アザミが見た夢《飛翔》
話をしているうちに、外から差し込む日差しの色が徐々に変わっていくのが分かった。白から徐々に色づき始め、オレンジ色の光が差し込んでくるようになり、夕食の時間になったことを知った。
俺たちは再び一階に行った。
やはり俺と喬哉だけしかいなくて、それでも楽しく夕食を食べることができた。
「お風呂、どうする?」
と部屋に戻りながら聞かれた。大浴場なんて使ったことがなかったので、部屋でシャワーを浴びて終わらせるつもりだったのだが、喬哉に誘われて、地下一階にあるという大浴場へ行くことになった。着替えを手に持ち、喬哉とともに大浴場へ行った。
人前で裸になるのなんて、母を抱くとき以外は病気の診察と水泳の時くらいしか思い出せない。オンナを抱くときは学校内だったから、素早く済ませるために脱ぐことはなかった。だからすごく気恥ずかしくてもじもじしていたら、喬哉は躊躇することなく服を豪快に脱ぎ捨て、浴室へと入っていった。
意識するから恥ずかしいんだ。男同士じゃないか。
喬哉を見習い、俺も思い切って服を脱ぎ捨てて中へと入った。
扉の向こうは、大浴場というだけあり、広かった。深緑色をした石が敷き詰められた浴場。その向こうに学校のプール半分くらいの大きさの浴槽が見えた。
「滑りやすいから気をつけろよ」
と入ってすぐのシャワー台のところで頭を洗っている喬哉に声をかけられた。俺は慎重に足を運び、喬哉の横に少し間を空けて座った。喬哉を見よう見まねで同じように頭と身体を洗う。
「この近くに源泉が沸いているらしく、贅沢にも温泉なんだぞ、ここ」
温泉に入ったことがない俺としては、初温泉で心が躍る。
先に身体も洗い終わった喬哉は浴槽に入っているようだった。俺もさっくり洗い、同じように浴槽へと入る。
「やっぱり、こんなに大きな湯船だったら、泳がないと損だろ!」
と子どものような無邪気な笑みを浮かべ、喬哉は泳ぎ始めた。
「睦貴も泳ぐか?」
誘われたが、さすがに躊躇して、やめておいた。
喬哉は浴槽の端から端まで気持ちよさそうに泳いでいる。俺は首まで浸かってその様子を眺めていた。お湯は温泉というだけあり少し独特のにおいがあったが、湯ざわりはよくて肌がつるつるになったような気がした。
「ほおら!」
先ほどまで泳いでいたはずの喬哉はいきなり前に現れ、俺にお湯をかけてきた。
「なにをっ!」
俺も負けずに喬哉にお湯をかける。
俺たちはのぼせる寸前まで散々遊んだ。
部屋に戻って片づけを一通り済ませたあたりで、ドアを叩く音がした。開けると向こうには喬哉が立っていた。その手にはラベンダー色の液体の入った瓶が握られている。喬哉はそれを俺によく見えるように高く掲げて見せてきた。
「一杯やろうぜ。……と言いたいところなんだけど、ここはアルコール禁止だし、オレたちはまだ、未成年だからな。ノンアルコールのカクテルで乾杯しよう」
当たり前のように部屋に入ってきて、反対の手に持っていたワイングラスを慣れた手つきで小さなテーブルに乗せた。
「つまみはなにかあったかな?」
喬哉は冷蔵庫をあさり、なにもないことを知ると、受話器をとり、どこかに電話をかけていた。
少ししてドアがノックされ、喬哉が出てくれた。戻ってくるときはワゴンを押しながら。
「さっき、お風呂で暴れたから少しお腹が空いてさ。夕食の残りで簡単なおつまみを作ってもらった」
テーブルの上に乗せるには品数が多すぎたので、ワゴンの上に置いたままにしておいた。
「それでは、乾杯」
「乾杯」
ラベンダー色の液体は、口に含むと少し泡がはじけ、ほのかな芳香と甘さを感じた。
「ラベンダージュースらしい。ラベンダーは眠りやすくしてくれるから、寝る前の一杯にちょうどいいんだ」
用意してもらったおつまみを食べながら、俺たちはまた、どうでもいい話をした。
そんな当たり前のことが俺にはすべて、初体験だった。
こうして夜は深け、気がついたら俺と喬哉は倒れるように同じベッドに横になっていた。
そう、ここまではとても楽しいひと時を過ごせたのだ。事件が起こったのは、帰る前のちょっと油断をした隙であった。
× × ×
