【ルーチェ】 01
「面会だ」
オレは鉄格子の外へと出され、面会室に連れて行かれた。コンクリに囲まれた、四角くて狭い部屋。そして、外界との隔たりを見せつけられる、透明な板。向こうを見ることはできるのに、手をいくら伸ばしても、向こう側には決して届かない。たった一枚の板のせいで、大きな隔たりを感じる。
「よお」
部屋に入り、椅子に座ったところで、今日の面会人がそう声をかけてきた。
「潤哉、元気そうだな」
はにかんだ笑みを浮かべたオレの親友──佳山睦貴がそこにいた。
月に一度くらいの割合で、睦貴はオレの面会に来てくれる。空知の家からは、だれ一人として来たことがない。弁護士も高屋の顧問弁護士だ。
面会に来てくれるのはありがたかったが、睦貴の顔を見る度、罪悪感に駆られる。結局オレは、睦貴を二回も刺したことをまだ本人に謝っていなかった。謝るタイミングを思いっきり逃したのも大きかったが、なんと言えばいいのか分からず、口に出来ずにいた。
「色々と差し入れを持ってきた。売店でもお願いしたから、そのうち、部屋に届くと思う」
「ああ……ありがとう」
睦貴が来てくれるから、どうにかここでも生活ができていた。
ここで生きていくためには、月に一度、睦貴の顔を見る必要がある。オレがもう来なくていいと言ったとしても、こいつは律儀に来るだろう。面会を拒否したとしても、だ。
謝罪をすれば睦貴の顔を見ても悪かったとは思うだろうが、今のような罪悪感に駆られることはないだろう。楽になれる──そんな甘い誘惑にお詫びの言葉を口にしてしまいたくなるのだが、オレはいつもそこで踏みとどまる。
『睦貴がその後、どれだけ傷つくのか想像も出来なかったの?』
文緒に言われて初めて、オレのやった仕打ちで睦貴がどれだけ傷ついたのか理解出来たのだ。
自分のことしか考えてなかったあの頃。オレのことを忘れて欲しくなくて、相手がどう思うのかなんて考えず……。
──謝ることは、楽になることだ。
この言葉は、だれが言ったのだろうか。ここに入ってから言われた言葉なのか、その前になにかで目にした言葉なのか。謝ることよりも謝らないでいることの難しさをオレは思い知った。
心の中ではずっと申し訳ないと思っていた。その度に心が痛むが、睦貴が当時感じた痛みを思えば、こんなものはまだ、痛みのうちには入らないだろう。そう感じることが睦貴に対しての遠回しだが謝罪になるのかどうか分からなかったが、オレは自分の罪を正面から見つめることにした。謝って楽になることは、一番の罪だ。
四人の命を奪ったことは未だにこれっぽっちも良心の呵責にさいなまれはしていないのだが……あの四人にも、死んだら悲しむ人がいたのだろうか。
透明の板の向こうにいる睦貴は、なにか言いたそうな表情をしてオレを見ている。
「面会時間はあんまりないんだから、言いたいことがあれば、言えよ」
面会の度にオレは睦貴に対して、同じ言葉を言っているような気がする。
「あ……うん」
オレの言葉を受け、困ったような表情を浮かべる。そしてどう答えようかと悩み、少し長めのやわらかそうな髪の毛をなでながら口を開くのも、毎回のことだ。
「足りないもの、なにもないか?」
そんなことが言いたい訳ではないのは分かっている。こいつは妙に人のことを気遣いすぎて、言いたいことを言えないのだ。
「充分すぎるくらいだよ。おまえの兄が手配してくれた弁護士も優秀な人だし、困ってない」
「それなら、良かった」
最初の頃、差し入れていいものと悪いものが分からなかった睦貴は、とにかく闇雲に物を持ってきて、係の人に怒られていた。最近では勝手が分かってきたようで、それはさすがになくなった。
「他になにか言いたいことがあるんだろ?」
毎回くる度になにか言いたそうな表情をしているくせに、結局、それを口に出さずに帰って行く。案の定、睦貴は口ごもる。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言えよ。オレはずっと気になっているんだ」
これだけ言ってもこいつはまだ、口ごもっている。
「おまえが優柔不断なのは知っている。だけどな、こっちの身になってみろ。いつもなにか言いたそうな顔をしたまま帰っていくなんて、気持ちが悪いだろ」
それでもまだ言いにくそうな顔をしている。あああ、もう、じれったい!
「睦貴」
少し強めにその名を呼ぶ。表情が乏しいというよりはどうすればいいのか戸惑っているこいつは、大きくため息をついた。
「……やっぱりおまえには、敵わないな」
敵わないな、じゃない。だれだって目の前で毎回、そんな物言いたげな表情でこちらを見ていたら、そう聞くに決まっているだろう。そして睦貴は前置きもなにもなく、いきなり核心を突いた言葉を口にした。
「おまえ……子どもがいるんだ」
もっと深刻なことを聞かれるのかと思っていたから、睦貴の言葉に思いっきり拍子抜けした。
「まさか、それを聞くのに何か月もかけたのか?」
「そうだ、悪いか」
おい、いきなり開き直りかよ!
