【約束】02
* * *
俺の声に驚いた表情を見せる文緒。
文緒にはいつでも笑っていてほしいのに、俺はどうしてそんな表情をさせることしかできないのだろうか。
俺は潤哉を捕まえて、文緒から引きはがした。潤哉を投げ飛ばすつもりでいたのだが、身体が思うとおりに動かず、潤哉にもつれるようになってしまい、またもやナイフは俺の身体に突き刺さる。奇しくも、先ほど刺された側にナイフは埋もれた。
「やだ、睦貴! 死んだらダメっ!」
文緒の声が聞こえる。先ほども感じた血が抜けて行く感覚。
「大丈夫だよ、文緒」
強がりだとは分かっていたけど、文緒を泣かせたくなかった。自力で身体を支えられず、目の前の潤哉へとしがみつく。
「俺は……文緒と子どもたちを守るって、決めたんだ。だから──なにがあっても、死なない」
そう、ここで死ぬわけにはいかないのだ。淋しがり屋の文緒を置いて、死ねるわけがない。
俺の──世界の中心。一人残して死ぬなんて……、出来ない。
身体から血が抜けたからか、自分が冷たく感じる。しがみついている潤哉はそれに反して、とても温かい。
「あはは。潤哉、おまえって温かいな。きちんと血が通っている証拠だよ」
俺の言葉に、潤哉の身体が強ばる。
「もしも俺がダメになったら──悔しいけど、文緒と子どもたちを親友のおまえに託すよ。幸せに──なれ」
強がってはみたけど、これだけ血が流れたら、俺はもう、ダメかもしれない。
潤哉に託すのは癪だったが、こいつ以外に頼めるヤツがいないのだから。
なにがなんでも死ぬつもりはなかったが、もしもの時を考えて、潤哉に文緒と子どもを託した。
それだけ告げると、全身から力が抜ける。そしてまた、俺は意識を失った。
***
なんだかたくさん、夢を見た。
昔は夢の中もモノクロだったが、今見ているのは現実と同じ、色のついた世界だった。
まだ俺は生きているらしいということがなんとなく分かった。
夢の中の文緒は常に笑っていて、それだけは安心した。世界はまだ、終わってない。
珍しく幸せな夢ばかりで、俺は思わず、その温かな夢の中にずっといたい気持ちになった。
だけどそこはやっぱり夢で……。
手を伸ばしても、笑顔の文緒に触れることは出来なかった。
文緒が側にいるだけでいいなんて思わない。幸せな姿を見ているだけで幸せなんて、思わない。触れることが出来なければ、それは意味がない。
ぬくもりを感じ、唇を重ね、身体も合わせたい。いるだけでいいなんて思わない。
側にいれば幸せなんて、そんなのは嘘だ。
文緒の肌のぬくもりを知らなければそれでも良かったかもしれないが、今の俺は文緒のぬくもりを知ってしまった。肉欲にまみれた俗な人間でしかない俺には、そんなきれいごとは言えなかった。
幸せそうに笑っている文緒に触れることが出来ないなんて、泣いている文緒を抱きしめているよりも拷問だ。
俺は文緒のぬくもりが欲しい。この腕で抱きしめて、キスをして、一緒に気持ちよくなりたい。生きているという実感がほしい。
文緒は、俺の世界に色を与えてくれると同時に、世界を正しく認識させてくれる。文緒が生きているということは、俺も生きているのだ。死ぬわけにはいかない。
──生きなければならない。
***
目が覚めたとき、室内に人がいる気配がした。
どうにも緊迫した空気。
「いやよっ、睦貴以外、要らないんだから!」
文緒の叫ぶ声。
俺は自分でも驚くほど素早くベッドから立ち上がり、声がするところまで向かった。
付添人が寝泊まり出来るように用意されている和室に敷かれた布団の上に、文緒と潤哉がいる。
頭に血が上る。身体から抜けた血が頭に集中したせいでくらくらするが、それよりも潤哉の行為に耐えられなかった。
夢の中であれほど感じたいと思った文緒のぬくもりを、潤哉が独占しているのだ。奪い返さなければならない。
傷口の痛みは、まったく感じていなかった。
文緒の上に乗っている潤哉の肩をつかみ、投げ飛ばす。
文緒に触れていいのは、俺だけだ。
