【Voice】06
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アキさんが帰ってすぐ、睦貴は処置室から出てきた。ベッドの上に眠っている睦貴は先ほどよりもさらに蒼白になっていて、言葉を失った。
「ご家族の方ですか?」
睦貴の後を追いかけることも出来ず呆然と見送ってしまった私に、だれかが声をかけてきた。私はゆっくりとその声の主へ視線を向けた。そこには、白衣を着た人が立っていた。
その人は睦貴を担当した医者で、説明によると、出血は多かったが命には別状はないということだった。その言葉に少しだけ冷静になれたので、睦貴が寝ている部屋へと戻った。それを聞いていなければ、私はずっと、睦貴の枕元で泣いていたと思う。
睦貴は、私の世界そのものだ。私がこの世に生まれ出でたとき、その両手で受け止めてくれた。世界のまぶしさと心細さに戸惑って泣いている私を安心させてくれたのは、睦貴という『世界』だった。
睦貴を失うことはすなわち、世界の消失。
その不安はとりあえずは去ったということに、安堵した。
電気はすでに消えていて薄暗いが、補助灯が付いているので部屋の中を歩くには支障はなかった。ゆっくりと歩き、睦貴の寝ているところまで行く。
生気のない顔に泣きそうになりながら、睦貴の手を取る。すると、先ほどとは違って思っている以上に熱をはらんでいて、私は焦った。思わずナースコールを押してしまう。
すぐに慌てたような足音が聞こえ、人が部屋へと入ってきた。
「どうされました?」
「あの……。手がものすごく熱くて」
駆けつけてきた看護師さんは部屋の電気をつけ、私の側へとやってきた。その表情は思っているより穏やかな笑みを浮かべていた。
「怪我をすると熱が出て、身体を守ろうとするのですよ。よくなろうとしている証拠です」
そう言われ、不覚にもまた涙があふれる。
睦貴は私とした約束をきちんと守ってくれる。睦貴は生きようとしてくれている。
だから、睦貴を信じよう。
睦貴の手を握り、私は側にいると伝える。
看護師さんは睦貴の体温を測り、記録した。
「電気はどうされますか?」
「あ……消してください」
つけていたらまぶしくてきちんと眠れないかもしれないので、消してもらうことにした。看護師さんが電気を消してくれたので、室内には暗闇が再び、訪れた。
睦貴の側に座っていようかと思ったけど、さすがの私も疲れていた。この部屋は付添人も泊まれるように和室がついていて、そこに一人分の布団が用意されている。私は布団を敷き、横になった。
そういえば、潤哉はどうなったのだろうか。つかまったとも聞いていない。
そんなことを考えながら寝たからか、十二年前のことを夢に見た。
○ ○ ○
「おまえは本当に睦貴の『娘』なのか?」
むっちゃんが『親友』だと言った、なんだか血なまぐさい男にそう聞かれた。
違うと否定したかった。むっちゃんは私の父でも保護者でもない。
彼氏? ううん、違う。だってまだ私、むっちゃんに
「好き」
と言ってない。
「好き」
だと伝えたことがない。だって、
「好き」
という気持ちを上回っているから。
大切な人。
だけどここで私が『娘』ではないと否定したら、今までのようにむっちゃんの隣にいることができなくなる気がした。だから、肯定も否定もすることが出来ずにいた。
今はまだ子どもだけど──あと二年、十六歳になったら、告白してもいいかな?
