たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【夏の夜の妄想曲?】
「話が思いっきりそれたが、本題に戻そう。空知から別荘への招待状が届いたんだ」
「別荘?」
別荘と言われ、あの鳥かごのような建物を思い出した。
「なんだ、その鳥かごは? ああ……そこが別荘なのか」
兄貴は目を細め、俺の記憶にある別荘を見ているようだ。
「早谷宮雄(はやたに みやお)のアトリエか……。嫌な空気だな。妄執が漂っている」
兄貴はそういうと、かなり辛そうにおでこに手のひらを当て、大きく息を吐いた。
「人の記憶を通してこれだけいろんなものを感じるなんて、俺が直接行ったら、気が狂いそうだな」
自嘲気味の笑みに、なにもいえなかった。
「早谷は表向きは心不全で亡くなったことになっているが、溺愛していた一人娘に逃げられ、悲観してアトリエの屋根から転落死したらしい」
アトリエの屋根? あの鳥かごのてっぺんから飛び降りたと言うのか? あそこに登るなんて、正気の沙汰ではないだろう。……ああ、通常の心理状態ではなかったからこそ、あんなところから飛び降りたのか。
娘を殺して自分もというパターンしか思いつかなかったので、俺が考えていたような最悪な結末を迎えた訳ではないと知り、ほっとした。
「娘の行方、気になるだろう?」
俺の気持ちを汲み取り、兄貴はそう聞いてきた。
「最悪な結末を想像していたから、娘があそこから逃れることができたのを知って安心はしたけど……その先を知っているのか?」
「ああ。空知とは因縁浅からぬ縁があって、調べたことがあるんだ」
兄貴は手に持っていた眼鏡を机の上に置き、辛そうにこめかみを押さえながら口を開いた。
「空知の末っ子の潤哉が愛人の子だというのは知っているか?」
「ああ」
潤哉の気持ちを考えると辛くて、下唇を噛んだ。
「潤哉の母親が、早谷宮雄の娘だ」
え?
思いもかけない消息に、俺は絶句した。
「さらに詳しく調べてみると……ひどいもんだ。名前を早谷冬華(はやたに とうか)というが、彼女には戸籍がない」
「は?」
「冬華の母はどこのだれとも知らない男と一夜をともにし、身ごもったようだ。堕ろす金もなく、産んで殺そうとしたらしいのだが、産声で大家に見つかり、『仕方がなく』育てることにしたと。それに、すぐに死ぬ命だからと出生届を出してないというんだ」
兄貴は耐えられないと頭を抱えた。
「思い出しただけでも頭が割れそうになる。冬華の母に直接話を聞きに行ったのだが……ひどいもんだった。世の中にはあんな人間がいるんだな」
そして、はき出すようにその時の話をしてくれた。
「お腹の中にいるとき、死んでしまえばいいのにと毎日、叩いていたというんだ。名前も、雪のように消え去ってしまえばいいとつけた、十日に生まれたから、そして十日で死んでほしいからと冬華とつけた」
食事も満足に与えず、死んでしまえとずっと呪いの言葉を吐いていたという。
「雪」
を
「冬の華」
に見立てたのはロマンチックだが、由来を聞くと、ぞっとしてしまう。
「ひどいもんだ。法律で許されるものなら、その場で切り刻んでしまいたいほどだ。たとえ許されたとしても、それをしてしまうと、ヤツと一緒になるからしないがな」
そこで深く息を吐いた。
「冬華はしかし、生命力は強かったようだ。そんな劣悪な環境だったにもかかわらず、死ぬことはなかった。しかし、死ぬよりも辛い日々を送っていたのは確かだ」
こういうのを『生き地獄』というのだろうなと兄貴はつぶやいた。
「冬華が十の歳、彼女は児童養護施設に引き取られた。そこでようやく、人並みの生活が送れるかと思っていたところ……」
そうはいかなかった、ということか。
「どうやって冬華を知ったのか知らないが、早谷がやってきて、半ば、誘拐するかのようにさらっていき、その鳥かごのようなアトリエに閉じ込めたというんだ」
また……なんでそんな。
「冬華本人を見たのはほんの一瞬だったからなんとも言えないのだが、儚げで夢見がちな感じではあったな。茶色いやわらかそうな髪と緑の瞳が印象的だった」
そう言われてみれば、早谷の描く少女はそういう風貌が多い。冬華がモデルになっているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、早谷の娘は黒髪の茶色い瞳だと思い込んでいたから、意外だった。
「その冬華と潤哉の父の出逢いなんだが、早谷のアトリエから冬華は身一つで逃げ出したまでは良かったのだが、途中で行き倒れ、たまたま潤哉の父が乗った車が側を通り、助けたのがきっかけらしい」
なんだかできすぎのような気がしないでもないが、冬華の今までの生命力と悪運の強さみたいなものを考えたら、不思議はないような気もする。
「そこでようやくめでたしめでたし……となれば良かったんだが。潤哉の父は冬華とは娘ほどの年齢差があったにもかかわらず、関係を持ってしまった。そこに愛や恋という感情の有無があったかどうかはともかくとしてだ。仮に、そういう感情があったのなら、一線を越してはいけないのくらい、分かっていたと思うのに。いや、だからこそ、本能には逆らえなかった人間の性ってやつなのか」
男女の関係ほど、難しいものはない。教科書もなければ、方程式だってないのだ。人の数だけ、物語はある。
「潤哉の父には、妻がいた。潤哉の父は離婚をする気もなかったのに、言葉巧みに冬華を自分の物にした。そこまでして手に入れたかったのだろうか」
そこで言葉を句切り、首を回した。頭が痛いのか?
