【Voice】05
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「オレはおまえがほしい。どうあっても奪う。ましてや……睦貴のものだというのなら、ますます欲しい」
熱に浮かされたかのような潤哉に、ぞくりと背筋が凍る。
この人は、本気だ。
「そんなの、おかしいよ! 睦貴は親友なんでしょう?」
「親友? オレは一度もそんなことを思ったことはない。睦貴が一方的にオレのことを親友と言っているだけだ」
そういった潤哉の瞳に一瞬だけ、悲しそうな光が宿った。
もしかしてこの人。
大切な人を亡くしているのかもしれない。とても悲しい思いをずっと抱いていて、もう二度とそんな気持ちを感じたくなくて、大切なものを作ろうとしていないのかも。本当はそれがほしいけど失う痛さを知っているから、要らないと強がっている?
本当は潤哉も睦貴のことを親友だと認めているのだ。だけど睦貴を失ったときのことを考え、傷つきたくなくて、違うと言い張っているような気がする。
「睦貴は、強いよ。あなたが思っているより、強い」
そう、睦貴は強い。私を置いていなくなったりしないのだから。
潤哉に言い聞かせるというより、自分に言い聞かせる。
「あいつは、幸せなのか」
自嘲気味の潤哉のつぶやき。
「──憎い。幸せを手に入れたあいつが、憎い」
茶色い瞳には冷たい炎が宿る。
「そうか。幸せの象徴はおまえなのか」
今にも食べられてしまいそうなどう猛な笑みを浮かべ、私を見ている。
「やはり、おまえをどうあっても手に入れなくてはならないようだな」
「ねえ、おかしいよ! 睦貴を憎んだって、あなたは幸せになれるわけ、ないじゃない! 睦貴は、あがいてあがいて……たくさんの努力をして、幸せを手に入れたんだよ。あんたなんかに、壊されてたまるものですかっ!」
一瞬は同情したが、私はそれを振り払うように声を張り上げた。
「私を手に入れたって、私はあなたを見ない。私から睦貴を奪えるのなら、奪えばいい!」
憎しみだって向けるものですか。私の気持ちはすべて、睦貴にしか向いていない。それを表すように、私は潤哉から顔を背けた。
「……オレの気持ちなんて、だれも分からないんだ」
力なくぽつりとつぶやかれた言葉。
「そんなこと、ない。睦貴は分かっているじゃない。それとも、睦貴になりたかったの?」
つかまれていた手首に痛いほどの力を込められる。図星だったのかもしれない。
「オレが睦貴に? はっ、笑わせるなっ」
思ってもいなかったことを指摘されたのか、潤哉の手は震えている。
「どうしてあんな能天気で馬鹿なヤツにオレがなりたいなんて」
こんな緊迫した状態だというのに、睦貴の評価を潤哉の口から聞いて、思わず笑ってしまう。笑ってしまったことで潤哉の神経を逆なでしてしまったようで、私の手首を握っていた右手を外したと思った途端。
目の前に、血に濡れたナイフを突きつけられた。
これは先ほど、睦貴を刺したナイフ?
