たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【決死のダイブ】
「私が先に降りるよ」
と言うなり、文緒はその身体を宙に投げだそうとしたので、俺は必死になって止めた。腰が引けていて、かなり情けない。
「ちょ、ちょっと待て、文緒。お、降りるのなら、俺から」
「どうして?」
「どうしてって……。お、俺が先に降りて、下で文緒を受け止めるよ」
と言っておきながら、どう考えても無理なのは分かっていた。だけどここで強がらないと、俺はいつ、強がればいいんだ。
文緒を下がらせて、俺は建物の縁に立つ。
下を見ると、くらりとめまいがする。
……うん、無理。
いくら命の危険が迫っているからといっても、ここから飛び降りるのは、無理だ。
それにはきっと、潤哉のあのダイブがかなり俺の中に影響している。ああ、そうだ。一度、あの止まり木のような渡り廊下から落ちたこともあったのだ。そのせいで、あの痛みを思い出し、身体がすくんで動くことができない。
早くしないと炎がだんだんと迫ってきているのは空気の気配で分かる。周りがどんどんと暑くなってきているのだ。
よし、三数えて降りよう。
そう心の中で決めて、一、二……までは数えられるのだが、なかなか三と言えない。
こうして俺がぐずぐずしているうちに、炎がかなり迫ってきた。
まずい。
覚悟を決めて降りよう。
「よ、よし! い、一……二……さ、さぁー……」
「むっちゃん、待って!」
うわああ! 文緒、いきなり声を掛けてくるな!
危うく滑り落ちそうになりながら、俺は身体を立て直し、縁から飛び降りて屋上へと戻った。
「なにか聞こえない?」
文緒に言われて、耳を澄ませる。
周りは炎のはぜる音と建物が崩れる音。それ以外に上空から……。
俺は慌てて空を見上げる。
少し先に白く輝く物体が見える。
あれは……未確認生命体が乗っているという未確認飛行体……いわゆる、UFOというやつですか?
いや、違う。
「……ヘリコプター?」
エンジン音とプロペラの回転音が近づいて来ている。
機体のドアが開き、そこからは見覚えのある人物が身体を乗り出してきた。
「睦貴、文緒、無事か?」
爆音のせいで兄貴の声は聞こえないが、口の形でたぶん、そう言っているのだろう。
「……兄貴?」
なんで兄貴が? という疑問が最初に浮かんだが、屋上の中空に止まり、縄ばしごが降ろされた。
登ってこいと言わんばかりにジェスチャーされ、先に文緒を上に上げ、その後に俺は続いた。
俺が何段かはしごを登ったのを確認した兄貴は機体内に身体を戻し、何事かを指示しているようだった。ヘリコプターは浮力を増して、宙へと飛び立った。俺は慌てて、上へと目指した。
……その際、下からの文緒を眺めるのもいいな、なんて思いませんでしたよ!
思ってない! 意外にいいお尻してるじゃんなんて思ってないから!
……ごめんなさい、こんな状況なのに、そんなことを思ってしまった俺を許してください!
そういえば、お尻ぺんぺんの刑をしなくてはいけなかったなんてことまで思ったなんて……とてもではないけど口が裂けても……ってあわわわ。
……ごほん。
文緒と俺はどうにか縄ばしごを登り切り、機体内に身体を投げ出した。
「お疲れさま」
兄貴は一足先にのんびりと席に座り、シートベルトもしっかりしていた。
「もう一息がんばって、座ってシートベルトをしてくれ」
その兄貴の手には眼鏡が握られていて、ここであった出来事を見る気満々なのが分かった。
好きに見てクダサイです、はい。
這いつくばるようにしてどうにか椅子に座り、シートベルトをしたところでようやく、助かったと実感した。
隣の文緒も同じようで、涙を浮かべていた。シートベルトが邪魔だと思いながらも出来るだけ文緒を自分の方へ引き寄せ、腕の中に包んだ。
「むっちゃん……助かったね」
「そうだね」
その一言で緊張の糸がぷつりと切れたようで、文緒は泣きじゃくりはじめた。文緒を落ち着かせるために、その背中をとんとんと叩く。
どれくらいそうしていただろうか。ようやく文緒が落ち着いてきた頃。
「お屋敷が見えてきた」
兄貴の声に窓の外を見る。
深い森の中。
『カササギ御殿』の名前の通り、美しい形をしたお屋敷が木々の間から見え隠れしてきた。
「文緒、見てごらん」
俺は文緒が外を見えるように身体を窓から離した。文緒は泣き顔のまま、外を見る。
「あ……。鳥だ」
このカササギはあの鳥かごから飛び立ち、ここへやってきたのだろうか。
緑の中を飛んでいるようなお屋敷を見て、そんなことを思った。
* * *
ヘリコプターはお屋敷の端の無駄に広いスペースに降りた。ここってそういう時のための場所だったのかと初めて知り、三十年住んでいるが未だに知らないことばかりということを改めて認識した。
高屋家、恐るべし。
先に降りた兄貴は俺たちについてくるようにと合図をしてきたので、文緒を抱きかかえるようにして素直に従った。
ヘリコプターを降りて少し歩くとそこには車が止まっていて、じいが立っていた。
「おかえりなさいませ。みなさまご無事のようで、安心いたしました」
「……まったくだ」
じいの挨拶に兄貴はため息混じりに返事をした。
ここはお屋敷の向かって左側……要するに親父たちが居住しているスペースの一番端。ここから玄関まではかなりの距離がある。車で移動して玄関へということらしい。歩くと時間が掛かるが、車なのであっという間だ。
車といえば、俺の乗っていったあれ、火事で焼けてしまったよな。気に入っていたのになぁ。
玄関に到着すると、そこには蓮さんと奈津美さんが不安そうな表情で待っていた。
「文緒!」
車の中から降りてきた文緒を見て、二人が駆け寄ってきた。
そうだ、謝らないと。
「文緒!」
「はっ、はいっ」
今まで見たことがないほど恐ろしい形相で蓮さんは文緒を見ている。文緒はさすがに小さくなって蓮さんを見ている。蓮さんが手を上げた。文緒は叩かれると思ったのか身体を縮めた。しかし次の瞬間。
蓮さんは文緒の腕をつかむと抱きしめた。
「良かった……。無事で良かったよ」
先ほどとは打って変わって、泣きそうな表情で文緒を抱きしめているのを見て、あそこで諦めなくて良かったと思った。
「あの……蓮さん、俺がいながらその、文緒を危険な目に遭わせてしまい、すみません」
俺は文緒の後ろから近寄り、蓮さんに頭を下げた。
「睦貴、頭を上げろ。おまえが謝ることはない。この馬鹿娘がいけないんだっ」
先ほどまでは泣きそうな顔をして文緒を抱きしめていたのに、腕を離して左手で肩をつかみ、右手で文緒の頬をつねっている。
「れ、蓮っ。痛いって!」
「生きているから痛みを感じるんだ! 秋孝にきちんとお礼を言ったのか!」
「いや……まだ」
「秋孝と睦貴にほらっ」
蓮さんは文緒の頬を引っ張りながら離し、文緒はその痛さにしかめっ面をする。肩をつかんでいた左手だけで文緒を振り向かせ、頭を下げるように腕に力を入れる。それを見て、兄貴は苦笑している。
「蓮、いいよ。元をたどれば、俺が元凶だ」
かなり苦笑した表情を浮かべた兄貴は、それを振り払うように中に入ろうと促してきた。俺たちはその言葉に従い、中へと入った。