愛から始まる物語


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たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【出立のトラブル】



 七月三十日水曜日、午前六時前。
 昔とは違って、遠足前日の子どもみたいにわくわくして眠れなかった、なんて……ことが実はあったりする。前日の夜、なかなか眠れず、それでいて予定時間より早く目が覚めてしまったなんて話をしたら、蓮さんと奈津美さんに呆れられるだろうな。
 起きてすぐに着替えを済ませていたので、六時になってすぐに佳山家に行くと、蓮さんの顔は笑っていた。にやけている、と言った方がいい表情だ。

「予想通り、早く来たな」

 思いっきり読まれてる?
 手伝おうとしたらすでに用意はできているようで、席には料理がほぼ並べられていた。

「いただきます」

 なんでこの人、こんなに先読み出来るんだ。

「ほんと、わかりやすいな。遠足前の子どもと一緒だ」

 三十歳になっても落ち着かなくて、ほんと、申し訳ございません。
 朝食もいつも通りに食べればものの十分で終わってしまう。食器を片付けたって、佳山家を出たのは十五分から二十分の間。予定ではお屋敷を六時半に出る予定でいたのだが、別荘はここからかなり遠いから、少し早めに出発することにした。
 数日前からどの車で行くのか悩み、スポーツタイプの車をチョイスしてみた。あの別荘まではかなり遠かったような気がしたので、機動性を重視した。満点の星空のような黒に近い青。今、一番気に入っている車だ。荷物は前日から後部座席に積んでいる。トランクに入れるのはどうにも嫌で、中は空っぽだ。そう、空っぽのはずだったのだ。普段からトランクに荷物を積むという習慣がなかったのが災いした。このときに確認しておけば、と後から悔やんでも……だから『後悔、先にたたず』という言葉があるのであって、とその話題はともかくとして。
 予定時刻より少し早いが、俺は出発することにした。後部座席に置いている荷物を一瞥して、エンジンをかけた。エンジン音だけなのも淋しいので、音楽をかけることにした。こういう時は葵さんの曲をチョイス、と。車内には軽快なバイオリンの音が広がった。
 出発時刻は、午前六時半より少し早い時間だった。

     * * *

 午前七時少し前。
 空知の別荘に行くには、高速道路を通らなければならない。インターチェンジに到着して、高速道路に乗り込んだ。
 そういえば、と今、どうでもいいことを思い出す。
 文緒は高速道路がなぜか苦手だ。一般道路はなんともないのだが、高速道路だとスピードが出るのが怖いらしい。実は何気にスピード狂である俺の運転もいけないのだろう。
 誤解のないように言っておくが、普段は超安全運転だ! しかし! 高速道路だと、どうしてもこう、血が騒ぐというか、昔、はまったカーレースゲームを思い出し、ついつい、スピードを上げてしまうんだよな。
 今日は一人だから遠慮はいらないと思ったのだが、平日朝のこの時間、意外に通勤利用者が多いようで、思ったようにスピードを上げられない。適当なサービスエリアに入って、通勤の車を少しやりすごすことにするか。
 と思ったものの、サービスエリアを通りすぎたばかりだった。間が悪いな。パーキングエリアでもいいのだが、看板によると、サービスエリアの方が近いようだ。
 しかし、その次のサービスエリアまでは思ったより距離があり、さらにはのろのろ運転。高速道路を使って通勤なんて、俺には一生、無理だ。
 結局、サービスエリアに到着したのは、午前八時前だった。
 車外に出て、思いっきり背伸びをする。日が昇ってきて暑い。
 用を足して、水分補給と飲み物を買う。時間をつぶすために売店を覗いてみたりする。
 昔、別荘に行く途中に寄ったサービスエリアで潤哉があれもこれも買おうとしたことを思い出した。思わず笑ってしまう。

「なに笑ってるの?」

 真後ろから、聞き覚えのある、だけどここで聞くことがあり得ない声がして、驚いて振り向いた。そこには、白いパブスリーブのTシャツにモスグリーンのカーゴパンツ、白いスニーカーを履いた……。

