アザミが見た夢《疑懼》
※ぎく……疑い、恐れること
夏休み中は案の定、あの別荘へ泊まりに行った一件が重く響き、母はますます俺に固執した。
勉強している間だけが唯一、一人になれる時間だったのに、母は勉強をしているのもお構いなく、俺にべったりだった。正直、息がつまる。
こうしておかしくなりそうな夏休みを過ごし、残りの一週間前に喬哉から連絡が入った。
明日、遊びに行くからよろしくと一方的な伝言を伝えられたとき、母にどういえばいいのか頭が痛くなった。
「あの……さ」
普段、俺から母に話しかけることはめったにないので、母はよほどうれしかったらしい。友だちが来ることになったという話をしたら、あっさりと許可が下りた。どういう風の吹き回しだろうか。恐ろしい。
そして、喬哉は予告どおり、宿題の山とともにやってきた。
「すっげー! 大きいな、やっぱり」
正面玄関から中に入り、ホールを通って左を曲がって俺の部屋へと案内した。少し手前で待ってもらっておき、母が中にいないことを確認してから、喬哉を部屋へ入れる。
「うわっ、なにもないっ」
部屋へ入った第一声がこれだった。
なにもないわけではない。壁一面を棚にして、そこに本をみっしりと詰めているから、ぱっと見、なにもないように見えるだけなのだ。
後はベッドと勉強机。服は壁に埋め込まれたクローゼットに入っている。
今日は喬哉と向かい合って勉強ができるようにテーブルを出してもらっていた。そこに座るように促したところで、ノックする音がした。まさかと思ったら、予想通り、ドアの向こうに母が立っていた。
「お茶とケーキを持ってきたの」
「……ありがとう」
俺はそそくさと受け取り、ドアをすぐに閉めた。母の不満そうな顔が見えたが、邪魔されたくなかった。渡されたトレイの上には、俺の好きなアールグレイとロールケーキが乗っていた。
「喬哉は甘いもの、好きか?」
「人並みには」
勉強に取り掛かる前にとロールケーキとアールグレイをお腹の中におさめた。
俺は宿題をほぼ終わらせていた。喬哉も優秀で、ほとんど終わっているとは言ったが、分からないところがあるから教えてほしいと聞いてきた。聞かれたところは意地の悪い引っ掛け問題の場所ばかりだった。
「出題者の視点で考えたら、ここでこうひねったら引っかかるってのが分かるよな」
「はあ? どうしてそこでそういうひねりを入れるわけ?」
「俺が出題者だったら、ここでひねるよりはこっちでひねった方がより意地悪くてひねりが入っていると気がつかないと思うんだが」
「いや、だからなんでそういうひねりを入れるんだ? そんなことして、出題者にメリットがあるのか?」
「メリット、デメリットの問題じゃない。この参考書を監修しているこの人、いつもつめが甘いんだよな。それに比べて、こちらの人は俺でもたまにひっかかるくらい、なかなかあざやかな問題を作ってくれる」
「……前から思っていたけど、やっぱり睦貴って変なヤツだな」
変?
