たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【三人だけのディナー】
午後六時少し前。
雨は相変わらずだが、雷はもうすっかりとおさまったようだ。
文緒の着替えを手伝いをしたのだが……いやあ、
「背中のファスナーをあげて」
と背中を向けられたときにはもう、上げるよりむしろ下げたいなんて……いやいや、襲ったらダメだ。相手は十四歳の『娘』。ダメだぞ、俺! と自分に言い聞かせながら、鼓動と下半身はやっぱり十六ビートを刻んではいたが、なにげないそぶりでファスナーをあげた。
相手は『娘』だぞ。それなのになんでこんなにどきどきしているんだ。蓮さんにはロリコンじゃないと言い張ったが、文緒相手だったら……いや、ダメだ!
「むっちゃん、さっきからなに一人で百面相してるの?」
普段は無表情でなにを考えているのか分からないと言われることが多い俺だが、どうやらこういうのは思いっきり表情が出るようだ。言われなくても頬がいつになく緩んでいる自覚がある。やばい、これだと
『このおっさん、きもーい』
と若い子に言われかねない!
俺は一階に向かうエスカレーターの中で、文緒と繋いでない反対の手で頬を叩いた。
「むっちゃんはタキシードかあ。かっこいいなぁ」
『パーティというのなら、タキシードが基本だろ?』
と言われて兄貴に押しつけられた物なのだが、どうにも着慣れないから、肩が凝る。
それにしても文緒、褒めすぎだ。明らかにこの状態は『馬子にも衣装』だ。タキシードだと三割増しくらいはよく見える。
一方の文緒は、あんまりにもかわいすぎるから連れて行きたくないと思ったほどだ。智鶴さんが見立てたというパステルピンクのストラップドレープドレスは細い文緒にすごく似合っていた。少し冷えてきたのもあり、厚手のストールで肩を隠していて、色気が少し減ったのは良かった。
着替え終わった後、文緒が部屋の中でくるりと回転して、
「かわいい?」
と聞いてきたときは、『娘』だというのに不覚にも鼓動が三十二ビートになって、心臓が壊れるかと思った。文緒、おっさんを翻弄しすぎだ!
幼い頃からずっと文緒を見守ってきたが、こんなにもかわいく育つなんて思ってもいなかった。文緒の両親である蓮さんはぱっと見、どちらか分からないほどきれいな顔をしているし、奈津美さんもかわいらしい。その二人のいいとこ取りで生まれてきたのだから、もともとそういう素養は持っていた。分かっていたことではあったのだが、文緒が育っていくのを見ていると、『娘』相手だというのに、独占してしまいたい衝動に駆られる。他の人間に見られたら、奪われてしまう。だから俺以外の人間の目に触れさせたくない。抱きしめて、俺の腕の中に閉じ込めてしまいたい。
しかし、それをすると俺の母や早谷宮雄と同じになってしまう。文緒の自由を奪える者はだれもいないのだから。
俺は自分に言い聞かせ、考えを振り払うように頭を軽く振った。
それとほぼ同時に軽快な音を立てて一階に到着したことを知らせたエレベーターは、地面についた感触を身体に伝え、おもむろにドアが開く。
扉が開いた先には、まさかの人物が立っていた。
そこには、昔と変わらないやわらかそうな茶色い髪の毛の潤哉がタキシードを着て立っていた。
「潤哉!」
あんなところから落ちたからダメだと思っていたのだが、生きていたらしい。それだけで俺は単純にうれしくなる。
あれから十五年も経っているだけあり、少し幼さを残していた潤哉も今では立派な青年になっていた。視線は昔より鋭くなってはいたが華やかさは変わらず、男相手にこういうのも変だが、色気が足されているような気がした。
「ようこそいらっしゃいました」
腰からきちんと頭を下げ、九十度の角度で俺たちにお辞儀をする潤哉。
「父の哉賀、および総帥である和哉の代理としまして、本日のホストはわたくし、空知潤哉がつとめさせていただきます」
俺は一歩、踏み出した。しかし、文緒がそれを阻止するように後ろで俺の腕を引っ張る。
「文緒?」
振り返ると、強ばった表情の文緒と目が合った。その瞳にはおびえの色が見える。
「ダメ。あの人、怖いの」
「怖い? どうして? 潤哉は俺の『親友』だよ」
俺の言葉を受け、潤哉は皮肉のこもった声音で復唱した。
「……『親友』ね」
冷たい笑みにどうしてと疑問の視線を向ける。潤哉は俺のその視線に気がついてないかのように、俺たちの後ろのエレベーターに視線を向ける。
