【ルーチェ】 02
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イタリアに行ったとき、オレの心は死んでいた。
やっかい払いのように祖父の元へ行かされたことに、オレはひどく傷ついていた。このイタリア行きが決まったのは、喬哉兄さんが死んだ後のことだった。
腹違いとはいえ、喬哉兄さんはオレのことを気にかけてくれていた。喬哉兄さんがいれば、こんな辛くて悲しくて惨めで淋しい思いをすることはなかったのに。
そして、せっかく居場所を作ってくれた睦貴とも別れなくてはならないのも、辛かった。
大切な者をまた、手放さなくてはならないなんて。あのまま、川に飲まれて死んでしまえれば良かった。ベッドの上で、オレはずっと後悔していた。
自分の産まれた意味を見いだせない。
生きていることに意味があるのですよ、とオレを見てくれていた医師は言っていたが、どこにあるのだ。
そう思いながら、オレは守矢とともにイタリアへと行った。
「潤哉さま、レッチェという町はとても素晴らしいようです。楽しみですね」
ローマからレッチェに向かう列車の中で守矢は我が事のようにうれしそうに言っていたのを、昨日のことのように思い出す。
レッチェはイタリア共和国プッリャ州にあった。サレント半島の主要都市の一つで歴史は古く、二千年以上前から存在しているという。十六世紀末から十七世紀初頭にかけてイタリアで誕生した『バロック文化』を色濃く残す『コムーネ』で、別名を『南イタリアのフィレンツェ』とも呼ばれている。『コムーネ』というのはイタリア語で『共同体』という意味。基礎的地方公共団体(日本で言えば市町村のような自治体)の最小単位のことを指し示す言葉だ。
ローマから延々と陸路を走る列車の中から、風景を眺める。広大なぶどう畑が流れていく。イタリアはフランスと一・二位を争うほどのワイン産出国だ。日本とはまったく違う景色に、ずいぶんと遠くに来たなという実感が湧いてきた。
そして、レッチェに到着。
駅舎の外に出ると、日本とはまったく違う輝くような太陽にオレは思わず、目を細める。空気も乾燥していて、日本のようにじめっとしていない。日差しの下にいると太陽が直接じりじりと焼く感覚が強いが、日陰にいると、さらりとしていて心地よい。
オレと守矢は駅舎の影になる場所で待つことにした。
迎えの車が来ているということだったのだが、駅前には車が思っている以上に止まっていて人もいるのだが、それらしきものがない。待っていることに耐えられなくなった頃、一台の車が無造作に止められている車をぬうようにして現れた。止まるやいなや、運転席から一人の男性が転がるように出てきた。
『ジュンヤ!』
いきなり名前を呼ばれるなり、オレは白髪交じりの恰幅のいい男に抱きしめられた。そして口早になにかをまくし立てられた。
戸惑っていると、車に乗るように促された。この得体の知れない人物について行っていいのだろうか。投げやりになっていたオレは、すぐにその迷いを捨てた。
……もうオレはこの世にいない人間なのだ。好きにすればいい。そう開き直り、オレは言われるがままに車へと乗り込んだ。
男は陽気に、カンツォーネを歌いながら運転をしている。どこに連れて行かれるのか分からないまま、オレはその少し調子の外れたカンツォーネを聞いていた。男は気ままに口ずさむ曲を変えていく。音楽の授業で習ったことのあるものも中には含まれていた。男は朗々と、それは気持ちよさそうに歌っている。
『オー・ソーレ・ミーオー』
私の太陽、か。
太陽が輝く晴れた日は素晴らしい、だけどもっと素晴らしいものを知っている。それは君の瞳に輝く僕だけの太陽だ。とイタリア人らしい歌詞に授業中に苦笑したものだ。
この晴れ渡った空に輝く太陽よりも素晴らしいという瞳に会えるものなら、会ってみたい。
オレは男の歌う『オー・ソレ・ミオ』を聞きながら、そんなことを思っていた。
迎えに来てくれたこの男は、オレの祖父だった。まさか祖父自らが迎えに来てくれるとは思っていなかったので、かなり驚いた。
祖父の家はとても古かったが、それでも住み心地は良かった。それに、この土地の気候が、オレの傷ついた身体にちょうど良かったのもあった。
レッチェに到着してからのオレは、なにをすることなく、ぼんやりと過ごすことが多かった。オレは無気力感にさいなまれていた。目標を失い、どうすればいいのか分からなかった。
働けばなにか生き甲斐や目標でも見つかるかもとは思ったのだが、仕事をしたくても、言葉が分からなかった。まずは聞き取れてしゃべれるようにならないと何事も始まらない。身体も本調子ではなかったので、のんびりと癒しながら言葉を覚えていく。
とても穏やかな日々だった。
