愛から始まる物語


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【Voice】10



     ***

 潤哉は膝の上に置いていた手を握り直し、口を開いた。

「あいつは、あいつこそ──生まれながらに上に立つ人間だ。人を惹きつけて離さない。オレが必死になってやったものを、アイツは簡単になんでもなくやってみせる」

 潤哉のその言葉に、私は首を振る。

「違うよ。睦貴はなんでもなくやってなんかない。睦貴はね、すごい努力家なんだよ。負けず嫌いだから、全力でやるの」

 昔、小学校で流行っていたあやとりを睦貴に披露した時。
『俺にも出来るかな?』
 と言ったので、睦貴なら器用だからできるよ、とあやとりの紐を渡してやり方を教えた。でも、睦貴は意外に不器用で、指にこんがらがせて私の貸した紐を切ってしまった。その紐はものすごく気に入っていた物で、今にして思えば本当に大したことではなかったのだけど当時の私にしてみれば一大事で、大泣きしてしまった。睦貴は見たことがないくらいおろおろしていて、私が泣き止むまで根気よくつきあってくれた。
 そして次の日。目の下にクマを作ってやって来た睦貴の手にあったのは、ピンク色の毛糸で編まれた、新しいあやとり紐だった。
『紐を切ってしまったから代わりに新しいのをと思って』
 目の下のクマとともに、いつもはきれいな指もあちこちがすりむけていて、びっくりした。だけどその当時はその意味することを理解出来なかった。
 睦貴が自分のために紐を編んでくれた、しかも好きなピンクで。ということだけがうれしくて、睦貴に抱きつき、その頬に軽くキスをした。困ったような表情を浮かべていた睦貴を、今でも昨日のことのように覚えている。
 睦貴が編んでくれたピンクの紐はもったいなくて使えなくて、今でも大切に取ってある。
 結婚して、睦貴のあの部屋に一緒に住むことになり、片付けをしていたとき。
『睦貴、編み物なんて趣味があったの?』
 すっかりそんなことがあったことも忘れていた私は、見覚えがあるピンク色に引っかかりを覚えながら睦貴にそんなことを聞いた。
『ああ、それ。ほら、文緒から借りたあやとりの紐を切って泣かせてしまっただろう。代わりを編んだ残りだ。そんなところにあったのか』
 そう言われ、思い出した。
 箱の中にきれいにおさめられていた毛糸を見て、紐を編むだけにしては残りが少ないことに疑問に思い、さらに聞いた。
『紐を編むだけにしては、残りの毛糸が少なくない?』
 あやとりの紐を編むためだけに用意されたと思われる毛糸は、元々は一玉あったはずだ。あやとりの紐用キットなんて売っている訳がないのだから、通常ルートで入手したものであれば、毛糸一玉が妥当だろう。あやとりのための紐なんてそれほど長くなくていいのだから、ほぼ一玉が残っていなければならないのに、それはかなり小さくなっていた。
『なかなか気に入った紐が出来なくて、たくさん編んでいるうちに残りが少なくなったんだよ』
 その言葉に、あの当時の睦貴の指を思い出した。前の日まで傷一つない、きれいな指をしていたのに、あやとりの紐を渡してきた指は、すれて皮がむけて赤くなっていた。慣れない手で毛糸を触ってすれてしまい、ぼろぼろになったのだろう。私があんな些細なことで泣いてしまったから、睦貴は必死に編んでくれた。悪いことをしたという思いが胸を締め付けた。
『指……』
『ん? いきなりどうしたんだ?』
 私は睦貴の手を取り、その指を一本ずつなでた。
 長くてきれいな指。なんでも器用にこなすその指が私は大好きで、だけど実はたくさんの努力もしてきた指でもあり……そう思うと、ますます愛おしく思えたのを思い出した。
 この話も一例でしかないのだけど、睦貴はいつもそうやって見えない努力をしてきている人なのだ。

「睦貴は、飄々としてつかみどころがないけど、あの人は影でがんばっている人なんだよ」

 私のその言葉に、潤哉は少しだけ笑みを浮かべた。

「……そうだな。どんなにがんばっても、勉強は勝てなかったよ」

 ああ、そうか。と潤哉はつぶやく。

「睦貴に出会うまで、オレはなにをしても一番だった。だから睦貴もオレより格下だと思って不用意に近づいて──初めて、敵わない人間に出会った」

 潤哉はそこで、一呼吸置いた。

「みんなオレより劣っている。どこか周りの人間を馬鹿にしていた部分があったんだ。それを睦貴が木っ端みじんに砕いた。悔しかったんだ。オレが、このオレさまが負けるわけない。だから睦貴に勝つために努力して、がんばっても──あいつは軽々とオレを乗り越えてクリアしていくんだ」

 急に喉の渇きを覚えた私はソファから立ち上がり、冷蔵庫に収めていた飲み物を取り出し、潤哉にも手渡した。ふたを開けて一口飲み、ソファへと戻る。潤哉も喉が渇いていたようで、ふたを開けると半分ほど一気飲みしていた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 微笑んで答えると、潤哉はなぜか目をそらした。どうしてと思ったが、潤哉が話を始めたのでそちらへ気を取られた。