むっちゃんはきっと、私の想いを受け入れてくれるだろう。むっちゃんが私を拒否するなんて考えられなかったからだ。
むっちゃんは最初は驚くだろうけど、過程がどうであれ、むっちゃんが私のことをどう思っていても、……もちろん、むっちゃんも私のことを好きでいてくれるのが一番だけど、最後には絶対に私を受け入れてくれる。
蓮となっちゃんは『高屋だから』と言っていたけど、むっちゃんはむっちゃんでしかないのだ。むっちゃんが『高屋』であることに苦痛を覚えているのなら、私がそれを取り除いてあげる。私にはそれが出来ると自負している。
「まあいい。おまえが睦貴の『娘』であってもなくても。睦貴からおまえを奪えば、あいつはどれだけ苦しむだろうな」
男に後ろ手で掴まっているので顔を見ることができないが、その一言に背筋が凍った。
私の存在がむっちゃんを苦しめることになる。
「最低。あんたみたいなヤツのものになんて、なるわけないじゃない!」
精一杯の強がりと分かっていたけど、そう言わずにいられなかった。
「絶対にむっちゃんから離れないんだから!」
むっちゃんに向かって、こんなに強い意志を表明したことがない。今の関係は心地がいいから、壊したくないのだ。だけど、今はここではっきりと言っておかないと駄目なような気がして、宣言した。
「ようするに、『娘』ではないわけだ」
私の言動から私とむっちゃんの関係を推測したようだ。肯定したいところだけど、なんだかそれも悔しい。だから私は黙っていた。
「なるほど。睦貴は大切な人を手に入れたのか。──それなら、ますますおまえがほしくなった」
「最低じゃない! 人のものをほしがるなんて」
違う。私はまだ、むっちゃんのものではない。それを強くは望んでいるけど、違うのだ。
「この世は、無限じゃない。有限なんだ。ほしいものは手に入れる。それがたとえ、人の物でも、だ」
怖い。
この人は、怖い。
どうしてむっちゃんはこんな人を『親友』と言ったのだろうか。
「あなた、むっちゃんの親友なんでしょう? どうして親友の大切な……ものを、奪おうとするのよ」
むっちゃんにとって、私は大切な者? 『大切な娘』とは言ってくれているけど、そう信じてもいいんだよね?
「あいつが憎いんだよ。恵まれていながら、自分の立場を悲観するなんて」
むっちゃんは悲観なんてしてない。
生に対して少し希薄な部分があるような気もするけど、それでも前を向いていると思う。
「むっちゃんはきちんと生きてる! 悲観なんてしてないよ!」
否定したら、目をすがめてさらに鼻で笑われた。
「本当にめでたい頭をしているんだな、あいつは。それでこそ、落とし甲斐があるってものだ」
なんてひどい人なんだろう。
むっちゃんは仲良くしようとしてるのに、なんでこの人はそれを拒否するの?
「ひどいよ。どうしてそんなにひどいことを言えるの!」
なんだかすごく悔しい。
人見知りをするむっちゃんがあんな表情をするなんて、よほど気を許してると思うのに、どうしてそんなに否定するのだろう。むっちゃんが気を許している人だから私も仲良く話したいと思うのに、この人がこうだったら、私だってかたくなになってしまう。
──そうか。
「分かった。あなた、淋しかったんだ。むっちゃんに『親友』と言われたのに、自分がいない間でも平気そうだったから。……違う?」
図星だったのか。返事はなかった。
「私、よく分からないけど……高校生の時の話、楽しそうに教えてくれたよ。きっとね、むっちゃんにとって、とっても大切な時間だったと思うの。だから」
「うるさいっ! おまえのような子どもになにが分かるんだ!」
後ろの男は怒鳴り声を上げた。私は怖くて萎縮してしまいそうだったけど、ここで負けてなんていられない。だから虚勢を張った。
「分かるもん! あなたから見れば子どもかもしれないけど、むっちゃんのことは生まれた時からずっと見てるもの。むっちゃんは優しいから、もう一度仲良くしようと言ったら、前の通りの関係に戻れるよ!」
「……もう、遅いんだよ。なにもかも」
諦めたかのように私の後ろでつぶやいている。振り返ろうとしたら、向こう側にむっちゃんが見えた。
「むっちゃん!」
むっちゃんはすぐに私に気がついてくれた。目を見開き、驚いた表情。
むっちゃんの親友とも仲良くなりたかったけど、だけどやっぱり、むっちゃんの側がいい。
「離して!」
「文緒!」
ああ、やっぱりこの声だ。私の大好きな、声。
よし、決めた! どうあっても私はずっとむっちゃんの側にいる!
そう決意して、むっちゃんの胸へと飛び込んだ。