たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【ノックは三回】
立ち上がり、興奮のあまり肩で息をしている文緒を潤哉は目を細めて見ている。その視線になぜかぞくりと背筋が凍る。
「おまえは何者だ。睦貴の彼女か?」
文緒が大きくなるにつれ、そう言われる頻度が高くなってきた。言われる度に文緒を変に意識してしまうようになり、俺はその気持ちを否定するためにいつも『娘』だと言い切る。文緒は『娘』だという度に、ひどく傷ついた表情をする。どうしてだろう。文緒は俺にとってとても大切な『娘』なのだ。十六も歳が離れたこんなおっさんの彼女と間違われて、文緒は困るだろう。
文緒の傷つく顔を見たくないと思いつつも、潤哉の言葉を否定するしかできない俺。
「違う。『娘』だ」
予想通り、文緒はひどく悲しそうな光を瞳に宿し、俺を見る。
文緒がどんな言葉を欲しているかなんて、俺には分からない。もし分かったとしても、俺はその言葉を文緒に与えることは出来ないだろう。
ずいぶん前から文緒が欲している言葉は心の片隅では分かっていたのだ。俺自身もその言葉を文緒に言いたかったが、それをしなかったのは……結局のところ、自分に自信がなかったからだ。
もしも俺が思っている『文緒が欲しているかもしれない言葉』を口にして、それが違う物だったとしたら……。俺はもう、生きていく気力がなくなってしまうだろう。
ヘタレな俺にはそんな恐ろしいことは出来ない。
潤哉が実は俺を憎みながらもずっと仲がよい振りをしていたという出来事は、やはり人間不信に陥るには充分だったわけで……そして、改めて『大嫌い』と宣言された。
それでも俺は潤哉のことを『親友』と思っているし、覆すことも出来ないでいる。潤哉は俺のことが嫌いかもしれないが、俺は潤哉のことを嫌いになれない。
「潤哉は俺のことが嫌いかもしれないけど」
「嫌いではない。『大嫌い』だ」
ご丁寧に訂正されてしまった。
「だ……大嫌いだとしても」
思わず、声が震えてしまう。ああ、情けない。そんな俺を見て、潤哉は面白そうに笑っている。
「俺は潤哉のこと、嫌いになれない。むしろ、やっぱり好きだ」
俺の言葉に、周りの空気がかなり荒れる。
あれ? 俺、なんかとんでもないことを言ったか?
「は? おまえ……意味が分かって言ってるのか?」
潤哉の荒げた声に俺はますます戸惑う。文緒が俺の側に寄ってきて、肩を痛いぐらいにつかんでくる。
「潤哉は俺の最初で最後の、たった一人の『親友』だよ」
俺は今できる、精一杯の笑みを浮かべて潤哉を見る。潤哉は明らかに戸惑いを浮かべ、椅子から立ち上がる。
「……疲れた。デザートはいい。オレは先に失礼する」
不機嫌な表情のまま、潤哉は去っていった。
文緒はそれを見て、椅子に座り直した。
俺たちは無言のままデザートを食べ、部屋へと戻った。
* * *
部屋に戻り、タキシードから先ほどまで着ていた服に着替えた。文緒も着替えを済ませて、ベッドに腰掛けてぼんやりしている。
俺は椅子に腰掛け、潤哉が言っていた言葉を思い出す。
種田に向かって
『仲間が死んでしまった。次はあなたかもしれませんね』
と言っていた。
仲間? 柿本のことか? 仕事仲間という意味で潤哉は使ったのだろうか。
『仲間』というのは、柿本に対してだけだったのか。……気になる。
「むっちゃん私、シャワー浴びてくるね」
「文緒、俺、ちょっと岩井と若宮の部屋に行ってくる」
同時に立ち上がり、別々のセリフをそれぞれが口にした。
「分かった。そういえば、下に大浴場があると言っていたけど」
「今日は疲れたから、シャワーでいいよ。それとも、むっちゃん、一緒に入る?」
文緒にそんなことを言われ、俺の心臓はまたもや十六ビートを刻み始める。
ふ……文緒とお風呂?
