アザミが見た夢《別荘》
一学期期末考査が終了して、結果が返ってきた。予想通り、また俺がトップで喬哉が二番だった。
「今回もオレなりにものすごいがんばったのに、どうしてもおまえには勝てないな」
張り出された順位表を見ながら、喬哉は悔しそうに口にする。
「ま、いいや。明日から夏休みだ! 明日の朝、そちらの家に迎えに行くから、用意して待っていろよ」
そうだ。明日から夏休み。とうとう初めての『お泊まり』というヤツを体験することができるのだ。期末考査が終わって夏休みが近づくにつれて、俺は内心、わくわくとどきどきに支配されていた。こんな感情を持ったのは初めてだ。
「宿題を持ってきてやろうなんて思うなよ?」
行動を見透かされていて、思わず眉間にしわが寄った。
「……まじかよ。一泊しかしないんだから、その間だけでも勉強のこと、忘れていろよ」
「そうする」
せっかく母から少しの間だが、逃れられるのだ。逃避の道具である勉強を一日くらい置いていっても問題ないだろう。
「じゃあ、明日な」
心の底から喜んでいる表情を俺にだけ向け、喬哉は人の輪に加わっていった。
× × ×
わくわくしすぎて、結局、寝ることが出来なかった。
ようやくうつらうつらし始めた頃、目覚まし時計が鳴り響いた。俺は隣で寝ている母を起こさないようにと慌ててアラームを止めたが、すぐに気がついた。母は昨日、父に連れられて隣の夫婦の寝室で寝たことを。
寝るまでは俺のことを離してくれなかったので母が寝付くまでは一緒にいたのだが、眠ったことを知って俺は父と交代したのだ。
父はそれを見て、どう思ったのか、怖かった。
「おつかれ」
と一言ねぎらいの言葉をかけられたが、親父がどんな表情をしているのか恐ろしくて顔を見ることなく、逃げるように退室した。
それにしても、この年になっても母と一緒に寝ているなんて知られたら、どんな噂を流されるのだろうか。正直いい加減、一人にしてほしい。
それにしても、一人で眠るというのはなんと気が楽で、心地よい物なのだろうか。
今日の夜も一人で寝られるからよいとして、帰ってきてからまた母とともに寝ないといけないのかと思うと、憂鬱で仕方がない。
このまま別荘でなにか事件が起こって帰るのが遅れたらいいのに。
なんて物騒なことを考えても、だれも俺を責めることはできないだろう。
それが現実のことになるなんて、その時の俺は思いもしなかった。
× × ×
喬哉が指定してきた時間より少し早めに玄関から出て、車の到着を待っていた。じいが付き添ってくれている。
「お荷物に不足はございませんか」
初めての外泊にじいはずいぶんと不安に思っているようだ。
「大丈夫だよ。なにかなくても、一泊くらいならどうにでもなるだろう」
「そうは申しましても……。睦貴さまは初めての外泊でございますから、心配で心配で」
じいは俺の親代わりのようなものだが、この過保護としか思えない反応に苦笑するしかない。
時間より少し前に、きれいに磨かれたホワイトパールのセダンタイプの車体が見えてきた。後部座席のウインドウが降りてきて、見慣れた顔がのぞいた。
「おはよう。迎えに来たよ」
学校外で初めて見る喬哉。当たり前だが私服を着ている。俺は片手をあげ、合図をした。
「なかなか華やかな方でございますね」
じいの言葉に、俺はうなずく。
「それでは睦貴さま、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
足下に置いていた荷物を持とうとしたら、じいが先に持ってくれた。
「いいよ、自分で車まで運べるから」
慌ててじいから荷物を奪おうとしたが、やんわりとたしなめられた。
「これはじいのお仕事でございます」
そう言われたら、なにも返せなくなる。俺は素直にじいに任せた。
車は滑るように玄関の前に止まり、乾いた音を立て後ろのトランクが開いた。じいが荷物を積んでくれている。
後部座席が開き、喬哉が降りてきた。今日の喬哉はグレイのVネックのカットソーに深緑色の少しスリムなカーゴパンツを穿いている。ラフな格好だが、喬哉が着ているとそう見えないのは不思議だ。
俺はどんな服を着ていけばいいのかさっぱり分からず、迷ったあげくに黒い半袖シャツをインナーにして、その上に平織りのカーキ色の半袖シャツを着た。モスグリーンのチノパンツにしたのだが、これで良かったのだろうか。
「噂には聞いていたけど、さすが『高屋』だな。ここまでに来る道も専用道路だし、あの街路樹も手入れがされていた。そしてこのお屋敷! 今度、遊びに来てもいいか?」
「え……あ」
車から降りてきて、まぶしそうにお屋敷を見ている喬哉。今まで友だちなんていなかったから、そう言われて面食らう。
「夏休みの終わりの頃に遊びに来るよ。宿題、教えろよな」
喬哉がうちに来る?
