【ルーチェ】 04
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家族は旅行に出掛けているということだった。本当はルーチェも一緒に行く予定だったらしいのだが、オレの誕生日会に出席して後から合流するということで一人、こちらに残っていた。
ルーチェの部屋に入るのは初めてではなかった。ルーチェの家族たちと何度か食事をともにしていたことがあり、その時に何度か入ったことがあったからだ。
しかし、そのときはこんな気持ちでルーチェの部屋に入ったことはなかったので、オレの心臓はずっと早鐘を打ち続け、今にも壊れてしまいそうだった。
深呼吸をして、改めてルーチェを見る。大きく足を踏み出し、ルーチェとの距離を縮めた。
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朝日が柔らかく、オレの頬をなでている。その光と肌に違和感を抱き、目を覚ました。隣には、無防備な寝顔をさらしたルーチェがいた。
そして、昨日の熱を帯びた夜を思い出し、身体は自然と熱くなってくる。オレの視線に気がついたルーチェは物憂げに目を開け、オレを見つめている。おはようの挨拶の代わりに唇をふさぐ。そしてまた、オレはルーチェを求めた。
『一人で行ける?』
『大丈夫よ、子どもじゃないんだから』
お昼過ぎ、ルーチェは家族から早く来るようにと呼ばれ、渋々と旅行へと出掛けることになった。せっかく想いが通じ合ったのに、別々にならなければならないことに切なさを感じる。
『お土産、買ってくるね』
オレは駅までルーチェを送った。改札の向こうへと行ったルーチェを柵越しに抱きしめ、キスをする。
これから一か月ほど、ルーチェたち家族は休暇を取るという。逢えない淋しさはあったが、連絡を入れるからと言われ、オレたちは別れた。
ルーチェは約束通り、旅行先から連絡を入れてきてくれた。
オレはルーチェが帰ってくるのを、指を折りながら待っていた。
そして長かった一か月が経ち、ルーチェたち家族は戻ってきた。
『ジュンヤ、ただいま!』
こんがりと焼けたルーチェを見て、まぶしくて目を細める。太陽の娘はますます輝いていた。
そしてオレたちは、時間があれば逢い、身体を重ねた。
初めて身体を重ねてから数か月。オレはルーチェに違和感を覚えた。いつもはつらつとして明るい彼女なのに、ここのところいつもだるそうで、しかも妙に眠そうだ。
『ルーチェ、風邪でも引いたか?』
『風邪……なのかな? ここのところ、気持ちが悪いし、妙に眠いの。……まさか』
ルーチェはなにか思い当たることがあったようで、手を口に当て、オレを見上げた。その瞳は、水底から見る太陽のように揺れている。
『incinta……』
聞いたことのない単語をルーチェはつぶやいた。
オレは伊和辞典を引っ張り出し、該当する単語を調べた。そこに書かれていた意味は……。
「……妊……娠」
避妊なんて考えずに、オレはルーチェを欲望のままに抱いていた。そんな状況なら、出来て当たり前だ。なのに、なぜかオレは出来ないと信じ込んでいた。
『どうしよう……』
ルーチェは思いもかけない出来事だったようで、戸惑っている。
イタリアはカトリックの国である。そのせいで、つい最近まで中絶は認められなかったという。
いや、ちょっと待て。そんなこと、許されるわけがないだろう。オレとルーチェの子だぞ。どうしてその選択肢が一番に出てくるんだ、オレ。間違ってるぞ。
ちなみに、イタリアという国は未婚率が高い。それというのも、こちらもカトリックの教えが影響しているからだ。一度、結婚すると、つい最近まで離婚することが出来なかったという。今はかなりの手間はかかるが、離婚することができる。しかし、昔の名残で、結婚するよりも同棲しているいわゆる『事実婚』が多いようだ。日本以上に未婚率が高いという。また、結婚していても日本とは違い夫婦別姓なので、表札だけ見てもどちらか分からない。
妊娠、という事実にオレも戸惑う。
自分の子どもを持つことなんで出来ないと思っていた身としては、どうすればいいのか分からない。
『ジュンヤ……わたし』
太陽よりもまぶしいルーチェの瞳は、揺れている。
『わたし、あなたの子を産みたい!』
揺らいでいた瞳は、すぐにいつもの光を取り戻し、オレを強く照らしている。
『わたし、この国が嫌いだったの。だけど、ジュンヤが好きと言ってくれた。そのジュンヤとの子どもよ。わたし、産んで育てる!』
先ほどの戸惑いはすっかり消え去り、その表情はすでに母の顔になっていた。
『オレ、自分に子どもなんて出来ないと思い込んでいた。だから、大好きなルーチェとの子どもが出来たと知って……驚いた』
オレはルーチェを抱き寄せ、口づけた。
『ありがとう……うれしいよ』
オレはこの時、初めて、幸せを感じることができた。
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それからずっと、オレは幸せな気持ちで一杯だった。まるで夢を見ているようで、雲の上をふわふわと歩いているような気分だった。
ルーチェの両親に怒られるかと思っていたがそんなことはなく、驚くことに、歓迎された。結婚、となると話はまた違ってきたのだろうが、ルーチェもオレも結婚は考えていなかった。結婚しなくてもいい風潮がオレにとって、とても気が楽だった。ルーチェは今後も人生をともに歩んでいくパートナーには変わりなかった。結婚の枠組みにとらわれない考えに、オレは賛同していた。
そう、幸政が産まれるまでは本当に幸せだったのだ。幸政をこの手で抱けたことはそれは幸せではあったが……幸政と引き替えに、オレの太陽は隠れてしまったのだ。
オレはルーチェの出産に立ち会った。
とても苦しそうではあったが、無事に出産を終えたルーチェは、今までで一番、輝いていた。
『名前は幸せという意味が入る言葉がいいな』
とルーチェはつぶやく。
オレはルーチェの頬をなで、ねぎらいのキスをした。オレたちはこの時点まで、幸せだったのだ。
しかし、事態が一転したのは……この後すぐだった。
『先生、血が止まりません!』
その声に、現場は突然、緊迫した空気となった。
オレにはなにが起こっているのか、さっぱり分からなかった。
『ここから出てください!』
そう言われるなり、オレは部屋から放り出された。
部屋を出入りする人たち。一体、ルーチェの身になにが起こっているのだ。
産まれたという喜びの報告を受けたルーチェの家族たちが、次々と現れた。みんなが口々におめでとうと言ってくれるのだが、すぐにオレの様子がおかしいことに気がつき、どうしたと聞いてくる。
『子どもは……?』
『無事に産まれた。しかし、ルーチェが……』
『ルーチェがどうしたんだ!』
『分からない。部屋から放り出されて、それっきり。中でなにが起こっているのか分からないんだ』
お祭りのように賑やかだった廊下が、オレの一言で急に静まる。
しばらくして、部屋の中の動きが止まった。妙な静けさに、胸がざわめく。部屋の中から、憔悴仕切った男が出てきた。
『うちの娘になにがあったんだ!』
ルーチェの父が出てきた男につかみかかり、尋ねている。
『……申し訳ございません、力及ばず……』
その言葉に、オレの目の前は真っ暗になった。