愛から始まる物語


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たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【決断の時】



 潤哉は守矢さんとともに、去っていった。
 俺は潤哉を止めて、自首することをすすめるべきだったのだろう。しかし、その思いに至ったときはすでに時が遅く。
 潤哉が去ってからどれくらい経っていたのだろう。
 遠くでなにかが爆発する音でようやく現実に戻ってきた。
 腕の中には、ずっとしがみついている文緒。

「文緒。今の音、聞こえたか?」
「……うん」

 爆発音は次第に大きくなり、下からなにか乾いた音がする。そして、焦げ臭いにおい。
 まさか。

「文緒、まずい。潤哉のヤツ、ここに火をつけたな」

 俺たちを殺すつもりか? 勘弁してくれよ!
 下の厨房からの出火のようだ。ということは、下に降りるのは危険ということか。
 外に目を移すと、だいぶ小雨になっている。火の雨に降られるよりも本物の雨の方がいい。

「文緒、屋上庭園に逃げよう」
「むっちゃん、荷物!」
「ケータイは?」
「持ってる!」
「財布は?」
「えーっと……ない! いやだあれ、気に入ってるのに!」

 取りに帰ろうとする文緒の腕を引っ張る。

「荷物を取りに行っている時間はない。この勢いだと、あっという間に火が回るぞ」
「でも……」
「ここから出たら、俺が買ってやるから!」

 一刻も早く、ここから逃げなくては。先ほどのディナーで出たチキンソテーみたいになってしまってはしゃれにならない。
 文緒は俺の言葉にうれしそうな笑みを浮かべている。
 文緒がそんなに喜んでくれるのなら、おじさんはいくらでも買ってあげるよー。
 なんて思ってしまった俺は、名実ともにおっさんだ。
 俺は携帯電話と財布は持っていたので、とりあえずは問題ない。
 文緒の手を取り、外にある螺旋階段へと向かう。幸いなことに鍵は掛かっていなかった。守矢さんには現場を保存しておくように言ったのだが、潤哉とグルだったとしたら、そんなことをするわけがないよな。しかし今は、それが助かった。
 どちらにしても、あれだけの雨が降った上にここはこのままだと全部燃えてしまうのだから、今更、現場保持が云々と言ったところでむなしいだけだ。
 ドアを開け、外に出るとまるで浴室にいるかのようなむっとした湿気が全身を襲う。中がかなり寒くて湿度が低かったので、そのギャップに一瞬、戸惑う。
 雨は降っているが、気にならない程度だ。
 俺たちは手を繋いだまま、無言で螺旋階段を登っていく。
 火から遠ざかるために屋上へと出たのだが、それは時間伸ばしでしかない。ここから逃げるためにはどうすればいいのだろうか。
 屋上にたどり着き、深呼吸をした。周りの緑たちの匂いが鼻孔をくすぐる。雨を受け、植物たちは喜んでいるようだ。
 さて、と。
 俺たちはこの屋上で火が回ってくるのをおびえて待っていないといけないということか。
 文緒と一緒に死ねるのならそれはそれで幸せかもしれない。
 ──この先、別れ別れになってしまうことを考え、そんな後ろ向きなことを考えてしまう。
 いや。どうあっても生き残らなければならない。せめて、文緒だけでも。
 周りを見回すのだが、なにか役に立ちそうなものはない。
 ふと、ドーム型の屋根が目に入った。文緒とともにそこまで行き、中を覗いてみる。
 炎はかなり燃え広がっていて、一階はすでに火の海と化していた。この建物、鉄筋? 基礎部分は鉄でできているとは思うが、木の部分が多いようだから……さて、どうする?
 ここでじっと中を覗いていたところで炎が収まる訳がなく、俺は文緒とともに脱出口を探すために屋上をうろうろしてみた。
 しかし、やはりどうあっても柿本の遺体があるあたりには近寄れない。文緒がまた気を失ったらというのと、俺も見たくないという気持ちがあった。