「ちょ、おまえ……。来るなってあれほど言っていただろう!」
「もー、車のトランクって最悪。なんにも中に入ってないからまだゆったり出来たけど、あっついし痛いし。もう着いたのかと思って外に出たら、まだサービスエリア!」

 と文句を言っているのは……そう、佳山家の長女の文緒だ。

「ちょっと待て。おまえ……トランクに入ってついてきたのか?」
「うん、そうだよ」

 にっこりとそれはもう、普段なら『天使の微笑み』とでも称したいほどの笑みを浮かべている文緒。普段だったら
『仕方がないなあ……』
 とどこのおっさんだよ! と突っ込みを入れられても仕方がないほど鼻の下を伸ばし……いや、伸ばしてない! 断じて、伸ばしてない!
 いえね、確かに文緒はかわいいですよ! 親馬鹿と言ってくださいよ!
 文緒は俺のかわいいかわいい『娘』ですからね。
 娘を持ったお父さんなら俺の気持ち、分かってもらえるよな?
 かわいい娘がいい笑顔を向けてきたら、無条件で降伏してしまう、この気持ち!
 普段だったらそれで良かったんだ。しかし。今回は本当にどんな危険が待っているのか分からないような場所に行くのだ。連れて行かないと言ったとき、あっさりと引き下がったことや、トランク内を確認しなかった俺の落ち度だ。完璧に文緒を侮っていた。
 俺は文緒をにらみつけた。それにも関わらず、さらにかわいらしい笑みを俺に向けてくる。

「むっちゃんでも怒ること、あるんだね」

 それはもう、なんだか幸せそうな笑顔。だから、俺は怒っているんだ!

「文緒! 今すぐ帰れ!」
「いや、無理でしょ? だってここ、高速道路のサービスエリア」

 お屋敷に連絡してすぐに迎えを……いや、迎えが来るまで一緒についていないと、文緒がまた、なにかやらかすのではないかと不安だ。しかしだ、その迎えを待っていると、時間に遅れてしまう。
 ああああ、どうすれば?
 それに、絶対こいつ、蓮さんと奈津美さんに内緒で来ているに決まっている! 二人に連絡しないと。……頭が痛い。

「おまえは……なんてことをしてくれたんだ」

 これから行く先も憂鬱だというのに、これ以上、悩みを増やさないでくれよ。
 まず、佳山家に連絡を入れて、その後、じいに連絡を入れて迎えを寄越すように手はずを整えて、空知の別荘にも連絡を入れて遅れると伝えないと。
 大きくため息をつき、ちらりと文緒を見ると、楽しそうな表情で俺を見上げている。

「怒ってるのに、なんで笑ってるんだよ……」

 文緒がなにを考えているのかまったく読めなくて、ため息混じりに聞くと、ますます意味が分からない回答が返ってきた。

「だって、むっちゃんてあんまり感情を出さないのに、私のことを思って本気で怒ってくれているのがうれしいの」

 ああ、もう、負けだよ、負け!
 とりあえず、佳山家には文緒は俺と一緒にいるという連絡を入れよう。絶対、向こうでは大騒動になっているぞ。蓮さんあたりは文緒の考えは見透かしていそうな気もするが。
 その後で、空知の別荘に一人増えたということを伝えよう。
 要するに、俺が文緒を守ればいいんだろう?
 ったく、心配事と手間を増やしやがって。

「……ほんとに、おまえは……」

 実は、一人で行くのはものすごーっく心細かったので、文緒が来てくれたことはとてもうれしかった。だけどそんなこと、文緒に言える訳がないじゃないか。
 いくらヘタレでも、男としてのプライドはあるんだ!

「で、文緒。一泊する荷物は?」
「じゃーん! もちろん、持ってきてるよ」

 じゃーん! じゃない! どうして普段は抜けてるクセに、そういう時だけ妙に要領がいいんだ。おまえは蓮さんか! あ、蓮さんは父親だもんな。抜け目のないところは似たということか。
 ああ、本当に困った。




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