愛から始まる物語


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アザミが見た夢《達成感》



 夏休みが終わり、二学期が始まった。
 今年は梅雨明けが遅かった影響なのか、九月に入ってもいつまでも暑かった。体育の水泳の授業はありがたく、だけどその後のあの眠さは尋常じゃなかった。

「こら、睦貴! おまえが寝るんじゃない!」

 水泳の後の科学で寝るなとか、それは無理な話だろう。教師の突っ込みに教室内は爆笑の渦に包まれた。おかげで、すっかり目が覚めたのだが。
 和気あいあいとした高校生活は他人に対する警戒心のしきい値を下げるのに充分だった。
 お弁当を持っていくという喬哉との約束もきちんと果たした。周りからはずいぶんとうらやましいという声が上がったが、喬哉は特別だからと言うと、なぜか全員が黙ってしまった。なんか変なこと、言ったか?
 喬哉を見ると、熟しすぎたトマトよりも真っ赤な顔をしていた。
 ……なんだろう。俺は疑問に思いつつ、プチトマトを口に運んだ。

 そして中間考査が終わり、学園祭の話で持ちきりになっていた。

「わがクラスでは、『ハムレット』をやりたいと思う」

 教壇の上で学園祭係に立候補した喬哉が開口一番、そんなことを言っている。

「なんで『ハムレット』なんだよ」
「悲劇だから」

 喬哉の返答は、たまに意味が分からない。

「考えている場面は、王子ハムレットが実母にどうしてすぐに再婚をしたんだと責め、それを立ち聞きしていたボローニアスを実母が再婚した相手の王と勘違いして刺す場面からオフィーリアが溺死して墓に葬り去るところまで」
「だから、どうしてそこになるんだよ?」
「一番の見せ場じゃないか?」

 『ハムレット』はシェイクスピア作の悲劇である。かなり長い話で、最初から最後まで忠実にやろうとしたら、それこそ何時間の世界になる。そのため、演じる場合は場面を簡略化するか、特定の場面のみ演じることになる。
 夏休みの終わり近いときに喬哉から母との確執の話を聞いていたから、その場面に固執する理由が分かり、なんとも複雑な気分になる。

「ということで、オレがハムレットやるな。母親役に……武士、おまえね。ボローニアスは清。オフィーリアは睦貴な」

 突然名指しされ、俺は驚いて立ち上がる。

「ちょっと待て。なんで俺が女役。おまえがハムレットなら、オフィーリア役はおまえより背が低いヤツを選べよ」
「やーだよ。他のヤツの女装姿なんて、気持ちが悪くて見たくない。オレの相手役なんだから、オレが決めてもいいだろう?」
「却下だ!」
「しかもこれ、日本語じゃなくて原語版でやるんだ。英語のセリフを覚えられるヤツで女役が似合う人間なんて、おまえ以外にいないだろう?」
「そもそも、ハムレットをやろうという根本的な問題から見直した方がいいんじゃないか?」
「じゃあ睦貴、なにか良い案があるのか?」

