愛から始まる物語


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アザミが見た夢《別れ》



 喬哉は俺の笑みを見て、動揺しているようだった。戸惑った表情をして、俺を見ている。

「ど……どこまでおまえは、おめでたい頭をしてるんだ!」
「別荘で落ちた時に頭を打ったんじゃないのかな? その前にも何度も頭をぶつけたり、色々していたみたいだから。頭をぶつけすぎて、馬鹿になったみたいだ」

 今でこそ落ち着いているように見えるが、実際はそんなことない。それこそ、やんちゃの限りをやらかしたものだ。そうは見えないらしいんだが。
 俺のいつもと変わらない言動に喬哉はあきれているようだった。このまま俺のペースに巻き込めば……。

「その手には乗らないよ」

 駄目か。
 喬哉は表情を改め、口を開いた。

「三年前、ある男が自殺をした」

 三年前といえば、まだ俺たちが中学生の時だ。

「おまえの兄のせいで、喬哉兄さんは……死んでしまったんだ!」

 喬哉兄さん?

「って、おまえが喬哉なんでは」

 俺の質問に、喬哉だと今まで名乗っていた男は口角をあげ、笑みを浮かべる。よく知っているはずなのに、まったく知らない人間に急に思えてしまった。気のせいか、周りの温度が急に下がったように感じた。しっかりと厚着をしているはずなのに、ぞくりと背筋が凍る。俺は急に怖くなり、羽織っていたスプリングコートの前を握りしめた。

「おまえは……だれ、なんだ」

 問いかける声が、緊張で震える。俺の問いかけにさらに笑みを深め、男はようやく、本名を名乗った。

「空知潤哉(そらち じゅんや)。喬哉はおまえたちのせいで自殺した、兄の名前だ」

 喬哉と名乗っていた男は、潤哉だと改めた。

「お屋敷でおまえの兄とすれ違った時、ばれたと思っていたんだが……そうだよな、喬哉兄さんの死なんて、おまえたちにとってはちっぽけな出来事だもんな。歯牙にもかけないってヤツか?」

 喬哉……いや、潤哉は乾いた笑い声を上げながら、俺をにらみつけている。

「おまえの兄のせいで、喬哉兄さんは死んだ」

 潤哉の兄である喬哉が死んだのは、俺の兄の秋孝のせい?
 まったく予期していなかった言葉に、俺は戸惑った。

「高屋秋孝……TAKAYAグループの後継者。現総帥・孝貴の右腕として働いている。そんな人間に、一介の高校生であるオレが直接復讐できるわけがなく、弟であるおまえが選ばれたって訳だよ」

 だから俺自身に恨みがあるわけではないというのだが。

「潤哉……」

 なんと言っていいのか分からず、言葉が詰まる。
 もしも。もしも、兄が今、だれかのせいで死んだなら。俺はどう思うだろうか。その相手を恨むだろうか。復讐しようとするか。
 考え、答えは
「否」
だった。
 兄とは年齢は離れているが、血の繋がった兄弟だ。だが、だれかのせいで死んだとしても悲しいとは思うかもしれないが、そこまで強い気持ちを持てるかというと、持つことはできない。

 三年だ。
 潤哉は三年、ずっと復讐するという暗い思いを抱えてきたのだ。それがどんなにすごいことか、俺は想像することさえできない。
 そこまで想うことができる相手がいないからだ。
 潤哉にそこまで想われた喬哉兄さんは、きっともう、満足しているのではないかと思うのだが、駄目なのだろうか。

「おまえたちのせいで死んだ人間というのは数え切れないほど、いるんだ。それなのに、のうのうと暮らしてやがって。……死神めっ!」

 潤哉に突然叫ばれ、俺の身体は凍り付いた。驚きのあまり、目を見開いた。
 俺の反応が満足だったのか、潤哉はいつものあの華やかな笑みを浮かべ、俺を見ている。いつもと変わらないその笑顔に、俺は見惚れてしまった。
 ぼんやりして見ていたら、潤哉はきびすを返し、走り出した。

「潤哉?」

 俺はてっきり、自分に向かって走ってきてどこかに突き落とされるとでも思って覚悟をしていた。それなのに、潤哉は俺と離れるかのように走り出した。
 迷っているうちに、潤哉はどんどんと遠くなり、見えなくなっていく。

