愛から始まる物語


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たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【宙を舞う『娘』】




「文緒!」

 文緒がものすごいおてんばというのは知っていた。
 しかし、まさか手すりを乗り越えて飛び降りるなんて思いもしない。しかもここは、吹き抜けの三階だ。普通に考えれば、一階の床に激突して、よくて骨折、最悪な場合は命を失うことになる。
 俺は慌てて階段を駆け下りる。落下スピードを考えれば間に合わないことは分かっているが、俺は落ちていく文緒を追いかけずにはいられなかった。
 文緒は宙を飛び、あろうことか、あの細い鳥かご内の止まり木のような渡り廊下へと見事に着地していた。
 あり得ないから! あの一人通ったらすれ違えないような細い通路をめがけて飛び降りるなんて、なにを考えているんだ!
 お尻ぺんぺんの刑だ!
 うん、それがいい。
 けけけけ決して下心があってではなくて……文緒のお尻に触れる~。なんてセクハラなことを考えている訳ではないからな!

「むっちゃん!」

 文緒はあの細い通路を駆け抜け、入れないように柵が新たにつけられているところを軽やかに飛び越え、階段を駆け下りてきた俺に飛びついてきた。

「怖かったよぉ」
「怖かったよぉ、じゃない! なに危ないことをしているんだ! あそこから飛び降りて、無事に飛び降りることができたから良かったけど……一歩間違ったらおまえ、死んでいたんだぞ!」

 昔からとんでもないことをやらかしてくれる『娘』ではあったが、今回ばかりはほんと、寿命が百年くらい縮んだぞ!
 ……あれ? ということは、今、ここに立っている俺はなに? ゾンビ? そうか、俺は腐った死体か生きた死体だったのか。知らなかったな、ははは……ではなくって!

「大丈夫だよ、きちんと頭の中で何度もシミュレーションしたし、実際、成功したんだから」
「そういう問題ではない! 心臓が止まるかと思ったよ……」

 俺は文緒を抱きしめ、確認する。温かい、いつものぬくもり。甘い文緒の匂い。
 とんでもないことばかりをしてくれる文緒。こんなことばかりをしてくれるから、心配でますます目を離せない。側からいなくなったらどんなことをやらかしてくれるのか、分からない。監視していないとダメなのだ。
 だから俺は、文緒の側から離れられないのだ。
 先ほど抱いた気持ちを押し隠すために、気持ちを置き換える。

「く……。それだけ威勢が良ければ、元気な子をたくさん産んでくれそうだな」

 潤哉はよろよろと手すりをつかみながら立ち上がる。気がついたら、潤哉の側には守矢さんが立っている。

「潤哉さま、大丈夫でございますか?」
「かなり痛むが、大丈夫だ」

 守矢さんは潤哉の身体を支える。

「いいだろう。文緒と言ったか? おまえを必ず、手に入れる」

 潤哉はあの華やかな笑みを浮かべ、文緒を見ている。俺は渡さないという意志を示すために、文緒を抱きしめた。文緒も俺にしがみついてきた。

「潤哉、質問がある」

 そうだ、文緒のおてんばのせいですっかり忘れていたが、聞かなくてはならないことがあったのだ。
 潤哉は俺の声に返事はしてないが、聞けば答えてくれると分かり、続けて質問をする。

「潤哉、おまえがやったのか?」

 率直に聞いたら、潤哉はおかしそうにお腹を抱えて笑い出した。しかし、先ほど文緒に蹴られたために響くのか、しかめっ面をして痛みに耐えている。
 痛みが去ったのか、潤哉は手すりに身体を預け、俺たちを見下ろす。そして楽しそうな笑みを浮かべ、口を開いた。

「そうだよ、と言ったら?」
「どうして?」

 俺は反射的に質問していた。

「あの四人のせいで、喬哉兄さんが死んだんだよ。それなのに、あいつらが生きているのが許せなかった。オレは『ジャクマリャ』を実行しただけだ」

 あの四人のせい? どういうことだ?
 潤哉はあの崖の上で兄貴のせいで死んだと言った。それが違っていたということなのか?
 『ジャクマリャ』というのは、アルバニアやコソボで認められている、殺人に対して殺人で報復・復讐してもよいという
「掟」
だったはずだ。いやしかし、ここは日本だ。

「どういう……意味だ?」

 質問する声がこわばっているのがよく分かった。文緒は不安そうにきつく抱きついてくる。
 文緒が側にいる。それだけでかなり気持ちが安定する。もしも一人だったら、年甲斐もなく叫んでいたような気がする。
 俺の質問に潤哉は右側の口角をあげ、皮肉な笑みを浮かべる。

「オレは兄さんの遺言を読み間違えたんだ」

 読み間違えた?