恐怖よりも怒りの感情がわき上がってくる。
「どうして睦貴を刺したのよ!」
目の前にナイフを突きつけられているのは分かっていたけど、どうしても冷静になれなかった。
潤哉は私にさらによく刃が見えるようにナイフを持ち替えた。銀色に光っているはずのナイフは、睦貴の血をべったりと吸い、赤黒くなっている。このナイフに刺されれば、睦貴と一緒になれる。
私は吸い寄せられるように足を一歩、踏み出した。
「文緒っ!」
聞き覚えのある、そして聞きたいと願っていた声。
それと同時に、私の目の前から睦貴の血の付いたナイフとそれを握っていた潤哉が消えた。
一瞬、なにが起こったのか分からなかった。
目の前には睦貴の背中。
水滴が落ちる音。下に目を向けると、白い床に赤いしずく。さびた匂い。
「やだ、睦貴! 死んだらダメっ!」
刺された傷口が開いたのか、考えたくないが新たに出来た傷なのか……。
「大丈夫だよ、文緒」
いつもより力のない声。
「俺は……文緒と子どもたちを守るって、決めたんだ。だから──なにがあっても、死なない」
睦貴は潤哉にもたれかかっている。潤哉は戸惑いと途方に暮れた表情をして、睦貴を見ている。
「あはは。潤哉、おまえって温かいな。きちんと血が通ってる証拠だよ」
睦貴のその言葉に、潤哉は泣きそうな表情を浮かべている。
睦貴は潤哉の耳元になにかを囁いた。そして──。
「いやああ、睦貴っ!」
白い床が赤く染まり──その中心部に睦貴が崩れ落ちた。
私の悲鳴を聞きつけた看護師たちはすぐに駆けつけてきた。そして睦貴はそのまま処置室へと運ばれた。
血だまりの横には魂を失ったかのように呆然とした潤哉が座っている。
私はどうしていいのか分からず、自動販売機にもたれかかっていた。
目の前でてきぱきと看護師たちが片付けをしている。
ようやく、睦貴がどうなったのか聞かなくてはということに思い至った。近くを通った看護師を捕まえて聞く。
「あのっ、先ほど運ばれた佳山睦貴はっ」
「……あなたは?」
「睦貴の妻です」
看護師に付いてくるように促され、私はその後を追った。
看護師の案内で到着した処置室の前には、アキさんと敦貴がいた。
「アキさん、敦貴……」
敦貴は疲れてしまったのか、アキさんの腕の中で眠っていた。アキさんは慈しむように見ていた優しい瞳から一転して、私へものすごく申し訳なさそうな視線を向けてきた。
「文緒、申し訳ない。敦貴がトイレというから連れて行っている間に、睦貴がベッドから抜け出したようで……」
そういうと、アキさんは私に向かって頭を下げた。
「やだ、アキさんっ! 頭を上げてください。アキさんが悪い訳じゃないですから!」
謝らないといけないのは、むしろこちらだ。睦貴は私を守るためにきっと、無理してやってきたのだ。
「睦貴は……私を守るために……」
そう口にした途端。涙が堰を切ったかのようにあふれ出てきた。
「睦貴は、大丈夫です。だって、だって──。死なないって私に約束してくれたんです。睦貴はいつも、約束を守ってくれました。だから、大丈……夫」
最悪な事態しか思いつかないけど、そう思っていてはダメだ。私たちが睦貴を信じてあげないと、睦貴だってがんばれない。
「私たちが睦貴は大丈夫って……思わないと……」
ぬぐってもあふれ出てくる涙を止めることを諦め、私はアキさんを見る。
泣き顔はかわいくないから睦貴には見せたくないってそういえば昔、思ったな。だから、睦貴が起きてくるまでには泣き止もう。
「……そうだな」
潤んだ瞳を私に向け、アキさんはうなずいた。
「文緒はこのまま、睦貴に付いていてくれ。俺は敦貴を連れて帰る」
「はい……。すみませんが、お願いします」
アキさんは明日から通常通り、仕事があるはずだ。睦貴のことが気にならないはずはないのに、すでにアキさんは『睦貴の兄』から『総帥』へと変わっていた。彼の背中には、私なんかには分からないほどの重みが乗っかっている。そしてそれは、アキさんの腕の中で眠る敦貴と、お屋敷で待っている瑞貴が引き継ぐことになっているのだ。
私は親として、双子になに一つしてあげることがない。ただ見ていることしか出来ない歯がゆさに、自分の無力さを思い知った。
「なにか変化があれば、夜中でもいいから連絡を入れてくれ」
「はい」
連絡することがないことを祈りながら、私はアキさんが帰っていく背中を見送った。