「……俺って変わっているのか?」
自覚がなかったわけではないが、そうはっきり言われたのは初めてだったので、思わずそんな質問をしてしまった。
「変わってるだろう。普通なら新しい環境に来たのなら友だちを作ろうとするのに拒否するし、警戒心が強いのかと思ったらとんでもなく無防備なところもあるし」
残りの宿題を消化しながら、たまにそんな会話をはさみ、時間はあっという間に過ぎた。
母の妨害を警戒しながらだったが、拍子抜けするほどなにもなかった。後が怖い。
「もうこんな時間か」
喬哉はあわてて荷物を片付け始めた。
「飯、食っていかないのか?」
名残惜しくてつい、そんなことを口にしていた。
喬哉と二人、食堂へと向かった。
このお屋敷は鳥が羽を広げたような造りになっている。昔はカササギ御殿と呼ばれていたという。中央を頭とみなしてそこが玄関になっている。左右対称に建てられているため、上空から見ると美しい外観をしているという。といっても、緑があふれているので、上から見ても木々の葉しか見えないだろう。
屋敷に向かい合い、左側が親父と母、俺が住んでいるエリアで、反対側の右側は兄が住んでいるエリアだった。そして食堂は右側にある。
普段は俺の部屋の横にある簡易食堂で母とともに食べるのだが、今日は喬哉がいるから右側エリアにある食堂にまで足を運んだ。気分転換したいときやどうしても母の顔を見たくないときなどにたまに利用していた。
少し早い時間なら俺たちしかいないから、食堂も貸切状態でゆっくりと食べられる。
予想通り、食堂は貸切状態で俺たちだけだった。
「睦貴、おまえこんなに美味しいのを毎日、食べてるのか?」
出された食事、一つ一つに喬哉はいちいち感動していた。
「そうだよ。しかも、栄養バランスまで考えてある」
「うわぁ、うらやましい。今度、お弁当の交換しよう」
という話をしていたら、厨房からコック長が出てきて、それならば一度、もう一つお弁当をお作りしましょうかなんて言ってくれている。
「え? いいのか?」
「はい。睦貴さまの許可をいただけるのでしたら」
「え? あ、俺の? 迷惑でないのなら、もう一つ、喬哉のために作ってくれるとうれしい」
喬哉はそれはもう、うれしそうに笑顔を見せ、俺に抱きついて背中を叩いてきた。痛いんだけど。
「そんなにうれしいのか?」
「うれしいよ。だって俺のお弁当、自分で作っているから」
「え? あれって喬哉のお手製だったのか?」
確かに手作り弁当ではあったが、まさか喬哉自身が作っているとは思えなくて、驚いた。
別荘に行ったときも使用人が何人もいたし、食事もきちんと出てきていたから通常もそうだと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
「今日はおかげで、夕飯を作らなくて済んで良かったよ」
「え? 自炊?」
「自炊なんて立派なもんじゃないけどな。カップ麺だったり、コンビニ弁当だったり。気が乗ったら料理を作るけど」
スカイグループって実は内情はやばいのか?
「あ、誤解のないように言っておくけど、これはオレなりの母への反抗心だからな。別にグループがやばいわけではないぞ!」
唇をとがらせて、少しすねている様子を見て、強がっても喬哉もまだ子どもなんだよなと思うと、おかしくなって笑った。
「なに笑ってるんだよ」
いつもと逆のパターンでなんだかおかしかった。
そういう話をしていたら、食堂に思ったより長い時間、いたようだった。廊下から賑やかな声が聞こえてきて、兄たちが帰ってきたのが分かった。
「ごちそうさま」
俺は慌てて立ち上がり、食堂を後にしたのだが、兄たち一団と廊下で遭遇することになってしまった。
「珍しいな、こちらで食べてるなんて。……おや?」
兄は俺の後ろにいた喬哉に気がついたようだ。喬哉はいぶかしそうな表情で兄を見ている。
「兄だよ」
ぼそりと喬哉につぶやくと、顔色が急に変わった。
「オレ、帰るよ」
喬哉は兄たちの集団を避けるようにして廊下を突き進み、玄関へと向かっている。俺は慌てて兄たちに頭を下げ、喬哉を追いかける。
「どうしたんだよ」
喬哉の豹変ぶりに俺は焦ってしまった。
「いや、なんでもない。睦貴、今日はありがとう。新学期に会おうぜ」
それだけ言うと、少し顔色が悪いものの、いつもの喬哉がそこにはいて、突っ込んで聞くことが出来なかった。
喬哉とは迎えの車が来るまで玄関前に並んで座って、少し話をした。
もしもこのとき、詳しく話を聞いていれば、結末は違っていたのだろうか。
俺には喬哉の抱えているなにかがまったく分からず、そしてそれに触れることが怖くて、聞けないでいた。