗北感は。
そこへ、文緒と黒瀬と白水もやってきた。文緒は咲絵が幸政にひっついているのを見て、やっぱり驚いている。
「うわぁ、潤哉にそっくり! しかも、あんなに人見知りの咲絵がどうしちゃったの?」
「それは俺が聞きたい」
幸政にひっついて甘えているのを見て、文緒はなにか分かったらしい。
「いわゆる、『一目惚れ』ってヤツね」
……ひとめぼれ? お米のブランドか?
「不機嫌な表情をしないの。喜ばしいことじゃない。咲絵が外に目を向けるきっかけになったんだから」
文緒の言い分はもっともだ。そうなんだが、いきなりすぎないか。
「朝ごはんにしましょうと誘われているけど、どうします?」
白水もようやく、文緒にまとわりつくのは諦めたようだ。俺たちからある程度の距離を取って伝えてきた。油断はならないが、この様子だと大丈夫だろう。お腹が空いていた俺たちは、喜んでいただくことにした。
白水を通訳として、俺たちは自己紹介をしあった。女性は幸政の祖母でエルザ・ガブリエリ。昨日、迎えに来てくれた人は祖父のジャン・ブラッファルド。
イタリアは夫婦別姓だとは聞いていたが、予想通り、苗字が違う。この二人が籍を入れているのかどうかは分からない。そんなのはどちらでもいい。今まで、この二人が幸政を育ててきたのには間違いがないのだから。そして、子どもは父親の苗字を名乗るのが慣習となっているようだ。潤哉の母親であるルクレツィアはブラッファルドで父親側の姓だし、幸政も『空知』姓を名乗っている。国が変わるとルールも変わるというのがよく分かる事例だ。
幸政相手には英語はある程度は通じたが、ジャンとエルザはまったく分からないようだ。なので、白水を通訳として俺たちはジャンとエルザと会話をした。
『ジュンヤは元気なの?』
二人は潤哉がどうして日本からこちらに帰ってこられないのかという理由は知っているはずだ。本人からも手紙が行っているからだ。今回の訪問も前もって知らせてもらっている。
「潤哉は元気で二人と幸政のことを気にしていたと伝えてくれないか」
自分で伝えたいのに、言葉が分からないばかりに人を通してしか話せないことがこれほど悔しいとは、思いもしなかった。こんな歯がゆい気持ちになるのなら、仕事が忙しいということを言い訳にしないで本気になって勉強をすれば良かったと悔やまれる。
『ジュンヤの勤めていたお店に行ってみるかい?』
「店?」
なんの店だ?
「negozio di fiori」
ふぃおーり? 俺は慌てて辞書を取り出して調べる。negozioは店や店舗という意味。fioriは花。
「……花屋? フラワーショップ?」
幸政に向かって質問すると、首を縦に振られて肯定された。
「潤哉が花屋?」
想像とかけ離れた職業を告げられ、戸惑いを隠せない。
「マンマが花屋だったんだ」
えーっと……マンマってことはルクレツィアが花屋で働いていた、ということか。
イタリアは縁故採用が多いようなので、もしかしたらルクレツィアが亡くなった後、潤哉が跡を継いだのかもしれない。日本に帰ったら聞こう。
以下、白水通訳のジャンとエルザの会話の要約。
ジュンヤはルクレツィアが亡くなった後、元気がなかったという。だが、ある日を境にしてまるでルクレツィアはいなかったかのような振る舞いをするようになったという。ジャンとエルザはあまりの悲しさにおかしくなってしまったのだろうと思っていたのだが、潤哉から来た手紙で真相を知り、止められなかったことを悔やんでいると二人は語ったという。
潤哉の母親が亡くなったからと日本に帰るとき、エルザは最後まで悩んだという。嫌な予感しかなかったかららしいが、イタリアは母親を大切にする国。それを止めるのは良くないと思ったから思いとどまったのだが、どうあっても止めるべきだった、と。止められなかったという点では俺も同罪だ。俺は違うと首を振ることしか出来なかった。
ルクレツィアの墓にお参りに行きたいと言うと、潤哉が働いていた花屋を見に行くついでに行ってくればいいと提案してくれた。ジャンが車で案内してくれるという。
俺たちはその言葉に甘え、お願いすることにした。