いや、幼い頃は確かに一緒に入ったことはあったが……いいいい、いくら『娘』とはいえ、無理無理! 『娘』に俺の『息子』を見られるなんて、恥ずかしすぎる。
暴走しはじめる俺の思考。ああ、止まらない。
「むっちゃん?」
突然動きを止め、ぼんやりしてしまった俺を心配そうに見上げている。
「ああ……。ゆっくりシャワーを浴びておいで。俺は少し、他の部屋に行ってくる」
「うん……行ってらっしゃい」
少し不安そうな表情をした文緒が心配だったが、あの二人も気になる。
「鍵は持っていかない。ノックを三回したら俺だから、開けてくれるか」
「うん、分かった」
「俺が戻るまで、外には出るなよ」
念押しをして、文緒がシャワーに入るのを見てから、俺は部屋を出る。
俺たちがいる金糸雀(カナリヤ)の隣の孔雀(クジャク)は柿本。目の前の椋鳥(ムクドリ)は種田。ここが客間の主賓ということらしい。その隣の山翡翠(ヤマセミ)がたぶん、若宮だ。
俺はまず、若宮の部屋へと赴いた。ドアをノックする。返事がない。再度、叩く。それでもなにも返ってこない。ドアに耳を当てて中の様子をうかがうが、なにも聞こえない。
ドアノブに手を掛け、ひねると……いとも簡単に開いてしまった。
中をのぞくと、部屋の中は暗かった。カーテンは開いたままだ。まだ降っているようで、雨が窓ガラスを叩いていた。
カーテンが開いたままということは、かなり前からこの部屋に若宮はいないようだ。しかし、室内は若宮がつけていた香水が下品なくらい臭っている。こんなにつけるなんて、香水に対して失礼だろう。臭いに頭痛を覚えながら、俺は部屋を後にした。
さて。
隣の岩井の部屋が怪しいな。
若宮は種田の愛人のはずだが、先ほど、種田一人しか降りてこなかった。そしてすでに柿本は死んでいるから……いるとすれば、岩井と若宮は一緒、ということだ。愛人で二股か。いや、もしかしたら、岩井と若宮はもともとカップルで種田が若宮に愛人関係を迫ったとか……?
どちらでもいい。考えただけ無駄だろう。どちらであっても一緒だ。
岩井がいるはずの瑠璃鳥(ルリチョウ)の青い扉を叩く。やはり、返事がない。もう一度ノックするが、やはり返事がない。若宮の部屋の時と同じようにドアノブに手を掛けてひねるのだが、今度は開かなかった。
なんだか嫌な予感がする。
俺は宿泊棟から隣の棟へ向かい、下をのぞいた。従業員たちが先ほどのディナーを片付けていて、その中に守矢さんを見かけたのだ。
「守矢さん!」
俺は大声で彼の名前を呼んだ。すると守矢さんはあたりを見回し、探していたので
「上、上!」
さらに声をかけてようやく、気がついてくれた。守矢さんは俺に向かってお辞儀をした。エレベーターで降りるのがもどかしくて、廊下をそのまま走り、階段を駆け下りる。それを見て、守矢さんも下から登ってきてくれた。
「どうかされましたか?」
「どうにも嫌な予感がするんだ。瑠璃鳥の部屋を開けてほしい」
「しかし……あそこは岩井さまのお部屋でして」
「今、行ってみたんだが、ノックしても返事がない。隣の若宮の部屋はもぬけの殻。さっき、ディナーにも来ていなかったし、二人の生存を確認したいんだ」
俺の言葉に守矢さんの表情は明らかに曇る。
「分かりました。ご一緒します」
守矢さんは一度、二階の宿泊棟側へと向かった。そこは従業員たちが寝泊まりしているところで、守矢さんの部屋でまとめてサブキーの管理をしているそうだ。
守矢さんの手には三階の宿泊棟の鍵の束が握られていた。それを確認して、俺たちは三階へと駆け上がった。
岩井が割り当てられている瑠璃鳥のドアの前についた。階段を駆け上ってきただけではなく、緊張しているからか、心臓の動悸がいつもより速い。
守矢さんは確認するように俺を見る。俺は無言でうなずいた。
鍵を差し込み、回すと乾いた音を立てて鍵が開いた音がする。守矢さんは鍵を開けるとドアの前から移動して、どうぞと手が差し出された。
俺は大きく息を吸い込み、ドアノブに手を掛ける。そしてひねると、先ほどは鍵が掛かっていたせいで回らなかったものが、今度はあっさりと回転して、開いた。
ドアの隙間から見える室内は、真っ暗だ。
そっと開き、中を覗く。暗くてなにも見えない。
「岩井さん?」
念のために声を掛けてみるが、返事はない。電気をつけて確認しようかと部屋の中へ入り、スイッチを探そうとした手が止まる。
入った途端に鼻孔をつくこの独特の香り。
最悪な事態に俺の背筋は凍り付いた。