エレベーターの昇降音。そして下降してくる音が聞こえ、一階に止まり、中からかなり顔色の悪い種田が出てきた。はちきれんばかりの身体には、巻き付けるようにタキシードが着けられている。
「岩井と……若宮がいないんだ」
「今日のパーティの参加者さまは以上でございますね。こちらへどうぞ」
「こ、この三人だけなのか?」
「そうですよ。さあ、料理はもう、用意されております。アルコールはお出し出来ませんが、シェフたちが腕によりをかけて作りました料理をお楽しみください」
潤哉は半ば強引に種田を席へ誘導し、俺たちにも座るように目で合図をしてきた。嫌がっている文緒を連れて、テーブルに着く。
「それでは……なにに乾杯しましょうか」
潤哉はワイングラスに入ったリンゴジュースを片手に、俺たちを見回している。相変わらずの仕切り上手に感心する。
「久しぶりの出会いに乾杯しましょうか。ね、種田さん」
潤哉はつややかな笑みを浮かべ、種田を見ている。種田の口からはなぜか悲鳴が漏れる。
「わ……わしは食欲がない。部屋に戻る!」
「おや。それは大変だ。守矢、種田さんをお部屋まで」
「はい」
「いらない! わしは一人で帰れる! だれもわしの部屋には来るな!」
見ていて不思議なくらい種田は震え、椅子を揺らしながらどうにか立ち上がる。しかし、足に力が入らないのか、音を立てて尻餅をついた。
「種田さま、大丈夫でございますか?」
守矢さんの心配そうな質問に、種田はうっとうしそうに顔の前で手を振った。
「仲間が死んでしまった。次はあなたかもしれませんね」
なんの脈絡もなくいきなりそんな言葉が聞こえた。俺は驚いてその声の方へと顔を向けると、うっすらと笑みを浮かべた潤哉が種田を見ていた。その声は種田にもしっかり聞こえたようで、真っ青を通り越してどす黒い顔色をしていた。
心配して守矢さんが近寄るが、種田はその手を払いのけ、もう一度立ち上がり、震える足取りでエレベーターへと向かった。
俺たちが生きた種田の姿を見たのは、それが最期となった。
しかし、潤哉の今の言葉はどういう意味だ? 降りてこない岩井と若宮はまさか?
俺は立ち上がり、エレベーターへと向かおうとしたが、潤哉に止められた。
「睦貴、今からディナーだ。食事の途中で立つのはマナー違反だ」
そう言われ、俺は仕方がなく椅子に座り直す。
「それでは改めて」
俺と文緒がグラスを持ったのを確認すると、潤哉はひときわ高くグラスを掲げ、
「それでは、十数年ぶりの再会に乾杯」
「……乾杯」
掲げ持っていたグラスに潤哉は軽快な音を立てて乾杯をしてきた。俺は隣の文緒のグラスに続けて乾杯をした。
グラスの中のリンゴジュースは、甘くて美味しかった。
出される料理はどれも俺たちの舌を楽しませてくれた。しかし、言葉を交わすことなく、口に運ぶ。
文緒は若干、顔色が悪いようだ。
メインディッシュが済み、デザートの前になり、ようやく潤哉が口を開いた。
「今日の料理はどうでしたか?」
「うん、美味しかったよ」
「……美味しかったです」
俺たちの返答に潤哉は満足したように笑みを浮かべた。
「潤哉、元気だったようでよかった」
ずっと潤哉の行方を気にしていた俺は、目の前に座っている姿を見て、思ったままを口にしたのだが……。潤哉は片眉を上げ、鼻で笑った。
「おまえは相変わらず、能天気だな。おれが今までどうしていたかなんて、思いよらないんだろうな」
そうは言われても、今は目の前に潤哉がいるからうれしいのだが、やはりこれまでのことを思うと、素直に喜ぶのは良くないのだろうか。
「でも、もう会えないと思っていたから、こうして会えて、うれしいよ」
潤哉は呆れた表情で俺を見た。
「前から言おうと思っていた言葉があるんだ」
潤哉はテーブルの上に組んだ手を乗せ、俺を正面から見据えた。なにを言われるのか分からず、それでも俺も潤哉の視線をまっすぐに受けた。
潤哉をよくよく見ると、顔や首、手の甲の部分など、引きつれた皮膚の跡が見える。あんな崖から落ちたのだ、やはり無事ではなかったのだろう。生死の境をさまよったのかもしれない。俺も生傷が絶えなくて、結構あちこちに傷跡が残っているけど、潤哉に比べればまだマシだ。
そんなものに気を取られていて、潤哉から言われた言葉に反応するのが遅れてしまった。
「オレ、おまえなんて大嫌いだ」
潤哉はいつものあの華やかな笑みを浮かべて、残酷な言葉を口にする。
俺がその言葉の意味を理解するより前に、文緒が椅子を倒して立ち上がった。
「なにを言ってるのよ! むっちゃんは久しぶりの再会を喜んでるんじゃない! それなのに大嫌いなんて、あなたこそ、最低よ!」