朝食を食べた後、そういえば、と改めて思い出す。出された水がなんとなく苦く感じたんだよな。それに、出されたデザート。甘ったるいチョコレートの味でかき消されてよく分からなかったが、どうにもアルコールが入っていたようだ。昔、母の味を忘れたくて隣の部屋にあったブランデーを飲んでみようと匂っただけで、そのまま記憶が飛んでしまった。一気飲みしたとか過度に飲んで記憶がなくなるというのなら分かるのだが、匂いをかいだだけでそれだったので怖くなり、それ以来、未成年というのもあるが、怖くて匂いさえかいだことがなかった。お屋敷では俺がアルコールがまったく駄目なことが分かっているので避けてくれているが、そのことをすっかり忘れて伝えていなかった。
寝不足なのと帰りたくないという変なテンションも加わり、判断力が欠けていた。そしてその後、ここから帰って現実へ戻らないといけない状況が嫌になり、自分にしてはわけの分からない行動をとったような気がする。アルコールにやられていたというのもある。
ふわふわと宙に浮いているような、不思議な感覚。なんだかとっても気分がよかった。
まるで鳥かごの中の止まり木のようなあの宙に浮いた橋を、俺はなぜかもう一度通ってみたいと思ったのだ。それも喬哉とともに。
「別にいいけど……。たまに睦貴は突拍子もない行動をするよな」
「そうか?」
俺たちは階段で二階へ上がり、架け橋のような渡り廊下へ足を運んだ。
一人しか通れないほどの幅しかないこの橋は、やはり鳥かごの中の止まり木を意識して作ったのだろう。真ん中に到達したあたりで、俺は柵に手をかけ、下を覗きこんだ。
「危ないぞ、そんなに身を乗り出したら」
少し後ろで喬哉が俺に注意している。身体を起こそうとしたら、くらりとめまいがした。昨日も結局、喬哉と遅くまで話していたし、ゆっくりと眠っていないから……の割には、なにかがおかしい。
「睦貴!」
自分の身体が柵の向こう側に傾ぐのが分かった。上体を起こして落下を防ごうとしたのだが、身体が思うように動かない。おかしい。
そう思ったとき。
すでに遅かった。
俺の身体はそのまま柵の向こうにあった。
一瞬の浮遊感。
ああ、俺は鳥になれたんだ──なんておかしなことを思った途端。
万有引力の法則に従い、俺の身体は地球の引力に急激に引かれ……落下の際の気持ちが悪い感触が全身を襲い、そしてそのまま、身体が叩きつけられた。
「睦貴!」
喬哉の声が上から聞こえる。
「っつー」
そこまでは意識がある。
地面に叩きつけられて今まで感じたことがないほどの痛みが身体を走りぬけた。そこからぷっつりと俺はどうやら、意識を失ったようなのだ。
× × ×
見慣れない天井に、俺は頭を悩ませた。それに感じたことがないほどの頭痛。遅れて感じ始める身体の痛み。
なにがどうなっているのだろうか。
妙な浮遊感。
焦点が合わない目。
しばらく悩み、答えがでなかったので身体を起こしてみようとするのだが、まったく力が入らない。
俺、どうしたんだっけ?
悩み、考えて、ようやく思い出した。
そうだ、俺──。
あそこから思いっきり落ちたんだった。そりゃあ、あの高さから落ちたんだから、痛いに決まっているよな。
俺はすっかり、あの時の違和感を忘れていた。
ドアが開く音がして、だれかが入ってくる気配がした。ゆっくりと顔を動かすと、ぼんやりとした向こうにだれかが映った。
「睦貴、大丈夫か?」
声で喬哉だと分かった。その声はものすごく心配そうで、申し訳なさ一杯になる。
「あそこから落ちたとき、あせったよ。ここにちょうど看護師の資格を持っている人間がいて取り合えずで見てもらったが、打ち身くらいでなんともないといわれたけど……相当、痛いよな?」
口を開いて答えようとするのだが、声の出し方を忘れてしまったかのように、出ない。
「家には連絡を入れておいた。二・三日ここで休んでから帰るといい」
あのお屋敷から離れられる時間が長くなったのは単純にうれしかったが、帰った後のことを思うと、憂鬱だった。
喬哉は献身的に俺の看病をしてくれた。
ようやく声が出るようになり、身体も起こして動けるようになったのは、落下してから三日経ってのことだった。もう少しゆっくりしていけばいいという喬哉を振り切り、俺はいやいやながらもお屋敷へと戻った。
なぜかあの別荘に長くいたくなかったのだ。
お屋敷に戻ると、予想通りに母は狂ったように俺にしがみついてきた。まだあちこちが痛んだが、その痛みがようやく現実に戻ってきたと実感させてくれた。