「あいつはまったく負けてくれないんだ。悔しくて、悔しくて……。その悔しい気持ちと喬哉兄さんの復讐の気持ちをいつの間にかすり替えてしまっていた。睦貴を殺さないとオレは楽になれないと思ってしまったんだろうな」

 潤哉は当時の心境を思い出しているようで、苦しそうに眉間にしわを寄せている。

「だけど結局、睦貴を殺すなんて出来なかった。別荘で突き落とすふりをして脅してやろうとしたのに、あいつは勝手に落ちた。あの時、心臓が凍り付いたよ。目の前にいる睦貴が死んでしまったら──オレはどうなるんだ、と。オレはきちんと自覚してなかったけど、あいつのこと、オレも親友だと認めていたんだよ」

 潤哉のその言葉に、私は思わず笑みを浮かべていた。
 睦貴はずっと潤哉に対して『親友』と言っていたけど、潤哉も睦貴のことを『親友』だと認めていたのだ、と。

「あの別荘の一件からずっと悩んでいた。オレは憎くて睦貴に復讐をしようとしていたのに、どうしてあんなに動揺してしまったのか、と」

 そして少しだけ潤哉は、表情をゆるめた。

「本当に楽しかったんだ。今までないほど、心も穏やかだった」

 その頃を思い出しているのか、潤哉の表情は柔らかだ。しかし、すぐにその表情は消えた。

「あいつの側にいたら、オレがダメになってしまう。早く離れないと。そればかりが焦りを生んだ。だけど、離れられなかった」

 そうしている間に月日は経ち、タイムリミットの一年が来ようとしていたという。

「中学を卒業したら、元々、イタリアに行くことになっていたんだ。オレ、いわゆる愛人の息子だったから、空知の家にいられなかった。だけどわがままを言って、一年だけという約束で睦貴が通っていた高校に入った」

 イタリアに行きたくない、もっと睦貴の側にいたいと思っていたが、イタリア行きは決定していたし、それを覆せるほど力はなかったという。

「睦貴にだけは真実を伝えておこうと思ったんだけど、どうせオレのことなんてすぐに忘れてしまうんだろうなと思ったら、すごく悔しかった。オレはいつだって一番でいたかった。睦貴の中でもオレが一番になれないのだったら意味がなかったんだ。一番になるにはどうすればいいのか考えた」

 それはずいぶんとわがままな考えではないのだろうか。

「目の前で一生、忘れられないほどの出来事を起こしてやればオレのことを忘れないだろうと思って……生きていたっていいことがなかったから、本気で死ぬ気でいたのも確かなんだ。睦貴のことは憎んでいたけど、あいつはオレがどう思っているかなんて関係なく『親友』だと考えていてくれているようだった。『親友』が目の前で死ねば、それは遠回しだが『タカヤ』に復讐したことになる。それに、だれか一人にだけでもオレという存在を覚えていてほしかった」

 なんて自分勝手なんだろう。
 『親友』と思っていた人間が実は自分を憎んでいた──。それだけでも充分、心の傷になるというのに、目の前で自殺してみせるなんて。

「信じられない──」
「オレという存在をだれかに受け入れてほしかったんだ。睦貴はそれをしてくれた。だから、睦貴にオレを任すことができると……」

 潤哉を今更責めたって仕方がないのは分かっていたけど、言わずにはいられなかった。

「睦貴がその後、どれだけ傷つくのか想像も出来なかったの? 睦貴はっ、それでなくても抱えている物があったのに!」

 ずっと疑問に思っていたのだ。
 睦貴のお母さんとの出来事は睦貴本人から話してもらった。だけど、それだけではないなにかをまだ抱えていると思っていたのだ。それがまさか、こんなにも大きな物だったなんて……私はなにも知らず、睦貴に甘えていたのだ。

「おまえはなにを──知っている」
「睦貴はそれこそ、私が生まれた瞬間から側にいる人なんだからっ」

 ソファが動いたことで潤哉が体勢を変えたのが分かった。

「生まれた瞬間から? おまえまさか、睦貴と──」
「違う、誤解しないで! 睦貴とは血は繋がってないよ!」

 この人はあの夏の日に睦貴が執拗に私を『娘』と言ったことをまだ信じているのだろうか。

「おまえたちのことは調べたよ。戸籍上は繋がってないが、実は……ってことは」
「あるわけ、ないじゃない! 私は蓮となっちゃんの子どもよ!」

 なっちゃんから生まれたのは間違いない。だって、何度も何度もなっちゃんがお屋敷の廊下で産気づいて、睦貴が取り上げたと聞いているのだから。
 そのことを潤哉に話したら、思いっきり引かれた。

「睦貴は……自らの手で取り上げた赤ん坊に手出しをしたあげく、嫁にしたということか?」
「そ、そうよ。なにかいけないの?」

 睦貴が取り上げたという話を他人にしたのはこれが初めてで、どうしてそういう反応になるのか私には不思議でたまらない。

「年齢差は確か……十六。いや、正確に言えば、十七あるんだよな」
「うん。睦貴は早生まれだから。私を取り上げた時は十六歳だったんだって。すごいよね、普通ならパニックに陥って逃げちゃうのに、きちんと私を取り上げてくれるなんて、さすが睦貴」
「そこ、関心するところじゃないだろ」

 おかしいのかなと不思議そうな表情で潤哉を見たら、呆れたような顔をされた。

「ロリコンを通り越しているな……。光源氏かよ」






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