「……大丈夫か、文緒」
声を出すのも辛い。身体は一時も早く文緒のぬくもりを感じたいと願っている。
いつものように動けない身体にいらだちを覚えながら、文緒へと近づく。
「む……つき?」
名前を呼ばれ、しかし、文緒はそのまま固まってしまったように動かない。
それは遠い過去を思い出させた。
俺と文緒が一つになる前の話。柊哉が文緒を襲った時のことを。
「文緒?」
まさか、という嫌な考えがわき上がってくる。それをぬぐいたくてもう一度、文緒の名前を呼ぶ。
文緒は驚いたように飛び起き、
「なんで起きてくるのよ!」
といつもの調子で怒鳴ってくれた。ああ、文緒の怒鳴り声っていいなぁ。
「また傷が開くじゃないの!」
先ほどの出血のことを言っているのだろうか。あれは新しく傷が出来たせいでって説明したらまた、文緒に怒られるんだろうなぁ。怒られたいという気持ちはあったが、心配をかけさせてしまうことになるから、別の言葉で濁してみる。
「大丈夫だよ、しっかり縫ってくれてるみたいだし」
文緒の反応に、潤哉とはなにもなかったと結論づける。そう思うと、身体から力が抜けていく。ちょうどいい具合に点滴スタンドが俺の横にいる。どうせなら美女か文緒がいいんだけどななんて馬鹿なことを思いながら、それにもたれかかる。細身の冷たいボディのそれは、かなり頼りない。一緒に倒れかねないなと思っていたら、文緒が駆け寄ってきてくれた。
文緒が動いたことで、部屋の隅にうずくまっている潤哉が見えた。
「馬鹿っ! 大人しく寝て! そ、そうだ! この布団でもいいから!」
文緒の声は聞こえていたが、俺から文緒を奪おうとした潤哉をにらみつけた。
「潤哉、今、文緒になにをした」
文緒にまた、あんな表情をさせてしまった。それがたとえ、『親友』であっても──いや、『親友』だからこそ、許せなかった。
文緒が不安そうに俺の裾を握ってきたのが分かった。
「文緒はだれにも渡さない」
潤哉をにらみつけたまま、文緒の腕をつかみ、腕の中へとおさめる。夢の中でもずっと求めていた、文緒のぬくもり。文緒が俺の胸へ顔を埋めてくる。いつものその仕草に、生きている実感が湧いてきた。
上げられた顔を見ると、ずっと求めていた唇が真っ先に目に入り、それをふさいだ。柔らかな感触。わずかに開いた隙間から舌を入れると、珍しく追いかけてきた。
ダメだと分かっていても、文緒は自分のものだと主張したくなる。
文緒は文緒なのだ。俺のものではない。
分かっていながらも……。
「潤哉」
文緒が腕を握りしめてくる。
「文緒は渡さない──俺のものだ」
俺は文緒を抱きしめた。
「ふーん」
潤哉はまったく気がついていないのか、それとも強がっているのか。
「なるほど。睦貴が怒るのは、その子が絡んだ時だけなんだ」
一年だけの付き合いだったが、さすがに分かっているようだ。
「文緒は……」
潤哉にそう宣言をしたことで気が抜けた。気力だけで立っていられなくなってしまい、悪いと思いながらも文緒にもたれかかる。
「文緒は、俺がこの世界を正しく認識するために必要なんだ。文緒がいなければ──この世界には、意味がない。もう、色のない世界には……戻りたくないんだ」
味気ない、白と黒の世界。
文緒をこの世から失ったら──俺は生きることを止めるだろう。
「文緒──愛してる。俺の側から、離れないで」
ああ、人間とはなんと欲深いのだろう。
想いが通じ合う前は、側にいてくれさえすれば良かった。
想いが通じ合い、一つになった今。
──側から離れられることに恐怖して、ぬくもりを感じられないことを嘆き、一つになれなければ狂いそうになる。
文緒は文緒なのに、自分のものだと宣言してしまった。文緒がどう思っているかなんてかまわず……。傲慢な自分に、自嘲の笑みが浮かぶ。
「睦貴?」
文緒の悲痛な声。
俺はおまえを残して死なないから。そう言いたいのに、さすがに限界だ。
文緒のぬくもりに、こんな場面だというのに安堵を覚えてしまった。