「そして、潤哉が生まれた。ヤツはまだ、認知して空知の屋敷の一角に住まわせたからマシだったが……なんともやるせないよな」
冬華にしてみれば、ようやくつかんだ幸せ……なのか?
「冬華は男を引きつけて離さないフェロモンでも放っていたのか? 潤哉の父も妻をないがしろにして冬華に傾倒していった」
俺は潤哉しか知らないからなんとも言えないが、あの華やかさが母譲りであるとすれば、男たちの気持ちが分からないでもない。つかみ所がないところや、人を引きつけてやまない魅力、そして統率力みたいなもの。
「その冬華が、先日、風邪をこじらせて肺炎になって、亡くなったようだ」
いわゆる愛人という関係だったため、公式発表はされず、内々で葬儀も済ませたようだ。
「潤哉の父……空知哉賀(そらち さいが)はそれですっかり気弱になっているみたいで、冬華がかつて住んでいたというあの鳥かごで過ごしたいと言っているらしいんだ」
あそこで……ねぇ。
「年寄りが住むには辛い造りの建物だと思うんだが」
「場所も少し、辺鄙だろう? 万が一を考えると、すすめられないんだが、それでもあそこに行きたいと言い張って聞かないみたいだ」
頑固親父を説得するのは大変そうだ。
「って、まさか……そのおっさんを俺が説得する、とかいう訳では」
「そんなもの、おまえに頼むわけがないだろう。それとも、説得する自信があるのか?」
「あるわけないだろ」
焦ったよ。
「それで、空知から届いた招待状の内容というのが、哉賀を囲んで賑やかにあそこでパーティをしてみんなが一斉に引き上げれば、賑やかなことが大好きな哉賀が寂しがってすぐに帰ると言ってくれないか……と」
「要するに、サクラをやってくれと?」
「そうみたいだ。事実関係を調べてみて、裏があるように見えないんだが……どうにもなにかが引っかかるんだ」
哉賀の派手好きは有名だ。最近ではこういうご時世だから規模もだいぶ縮小しているとはいえ、何か月かに一度はなにかと理由をつけてパーティを開いているらしい。兄貴も毎回呼ばれているらしいが、そういう場が苦手だから、仕事が多忙という口実で断っているようだ。
「なにかあったのは分かるし、行き辛いのも分かるが、今回は行かないと後悔しそうな予感がするんだ」
兄貴……そうやって俺が断れないように外堀を埋めていくんじゃない!
「空知……か」
どうしてこのタイミングでまた、空知の名前を聞かなくてはならないのだろう。
あれからもう、十五年が経っているなんて、月日の流れはなんと残酷なんだ。
「文緒が生まれる前の年、俺は潤哉に誘われて、あそこに行ったんだ」
淡いフィルタ越しに、白と緑が鮮やかだった鳥かごの外観を思い出す。
梅雨明け前のじめっとした、それでいて夏がおとずれる前のなんとも言えない空気。夏休みの到来と、初めての外泊に喜んで向かったあの時の気持ち。
潤哉に言わせれば、あの出来事も俺をだますための嘘だったという。
あの楽しくて、最後はかなり痛かった思い出。気持ちも、感覚も、幻で偽りだったなんて、思いたくない。
「ふむ……」
兄貴は少し辛そうに眉根を寄せ、机の上に乗せていた眼鏡に手を伸ばし、かけ直した。
「その思い出に整理をつけるために行くことをすすめる」
兄貴の言うとおりではある。あるが、ヘタレな俺としては、行くことを躊躇してしまっている。
「そうだ。空知喬哉(そらち たかや)って知ってるか?」
前から聞きたいと思っていたことを思い出した。この機会を逃すと次に聞くのはいつか分からないので、思い切って聞く。
「潤哉に言われたんだ。『兄の喬哉が死んだのはおまえたちのせいだ』って」
すると、兄貴の表情は驚くほど豹変した。
まさかこの兄が泣きそうになるとは思わず、不用意に聞いてしまったことを後悔した。
「空知喬哉……か」
兄貴は苦々しい表情を浮かべ、少し潤んだ瞳でこんな話を語ってくれた。