睦貴は一度座り直し、姿勢を正した。そしてオレの顔を見ながら、口を開いた。
「空知幸政(そらち ゆきまさ)。今年十六歳になる男。ルクレツィア・ブラッファルドという名の女性との間に出来た、第一子」
懐かしい名前を聞き、胸が締め付けられる。そこまで調べているのなら、ルクレツィア……ルーチェがどうなったのか知っているだろう。
ルクレツィア・ブラッファルド。愛称はルーチェ。その名の通り、彼女はオレに光(ルーチェ)を与えてくれた。彼女と過ごした時間は、睦貴と過ごした一年に匹敵するほど、穏やかだった。
「幸政を産んだ後、彼女は帰らぬ人になった……」
「……そうだ」
「その、すまない」
「なんで謝るんだよ」
こいつはこういうヤツだ。相手の心の痛みまで感じ取り、そしてそれを抱え込む。今にも泣き出しそうな顔をして、オレを見るな。
「おまえ、馬鹿か。なんで見知らぬ他人に泣きそうな顔をしてるんだ」
「他人じゃない。潤哉の大切な人だったんだろう?」
ああ、確かに大切だった。ルーチェはオレの幸せの象徴だったのだ。その彼女とは、イタリアで知り合った。
オレの祖父はイタリアの『レッチェ』というところで生まれ育ったという。日本からイタリア行きと言われていたので、日本でも有名なローマだのヴェネツィア、ナポリあたりかと思っていたら、聞いたことない地名で、戸惑った。
世界地図を広げて、イタリアを見る。『レッチェ』という地名を探して、北から南へと下りていく。そして、いわゆる『ブーツのかかと』と言われる部分にようやく探し求めていた文字を発見したとき、正直な話、途方に暮れた。東へ行くとナポリとシチリア島がある。しかし、
「レッチェ」
と言われても……。場所がわかっても、まったくどんなところかイメージも湧かなかったのだ。
きっと想像もつかないほどのど田舎なのだろう。行く前から気持ちは激しく萎えていた。それでももう、行くことが決定されていて覆せないことだったので、オレは嫌々ながら、イタリアへ向けて旅立った。
到着して、オレはすぐにその景色が好きになった。日本とはまったく違う風景。見慣れない、少し無機質にも見える石ばかりの町であったが、このあたりの特産物である
「石灰岩(レッチェ石)」
で作られた建物は、はちみつ色に光っていた。石灰岩といえば白と思っていたオレには、この景色は結構、衝撃的だった。特に夕日に照らされた町は黄金色に輝いていて、まぶしく思えたほどだ。
気候もとても過ごしやすく、川へ飛び込んだ時に出来た傷を癒すにはとてもいい環境でもあった。日本にいると湿度のせいでじくじくと痛むことが多かったのだ。
町は無計画に作られたせいで混沌としていたし道も狭かったが、建物もバロック時代の物が残っているおかげでとても華やかで、美しかった。
そしてこの町で、オレはルクレツィアと出逢ったのだ。
ルクレツィアはオレの太陽(ソーレ)でもあり、暗闇の中にあった人生を照らしてくれる光(ルーチェ)でもあった。ようやく彼女のおかげで先が見えた、と思っていたのに……。ルーチェは本当にあっけなく、この世を去ってしまった。
オレが大切に思うヤツは……みんな、オレを残して逝ってしまう。
だからオレは睦貴のことを大切に思いながら、こいつがオレのことを『親友』と言ってくれても、『親友』と思いたくなかった。いや、心の奥ではそう思ってはいたのだ。だけど、オレが大切と思った瞬間、こいつはこの世から去ってしまいそうで……それが怖かった。
オレは昔、睦貴に向かって『死神』と叫んだことがあったが、それは自分自身のことだ。
「今、幸政はどうしてるんだ?」
睦貴の問いに、オレは苦笑いを浮かべた。
「どうしているもなにも、イタリアに置いてきたよ」
日本に連れてきたって、あいつには居場所がないのだから。
「おまえと幸政さえよければ、うちで引き取ろうかという話になっているんだが」
思わぬ申し出に、オレは思わず、睦貴に間抜け面を見せてしまった。
「おまえの子なら、俺の子ども同然だし」
「……おまえ、なにを言っているのか分かってるか?」
なんだこの、底抜けなほどのお人好しっぷりは。
「文緒もいいと言っているし、潤哉もいつ、ここから出られるか分からないだろう? 空知の家に居づらいのなら、うちにくればいい。部屋ならいくらでもある」
そういう問題じゃないだろ。
「潤哉の気持ちの問題もだし、それに、当の本人の幸政が嫌と言えば、無理強いはしない。でも、親と離れているのは幸政も淋しいだろう? 日本にいれば、自由にとは言えないけど、会うことはできる。考えておいてくれないか」
少し考えたかったのだが、もう、面会時間は終わりとなってしまった。
「……考えておく」
オレはそれだけ睦貴に告げると、面会室から出され、部屋へと戻された。
※地図は【白地図専門店】さまよりお借りして、倉永が加工しました。