時々、こんなに安らかでいいのだろうかという思いがオレを苦しめたが、死んだも同然のオレにはあらがう術はなにもなかった。
そんな思いを抱えていた頃、ルーチェと出逢った。
言葉を覚えるには恋をするのが上達の近道だ、と言ったのはだれだったか。
オレはこの国を照らす太陽のような瞳を持つ彼女ともっと話をしたくて、必死になって言葉を覚えた。
ルーチェと出逢ったのは、近所を散策していた時だった。
彼女はTシャツと短パンというラフな格好で、石畳の上を歩いていた。このあたりは観光客が多い。その中の一人だろうと思いながら、すれ違った。
次の日も、そして次の日も、彼女とすれ違ううちにどうやら観光客ではないということに気がついた。向こうもこのあたりに日本人が住んでいるとは思っていなかったようで、オレのことは観光客と思っていた節があったようだ。
『チャオ』
何度かすれ違ったある日、向こうから声をかけてきた。
『……チャオ』
屈託のない笑みに、オレの心臓は少しだけ早くなった。太陽が笑ったらきっとこんな笑顔なのだろうと思わせるほど、今まで見てきた中で一番素晴らしいものだった。そして彼女は、なにかオレに話しかけてきた。しかし、ほとんど聞き取れなかった。このときほど、イタリア語が分からない自分が恥ずかしいと思ったことはなかった。オレは彼女の前から逃げるようにして家へと戻った。
オレはイタリア語を必死に覚えた。そして、散策の途中で出会う太陽のような彼女──名前をルクレツィア・ブラッファルドといった──と少しずつ仲良くなった。
ルーチェとは他愛のない会話を交わした。
オレはたどたどしいイタリア語とたまに英語を交えて日本の話をした。ルーチェはオレのわかりにくい言葉にたまに質問を挟みながら、いつも笑顔で話を聞いてくれた。
『ジュンヤが生まれ育った街に一度、行ってみたい』
その願いを叶えたい──。
たぶん、この時点でオレは、恋に落ちていたのだろう。
ここにくる途中、祖父が歌っていた『オー・ソレ・ミオ』のような人に逢いたいと願ったが、それ以上だった。ルーチェの瞳は、あの空に輝く太陽よりもまぶしかった。
──本当にいたんだ。
ルーチェに見つめられる度、オレの鼓動は早まった。
ずっと一緒にいたい。
そう思うようになるには、それほど時間は必要なかった。
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「守矢……イタリア語をもっと上手にしゃべりたいんだ」
さすがに独学でこれ以上は限界だと気がついていたオレは、守矢にそんな相談をした。
「いきなりどうされたのですか?」
それまでのオレは生きる意味を失い、日々をなんとなく過ごしているだけだった。穏やかと言えば聞こえはいいが、ただ、ぼんやりと日々をやり過ごしていた。
「せっかくイタリアまで来たのだから、少しでも身につけたいと思ってさ」
それが言い訳だということは分かっていた。守矢も気がついていながらも笑みを浮かべて一つの提案を口にした。
「潤哉さまがやる気になられたのなら、それは良かったです。イタリア語を教えてくれる人を探しましょうか?」
オレは守矢のその提案にうなずいた。
──こちらの出会いは、最悪だった。
太陽の娘に近づくために、オレは悪魔の力を借りることになったのだ。
守矢が連れてきたイタリア語の先生は、とても優秀だった。日本に何年か住んでいたこともあったようで、日本語も堪能であった。
そう、そこで気がつけば良かったのだ。数年しか住んでいないはずなのに、どうしてこいつはこんなにも日本語が堪能かということを。
『ジュンヤは教え甲斐がありますね』
アドルフォ・パヴェージという名のこのイタリア語教師は、人当たりがとても良く、そして教え方も上手だった。ブラコン気味だったオレは、アドルフォにすっかり懐いてしまっていた。
『なあ、アドルフォ。どこか連れて行ってくれよ』
アドルフォのおかげで、イタリア語もずいぶんと上達していた。イタリアの人々と会話をするのがすっかり楽しくなっていたオレは、彼にそんなお願いをした。日本からは一向に
「帰ってこい」
という連絡は入ってこない。オレの居場所はもう、日本にはない。イタリアはこんなオレでも受け入れてくれる。それならば、オレはここで第二の人生を歩めばいい。
イタリアの明るい雰囲気と空気が、オレをかなり前向きにさせていた。そして、アドルフォの優しさと太陽の娘・ルーチェのおかげで、イタリアのことが大好きになっていた。ここはオレの本当の故郷だと心の底から思っていた。
『いいですよ。わたしの仲間に会ってくれますか?』
そのとき、オレは気がついていればよかったのだ。アドルフォが『友だち』ではなく、『仲間』と言った意味を。
『いいぜ!』
そこからがまた、オレの転落人生の始まりだったなんて……気がつきもしなかった。