「待てよ!」

 ここに放置して俺を餓死させるつもりでいるのか?
 俺は慌てて潤哉を追う。
 岩の上なので、足下はとてもでぼこぼしていて危険だ。スニーカーで来ていたからまだよかったが、慣れない場所に先がどうなっているのか分からず、慎重に進んでいるので潤哉からどんどん引き離されていく。

「潤哉、待てよ!」

 どんどんと嫌な予感が胸の中に大きくなっていく。その不安な気持ちと急勾配で息が切れてきた。肩で息をしながら、潤哉が消えていったと思われるところへと足を向ける。
 桜の海をくぐり抜けた先は、黒い岩が広がる荒寥(こうりょう)とした風景。先ほどのピンクからいきなりの暗い色に、ますます心は騒ぐ。
 目をこらすと、ずいぶんと遠くに潤哉がいた。カーキ色のスプリングコートがはためいている。風が出てきたようだ。
 俺はそれを目指し、必死に足を動かした。
 追いかけても追いかけても、距離が縮むどころか離されていく。まるで悪夢を見ているかのようだ。
 しかし、これが悪夢で、夢から覚めたらいつもと変わらない日々が待っていた──とならないのは分かっていた。それでもそうであればいいのにと思わず願ってしまう。

「潤哉、待てよ!」

 息が切れて大声を出すのも辛いけど、振り絞って声を上げる。潤哉は気がついているはずなのに、振り返りもしない。
 立ち止まったと思ったら、今度は岸壁をよじ登り始めた。すぐにそこにたどり着けるように俺は斜めに壁へと走り寄る。壁に近づくにつれ、轟音が聞こえる。この向こうはどうなっているのだろうか。
 潤哉が壁を登っているところに俺が到達したとき、彼はすでに一番上にたどり着いていた。
 そこには、さびたはしごが掛かっていた。俺はもちろん、後を追った。潤哉は俺が登ってきているのを見て、また笑っていた。
 潤哉はゆっくりと俺から遠ざかっていく。風が相当強く吹いているようで、カーキ色のスプリングコートの裾が風をはらんで揺れている。あれでは風でバランスを崩して落ちてしまう。
 俺ははしごを登りながら、前を止めた。
 潤哉はまるでウインドウショッピングをしているかのように軽い足取りで歩いている。
 勉強は負けなかったが、運動は潤哉に負けっぱなしだったのを思い出す。勉強も出来て運動も出来て見た目もいいなんて、潤哉はきっと、中学の時も人気者だったのだろう。
 それを壊したのが兄だった──。
 なにを言っても潤哉の心の慰めにはならないだろう。
 ようやく、一番上に到達することが出来た。はしごを登り切り、一番上に立つ。
 思っていたより足場が悪い。ここを普通に歩くのは、俺には無理だった。情けないけど、地面にしがみつくことしか出来なかった。

「潤哉、待てよ」

 背中を見せていた潤哉は身体を回転させ、登ってきた俺に向き合う。その顔はいつものあの華やかな笑みが浮かんでいて、これは鬼ごっこのつもりだったのかと安堵のため息を漏らしそうになった。

「睦貴、ここでお別れだ」

 ふと右側に視線を向けると、目がくらむほどの高さの下に、濁流のような川が流れている。轟音の正体はこれだったのか。雪解け水が水量を増やしているのだろう。ここに落ちたらひとたまりもない。さすがにぞっとした。ここに誘ったのは、俺をここから突き落とすため?

「この一年、楽しかったよ。じゃあな」

 潤哉は今まで見てきた中で最高の笑みを浮かべ、身体を少し回して、あろうことかその濁流側へ身体を向け、跳んだ。
 まるで鳥のように両手を広げ、潤哉の身体は宙に舞った。それを彩るように、潤哉の髪の毛に絡みついていた桜の花びらが巻き上がる。

「潤哉!」

 下から風にあおられ、潤哉は数秒、鳥のように飛んだように見えた。
 彼もまた、あの鳥かごから飛び出して自由に空を飛びたかったのだろうか。
 潤哉は俺の方に顔を向け、楽しそうに笑った。
 そこまでの動きはほんの数秒だったはずなのだが、スローモーションのように俺の瞳に焼き付いた。
 そしてそのまま、潤哉はすごい勢いで、桜の花びらとともに落ちていった。

「潤哉!」

 俺は潤哉の名前を叫ぶことしか出来なかった。





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