どう対応すればいいのか分からず、おろおろしている俺なんかお構いなく、喬哉は背中を押して、車に乗るように促してきた。俺はそれに素直に従った。
別荘までの道中も楽しかった。喬哉は運転手にも気安く話しかけ、会話に巻き込んでいた。
喬哉はサービスエリアを見かける度に寄ろうとだだをこね、運転手を困らせていた。途中、トイレ休憩を兼ねて寄ったサービスエリアでは物珍しい物がたくさん並んでいるからと目に入る物すべてを買おうとしていたので、俺と運転手とで必死になって止めた。まったく買わないで後にするのもさすがにかわいそうに思い、なにか一つだけと言ったら瞳を輝かせ、ソフトクリームを買ってはしゃいでいた。
車の中にはかなり長い間いたが、それを感じさせないほど楽しいものだった。
そして到着した別荘。
俺は一目で気に入った。
うっそうとした森の中に立つ、白亜の城といった風情。外壁は蔦が絡まっている部分もあり、白と緑のコントラストが美しい。鳥かごのような螺旋階段。
車から降りて惚けて見ていたら、喬哉に笑われた。
「いいだろ、ここ?」
「……ああ」
「来て良かっただろう?」
そう思ったので素直にうなずいたら、喬哉にまた、笑われた。
トランクから荷物を出そうとしたら、運転手から止められた。
「荷物はお部屋に運んでおきますから、喬哉さまと中を見てきてください」
と言われ、喬哉に手を引かれるまま、中へと誘われた。
外壁に沿って歩いていくとやがて曲がり角が見えてきて、曲がった途端、俺は驚き、歩みを止めた。
「すごいだろう?」
喬哉はいたずらが成功した子どもみたいな笑顔を浮かべ、俺を見ている。
「……ああ」
俺の目の前に広がった光景は、足を止めるには充分なものだった。角を曲がった途端に急にひらけ、地面は木々の葉の隙間から差し込む光を受けて輝いている。
「真珠の養殖に使われるアコヤガイを研磨してここに敷き詰めたらしい」
漆器などに用いられる
「螺鈿(らでん)」
という装飾技法の一つというのは知識の上ではあったが、初めて目にした。
「この別荘、すごい手が込んでいるから、見て回るだけでも面白いぞ」
光る道を通り抜け、中へと足を運んだ。
「ここは地下一階。不思議に思うかもしれないが、ここは地面の下なんだよ」
先ほどまで地面の上に立っていたはずなのに、建物の中に入ったら地下一階? 面白い造りの建物のようだ。
入ってすぐのここはエントランスホールのようだ。天井も壁も床もぬくもりのあるパイン材でできているようで、特徴のある木の目が間接照明に浮かび上がっている。その先を抜けると、広間になっていた。
「ここは厨房と大浴場がある。部屋にシャワーもあるけど、大きなお風呂でゆっくりしたければ、大浴場に行けばいい。いつでも入れるようにされている」
広間の先にある階段を喬哉は軽快に上っている。俺はその後をついていった。
「そして、ここが一階」
階段を上りきると、開放的な空間が広がっていた。上を見上げると吹き抜けになっていて、天井ははるか上にあるようだ。ここから見る限りでは、天井ではなく、空が見える。まさか屋根がないなんてことはないよな?
「食事はここで摂ることになる。部屋で食べたいようなら、教えてほしい。そちらに運ばせるから」
この空間で食事を摂ることができると聞き、俺はここで食べることを選択した。
今はここにはなにもなく、ただの空間になっているが、食事の時にはテーブルが用意されるのだろう。部屋の中心に行き、改めて上を見ると、中空に一本の棒がかかっていた。
「あれは?」
疑問に思い、指をさして喬哉の質問した。
「ああ、あれか。中空に架かる橋だよ」
「橋?」
「渡り廊下みたいなものかな? 見に行くか?」
見てみたかったので、俺はうなずいた。喬哉はこっちだよ! と走って階段に向かった。俺も柄になくはしゃいで追いかけた。
二階は部屋の周りを囲むような形で通路があるだけだった。吹き抜けの宙に架かるような渡り廊下の入口に立ってみた。
「渡ってみるか?」
「いいのか?」
「いいよ。なんのための橋だよ」
恐る恐る、足を踏み入れた。特に揺れることもなく、しっかりとした造りになっていた。ゆっくりと足を運び、真ん中に立つ。そっと下を覗くと、先ほどの一階の地面が見えた。昼食の用意をしている使用人たちが見えた。俺はそのまま抜け、反対側に出た。緊張していたようで、床の上に降り立ち、ほっとした。
「もうひとつ上が三階になる」
喬哉は部屋を囲むようにつけられた廊下を通って階段まで行き、上っていく。三階に上って上を見ると、ようやく天井がよく見えた。天井はドーム型になっていて、ガラス張りになっていた。全体像がようやく見え、この建物のモチーフが鳥かごだということはわかった。
「この建物を作ったヤツは、狂っていたんだな。一人娘を閉じ込めるためにこの鳥かごを造ったんだ」
閉じ込められていたという娘はどう思っていたのだろうか。
俺の境遇に似た娘に、興味を抱いた。