「兄さんがオレ宛に書いた遺言というかメモがあったんだ。『ジュンヤへ。タカヤにはキをつけろ』と」

 潤哉はそして、宙にカタカナで『タカヤ』と書いた。

「そのメモはひらがなとカタカナ交じりで書かれていた。名前のところはカタカナで書かれていたんだが……震える手で書いたせいで文字が重なっていて、よーっく見ると、そこは『タカヤ』ではなくて『タカイワ』と書かれていたんだ」
「『タカイワ』……?」

 潤哉は『タカイワ』と宙に書いてみせた。
 で……『タカイワ』を『タカヤ』と読み間違った、までは分かった。
 喬哉はクスリをやっていて禁断症状が出て訳が分からないうちに飛び降りたという話だ。クスリの症状が出ていて震える手で文字を書いたので、きちんと書けなかったというのは分かる。
 それとあの四人がどう繋がってくるのだ?

「『タカイワ』の謎が解けないまま、オレはベッドの上で何年も過ごした」

 潤哉はゆっくりと手すりに沿いながら歩き始めた。俺は潤哉を視線で追う。
 先ほどは気がつかなかったが、潤哉の歩き方は少しぎこちない。ベッドの上で何年も過ごしたというほどだ。やはりあの崖からの落下は身体に相当なダメージを与えたのだろう。生きていたこと自体が奇跡だ。

「何年も悩み、ようやくその謎が解けたんだ」

 潤哉が何年も悩んだというくらいの謎だ。俺の手元には情報が少なすぎて、その言葉と四人の繋がりがまったく分からない。

「そしてオレは、あの四人に復讐することにしたんだ」

 潤哉、俺にはさっぱり意味が分からないよ。
 文緒を見ると、同じく分かっていないようで眉間にしわを寄せている。

「『タカイワ』……『タカヤ』……? 確かに、カタカナで書いたら読み間違える可能性があるかもしれないけど……」

 とぶつぶつとつぶやいている。
 しかし。
 潤哉、喬哉兄さんの死に、うちの兄貴が少なからずとも関わっていたから……その『タカヤ』もあながち、間違ってないんだ。
 ……なんてとてもではないが言える訳がなく、俺は黙るしかなかった。

「喬哉兄さんが死んでから十七年。長かった……本当に、長かった」

 十七年。潤哉と出会ってから十五年。その一年後に生まれた文緒だって中学二年生の十四歳だ。確かに長いが……そんなに長い間、復讐心を持っていた潤哉に対して、ぞっとする。
 しかし、文緒という大切な存在ができたから、潤哉の気持ちもすごく分かる。だれかのせいで大切な文緒が死んでしまったら。先ほどだってその危機にあったのだ。文緒が自らの意思で飛び降りて、どうにか着地することができたから事なきを得たわけだが……。一歩間違ったら、文緒はこの世にいなかった。
 そのきっかけを作ったのが潤哉だったわけだが、もしもその最悪な事態になっていたら、俺は潤哉を憎んで復讐をしてやろうと思っただろうか。
 腕の中のぬくもりが失われたら──今の俺にはそれは想像できなかった。いや、正確に言えば、それを想像することが出来たわけだが、したくなかったのだ。
 もしも、文緒をだれかのせいで失うことになったら、その相手に復讐をして、果たして、俺の気持ちは納得するのだろうか。
 否。

「やり返したからって、生き返るわけでも元に戻るわけでもないだろう!」

 そうだ。
 復讐を果たしたところで結局、後に残るのはむなしさと後味の悪さだ。何一つ、いいことはない。
 俺の言葉は潤哉にとって想定内だったようで足を止めることなく、俺たちから視線を逸らしたままで口を開いた。

「もちろん、分かっている。だけど、こいつらのせいで死んだのに、のうのうと生きているのが許せなかったんだ」

 俺は思わず、息を止めた。
 潤哉の気持ちが痛いほど分かったのだ。




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