「ねえ、この先に抜け道があるんじゃないの?」

 文緒は柿本の遺体があるさらに先に指を向ける。

「あったとしても、だ」

 唾を飲み込み、言葉を続ける。

「この先には……柿本だったものが転がっている。それを乗り越えて行く勇気はあるか?」

 俺の質問に、文緒はうつむいて唇を噛んでいる。
 あの光景を思い出す。
 緑の中の赤。鉄の匂いと草いきれ。夏の熱をはらんだ風。

「だけど、ここにいたら」

 そうなのだ。ここにいても俺たちがたどる道は一つしかない。

「それなら、で、できるだけ見ないようにして……」

 文緒の震える声に文緒だけはどうあっても助けないといけないという思いが再び、去来した。
 俺たちは意を決して
「聖域」
へと足を踏み込む。
 風が強くて横殴りのような雨も降ったからか、草が柿本の遺体を覆い隠すようにしてくれていた。雨が血を洗い流してくれたのもあり、あの鉄臭さはなくなっていた。俺たちにとってそれは大変ありがたかった。
 極力、柿本の遺体から遠いところを通り、どうにか建物の一番端までたどり着くことができた。たぶんここは、宿泊棟にあたるだろう。
 建物の縁から左右を見ると、はしごがついていた。その先をたどって行くと、屋根らしき物が見えたのだが、すでに炎に包まれてほとんど形が失われていた。
 ……火元はこの下にある厨房からだ。火に包まれていて当たり前ではあるのだが、思いっきり落胆してしまった。
 やはり螺旋階段を使う以外でここに登ってくる手段があった。しかし、それを知っているのは従業員と潤哉と守矢さんくらいだろう。となると、潤哉が柿本を殺したのは間違いなさそうだ。潤哉は復讐と言っていたが、なんでこんな馬鹿なことをしたんだ。
 思わずぼんやりと今回の事件のことを考えてしまうが、ここにいては火が回ってきて焼死してしまう。
 俺は文緒の手を取って再び柿本の遺体の側を通り、元の場所へと戻った。
 螺旋階段の側が一番安全、ということか。
 ドーム屋根から中身を再度のぞき込み、ますます勢いよく燃えている中に焦りを感じながら、螺旋階段まで戻った。
 この螺旋階段の外枠を伝って下に降りるしかないな。
 雨で湿っている鉄格子のようなそれをつかみ、降りられるかどうか確認した。
 柵の隙間が思ったよりも狭くて、足を差し込んで行くにはどうにも辛い。手の力だけで降りなくてはいけないようだ。握力がそんなにないから途中で落下する危険性もあるな。
 それならば、螺旋階段で下まで降りて、そこからさらに下に降りる方が現実的なような気もしてきた。
 早くしなければ炎はすぐそこまで迫っている。
 螺旋階段を下りることを文緒に伝えようとしたとき。
 なにかが割れる音があたりに響き渡った。俺たちは驚いてそちらに目を向けると、ドーム屋根から炎が吹き出したところだった。この下は吹き抜けになっている。下から暖められて軽くなった空気が渦のように舞い上がり、その勢いでガラスを割って炎とともに出てきたのだろう。見たことはないが、炎の龍のようだ。渦巻き状の炎が雨雲を垂れ込めた空を焦がし始める。
 これから下に降りるのは危険か?

「文緒、螺旋階段から下に下りて、そこから外に飛び降りよう」
「……うん」

 悲壮な表情をした文緒は俺に走り寄り、手を握ってきた。俺も握り返して降りようとしたのだが、その螺旋階段の一番下から轟音がしてきた。そこからこみ上げてくる熱風。
 まずい。もたもたしたせいで逃げるタイミングを思いっきり逃してしまったようだ。
 俺は文緒を抱き寄せた。

「ごめん、文緒」
「なんでそこで謝るのよ! まだ終わってない! 諦めたら終わりだよ!」

 文緒は涙を浮かべ、俺をにらむように見上げている。
 俺だって諦めたくない。
 それならば、ここから炎がまだ来てないところへ飛び降りるか?
 建物の縁に立って下をのぞき込む。
 周りには明かりはなく、少し先は暗闇だ。空は雨雲があるが、なければきっと、満天の星空が光っていることだろう。そのためにいつもより光が少ない状態だが、しかし、予期せぬ炎が妙な形で周りを浮かび上がらせている。
 螺旋階段の一番下の柵の外は斜めになっていて、もしもあそこに到達出来ていたとしたら、楽に建物の外に出ることが出来ただろう。その横に目を転じると、断崖絶壁。遙か下に地面が見える。そして下の方は窓ガラスを破って、炎が赤い舌で壁をなめていた。
 縁をぐるりと周り、角を曲がって同じように下をのぞき込むのだが、こちらはさらに地面までが遠く、決断に迫られていた。
 早く決めないと、状況は悪化するばかりだ。

「文緒……」

 焼死と落下死のどちらがいい? なんて聞けるわけなく、口ごもっていると

「ここから飛び降りて、助かりましょう!」

 と文緒が前向きな言葉を口にした。
 ここから落ちたら死ぬかもしれないという選択肢は文緒の中にはないようだ。
 ここで炎が来るのを待って悲観になるよりは、ここから飛び降りる方が確かに現実的ではある。

「よ……よし、と、とととと……いってー」

 飛び降りよう、の一言が言えず、舌を噛んでしまった。
 ……どこまでいっても俺ってかっこ悪い。





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