愛から始まる物語


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【ルーチェ】 03



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 アドルフォに連れられ、オレは夜のバールに来ていた。
 バールというのはカフェのことであるが、こちらの人たちにとっては、生活の一部である。ことあるごとにバールに入り、カプチーノやエスプレッソを注文して楽しんでいる。
 ルーチェとともに昼のバールで楽しむことを覚えていたオレだが、夜に来るのは初めてで、わくわくしていた。

『こっちだよ』

 入り組んだ迷路の先に隠れるように存在している、初めて入ったバール。かなり暗くてうさんくさい。それなのに、さらにアドルフォは奥へと行く。不安に思いながらついて行くと、暗い通路の先にある部屋へと入るように促された。
 オレが入るとすぐにアドルフォも続いて入り、ドアを閉められた。その音は、不吉な予感に彩られていた。

『で、こいつか?』

 中にはだれかいたようだ。入るなり、聞いたことのない声がした。

『そうだ』

 アドルフォの声がオレの真後ろでしたが、今まで聞いたことがないほど、硬質な声だった。

『日本人か』

 そして二人はオレが理解できないほど早口で会話を始めてしまった。オレはどうすればいいのか分からず、出来るだけ二人の会話を聞き取ろうとした。
 断片的に分かったことは、この二人は危険だということだった。
 信頼していたアドルフォに裏切られた。
 オレには、それだけがはっきりと分かった。

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 それから数日、オレは思いっきり体調を崩した。精神的に弱い自分が嫌になる。守矢にアドルフォにはもう来てもらわないように伝えた。

「潤哉さま、アドルフォさまとなにかあったのですか?」

 アドルフォとともに夜に外出した次の日から体調を崩したあげく、もう来なくていいと言ったのだから、そう聞かれて当たり前だ。守矢にはたいていのことは話しているので、バールで見聞きした話をした。

「……そうでしたか」

 守矢は申し訳なさそうに瞳を伏せた。

「調べたところ、彼なら問題ないと思ったのですが……。わたくしの力が及ばず、申し訳ございません」
「いや、いいんだ……」

 信頼した人間の正体が早いタイミングで分かっただけ、良かったと前向きに思うしかないだろう。
 アドルフォとのことは、これでもう終わりだと思っていた。あのバールに行った日以来、向こうから接触がなかったのだ。
 まさかずっと狙われていたなんて、思いもしなかった。

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 ルーチェとの関係は、ずっと友だちのままだった。なんとなく会って、何気ない時を共有していた。
 このじれったい関係をどうにか進展させたいという気持ちは常に抱いていたのだが、しかし、失うことを恐れていたオレは、今のこの心地よい関係を維持していきたかったのだ。
 イタリアに来て、すでにかなりの年数が経っていた。こちらでの生活も慣れ、仕事も見つかり、それなりに充実した日々を送っていた。
 心の奥では喬哉兄さんのことが引っかかっていたが、オレはあの川に飛び込んだ時に死んだ人間だと自分に言い聞かせていた。それにもう、このときのオレの中では喬哉兄さんには悪いが、終わったことになっていた。
 イタリアでの生活は、オレの第二の人生なのだ。だから、穏やかに過ごしたい。
 オレのささやかな願いは、二度と味わいたくないと願っていた「永遠の別れ」によって、崩れ去るのだった。


『ジュンヤ、もうすぐ誕生日だね』

 仕事が終わり、待ち合わせをしていたバールに到着するなり、ルーチェはそう口を開いた。

『ああ、そうだね』

 この国に来た時は十八だった。そして、もう少しで二十八になろうとしていた。

『とびきりのプレゼントをあげるよ』

 ルーチェの笑みに、オレの心臓ははねる。もう十年も付き合いがあるというのに、未だにこの太陽のようなルーチェの笑みに慣れることがない。イタリアの太陽のように輝くルーチェの笑顔。この笑顔をいつまでも見ていたかった。
 そして、オレの誕生日がやってきた。

『ジュンヤ、誕生日おめでとう!』

 バールを貸切にして、仕事仲間と友だちがオレを祝ってくれる。ルーチェもその中にいた。
 オレの誕生会は、遅くまで行われた。さすがに疲れてきたのもあり、申し訳なく思いながらオレはバールを出た。

『ジュンヤ!』

 すぐ後から、ルーチェが追いかけてきた。

『どうした? 家まで帰るのなら、送るぞ』

 ルーチェは暗い中でも分かるくらい、赤い顔をしていた。

『酔ったのか?』
『ち、違うわよっ』

 そういいながら、ルーチェはオレにもたれかかってきた。柔らかな感触とふわりと漂ってくるルーチェの匂いにどきりとする。

『ジュンヤ、今日は家に両親がいないの』

 その言葉に、思わずルーチェの顔を見る。
 オレを焦がすほどの強い視線で見つめているルーチェ。夜の暗闇の中でもまばゆい光を放つルーチェの瞳に引き寄せられ、気がついたら抱きしめていた。そして、少し薄い唇をふさいでいた。しっとりとした唇に、身体が熱くなる。
 これまでずっと、オレとルーチェは「お友だち」だった。冗談で唇を合わせるだけのキスなら何度か交わしていたが、それでさえ心臓が壊れそうになっていたのに、オレはなんと大胆なことをしているのだろうか。

『ジュンヤ……』

 潤んだ瞳でルーチェがオレを見つめている。

『ジュンヤ、わたしの初めてをあげる。それが誕生日プレゼント』

 オレは驚いて、ルーチェをじっと見つめた。

『ジュンヤのこと、ずっと好きだったの』

 オレの腕の中にいるルーチェは、信じられない言葉を紡いでいる。
 オレのことが……好き、だって?

『ジュンヤは……わたしのこと、好き?』

 イタリアの太陽の娘が、オレのことを好きだって?

『好きに決まってるだろ』

 思わず、ぶっきらぼうに答えてしまった。
 イタリアの人たちは、日本では考えられないほど、恋愛に奔放だ。こちらで知り合った人たちはみな、すぐに惚れ、告白して、駄目なら次……と前向きだ。オレにはとてもではないが、真似できそうにないといつも見ているだけだった。相談をされることはあったが、オレの返事はいつも一緒だった。

『後悔したくないのなら、思いを伝えてから落ち込め』

 そうアドバイスをしながら、オレは実践出来ずにいた。
 この国に来て、初めて出逢った女性はルーチェだった。その後にもたくさんの女性と知り合ったが、オレの琴線に触れたのは、ルーチェだけ。そんなアドバイスを口にしながら、臆病なオレはルーチェに想いを伝えることが出来ずにいた。

『ずっと……好きだったの。だけど、ジュンヤは日本人だから、いつか日本に帰ってしまうと思って我慢していたの』

 もう、日本に帰りたいとは思っていなかった。ルーチェがいるこの国でずっと生きていくと決めたのだから。

『オレはずっと、ルーチェのそばにいるよ』





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