 喬哉にそう言われ、俺は黙るしかなかった。

「反対意見もないよな?」

 静まった教室内。だれも異を唱えない。

「決まりだな」

 敗北感に俺は脱力して、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。

 稽古は過酷を極めた。
 喬哉のヤツ、いつの間にセリフを覚えてやがるんだ。しかも妙に発音がいいし。

「もう少し女らしくしゃべれ」

 精一杯、俺が思う『女らしさ』を最大限に出しているのだが、喬哉は容赦ない。

「普段もスカートを穿いて生活するか?」
「冗談じゃない!」
「なら、きちんと女役をこなせよ」

 なんだかものすごく喬哉に乗せられているような気がしないでもないけど、学園祭までの間、俺は生まれて初めてといっていいほど真剣に取り組んだ。

 そして当日。
 中学・高校合同で行われる『悠木まつり』は、この日は一般の人にも開放される。とはいえ、招待状を持たない者は台帳に住所と名前を書かなくてはならないのだが。
 一人五枚、その招待状を渡されていて、俺は偶然、お屋敷の中で会った兄の奥さんの智鶴さんに二枚ほど渡していた。別に来てほしいとかではなくて、このまま使わないのももったいないと思ったからだ。
 各クラス、なにかやらなくてはならなくて、俺たちのクラスは演劇。隣のクラスは屋台をやるということだ。
 毎年、かなり盛り上がるという話だった。
 とはいえ、俺はもう、今日の劇が気になって気になって、見て回る余裕なんてものはなかった。早い時間から楽屋に入り、念入りに化粧をして、しつこいくらいチェックした。
 そしてとうとう、俺たちのクラス。校門を入って右側の講堂で行われていて、袖から観客席を見たら、満席のように見えて、否が応でも緊張する。
 絶対あの時の俺は、なにかに取り憑かれていたとしか思えない。緊張して頭は真っ白だったのだが、喬哉のしごきのおかげか、身体が勝手に動き、口からも自然とセリフは出ていた。
 オフィーリアはハムレットに父を殺され、それが原因となって狂ってしまう。狂人としか思えない母とともに暮らしているから、それを演じるのはとても簡単だった。
 そして唐突に、オフィーリアは溺死してしまう。
 この場面は直接描かれず、ハムレットとオフィーリアの兄・レアティーズが会話をしているところで訃報が届くという形を取っている。
 だから俺の出番は、フランスから戻ってきたレアティーズが戻ってくるまでの出番となる。
 一足先に出番を終え、袖に引っ込んでそこから劇を見ていたら、近寄ってくる人がいた。

「驚いたな。まさかおまえがオフィーリア役をしていたとは。なかなか壮絶だったぞ」

 仕事で忙しいはずの兄がそこにはいた。その後ろには、兄の奥さんの智鶴さんがいた。

「驚いたわ、ほんと。わたしなんかよりよほど女らしかったわ」

 まさか来てくれるとは思わなくて、俺は慌てた。来てくれてありがとうという言葉をすっ飛ばして、大変だった思いを思わず語っていた。

「喬哉にしごかれたんだよ」
「喬哉?」

 俺は舞台の上でハムレットを熱演している喬哉を指さした。

「夏休みの終わりに来ていたヤツだよ」
「ああ……」

 兄はかけている眼鏡を外し、喬哉をじっと見つめている。

「友だちなのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺にもよく分からない。今まで、友だちなんていなかったから」

 兄は手に持っていた眼鏡をかけ直し、俺の頭に手を置いた。女役ということでカツラをかぶっていたが、それでも兄の手の熱を直接感じた。

「気をつけろ」

 意味深な言葉だけを残し、兄は智鶴さんを連れて、去っていった。
 気をつけろ? なにに対してだ?
 疑問に思いつつ、気がついたら劇は終盤を迎えていた。
 ハムレットとレアティーズのとっくみあいの場面は、何度見てもすごい。
 この後はハムレットとレアティーズの剣の試合が行われ、主要人物すべてが死ぬことで終幕となる。時間の関係でそこははしょられた。あまりにもひどい場面だから辞めようということになったのだ。
 余韻を残しつつここで終わらせたのは、なかなかいい判断だったのではないだろうか。
 場内は割れそうなくらいの拍手が鳴り響いている。舞台の上にいる喬哉に来いとジェスチャーされたので俺はまた、『オフィーリア』になりきって舞台へと出る。
 俺が出た瞬間、さらに拍手が高鳴った。内心は激しく戸惑っていたが、女らしくと喬哉にしごかれたおかげで、女よりも女らしく演じた。いつまでも鳴り止まない拍手に俺たちは袖に下がるタイミングを思いっきり逃してしまっていたが、係の人たちが次がつかえているからと強制的に袖に戻してくれた。

「睦貴、おまえすごかったぞ!」

 袖に戻るなり、喬哉に飛びつかれてほめられた。
 周りの人間も口々にすごかったと言ってくれる。カツラを外され、頭をぐちゃぐちゃにされた。

「What do you do?」

 劇中にそんなセリフはなかったが、オフィーリアになって
「なにをするのですか」
と怒ってみた。

「もっと叱って、オフィーリアさま!」

 やべぇ、逆効果だったようだ。
 俺は慌てて楽屋へと駆け込み、舞台用に塗りたくった化粧を必死に落とし、衣装を脱いだ。
 一つの大きな役目を終え、俺は満足していた。





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