愛から始まる物語


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アザミが見た夢《思惑》




「別荘?」
「そう。夏休みに避暑と称して行くんだけど、睦貴も行かないか?」

 中間考査も終わり──俺が一位で喬哉が二位だった──、夏休み前の期末考査を控えたある日。喬哉は空知の別荘に来ないかと誘ってきた。

「行けないな」

 本音は行ってみたい気持ちが大きかったのだが、あの母が俺一人だけの外泊を許すとは思えなかった。高校生にもなってと思うのだが、それだけ俺にとっては母の束縛は大きかった。
 学校の行事に、林間学校や修学旅行という泊まりがけで行くものがあると知った時、母から少しの間でも離れられるのが分かり、心待ちにしていたし、期待もしていたのだ。母が知ったら妨害してくるのが容易に想像できたので、じいにも協力してもらって慎重に進めていたのにもかかわらず、なぜか直前になって知られ、毎回、行くことを取りやめにされた。
 小学生の時も中学生の時も泊まりがけの課外授業はすべて母の権力によって特別に除外されていた。母の要らないお世話の『特別待遇』は、普段から俺に対して不満を抱いている人たちにとって絶好の叩く材料だった。本人を目の前にして『これだから高屋は』と悪態をつかれた。苦い思い出がよみがえってくる。
 行けると期待をするから駄目になった時の失望が大きいのであって、最初から期待する出来事を作らなければいいのだ。
 喬哉に誘われて、もちろん、行ってみたいと思った。だけど行けないのは目に見えている。最初から断っておけば、お互いががっかりすることはない。

「むしろ、来い。おまえの家に、招待状はすでに送ってある。今日あたり、届くだろう」
「……はい?」

 なんだ、それ。

「夏休みに入ってすぐに迎えに行くから、用意しておけよ」

 俺に断りも質問もさせることなく、喬哉はそれだけ言うと、忙しそうにどこかへと行った。

 別荘?
 そういえば、高屋の家にも別荘がありそうなんだが、一度も行ったことも、話題に上ったこともなかったな。親父は意外にも倹約家だから、持っていない可能性が高い。
 なんとなく別荘という響きに心が弾み、そして喬哉が誘ってくれたこともうれしくなり、俺の心はしばらくの間、わくわくしていた。

 そして家に帰るなり、血相を変えた母が俺にしがみついてきた。

「む、睦貴! 空知とかいう恥知らずが、こんなものを」

 俺の名前が書かれた真っ白な封筒を振り回し、母は今にも泣き出さんといった表情で俺を見上げている。封筒はしわがかなり寄っていて母が握りしめていたのが分かり、心が冷えていく。それでもまだ、母のところでその封筒が『なかったもの』にされなかっただけましだと思えた。よほど動揺していたのがうかがい知れた。

「ああ、喬哉からの招待状だろう?」

 前もって知っていたということを知らせるために親しげに名前をあげた。

「駄目です! あなたがわたしから離れるなんて……!」

 予想通りのヒステリックな反応に、俺はため息が出た。
 どうやって落ち着かせようか頭を悩ませていたら、玄関に俺たち以外の人間がいることに気がついた。面倒だなと思っていたら……。

「栞、睦貴ももう、子どもじゃないんだ。一泊くらいならいいじゃないか」

 久しぶりに聞く声に、俺は驚いて顔を向ける。
 どうしてこの時間にこの人がいるのだろうか。目にして最初に思ったのはその疑問だった。
 そして次に、母のこの取り乱しようを見て、相当な惨事だったのが想像できた。だれも母を止めることができず、助けを求められて戻ってきたのだろう。俺に連絡を入れるよりも正しい判断だと思うし、俺では明らかに手に余っただろう。それに正直、そんな母の相手をしたくなかった。覚悟していたとはいえ、本当に助かった。

「大きくなったな、睦貴」

 まぶしそうに俺を見ている親父がいた。直接見るのは何年ぶりだろうか。昔と変わらない親父に、安堵を覚える。しかし、親父が近づいてくるにつれ、違和感を覚えた。なんだろうか。

「前に会ったのは中学校に入学した時か。ずいぶん大きくなったな」

 その言葉でようやく分かった。昔は見上げないといけなかったはずなのに、今は視線を下に向けないと顔が見られないのだ。そして前より白髪が増えたようだ。顔のしわも記憶の中にあるよりも増えているように思える。

「駄目よ。ダメ、だめっ」

 親父は子どものように駄々をこねる母の肩を取り、俺から引き剥がす。母から解放され、ほっとする。

「栞、睦貴はいつか、離れていくんだぞ。恋人のようにいつまでもべったり引っ付いていたら、睦貴も結婚できないじゃないか」

 結婚、という単語に母は大きく反応する。少し前に兄が結婚をしていたので、母にとっても記憶に新しい出来事であったようで、さらに乱れた。

「結婚……ですって? そんなもの、させないわ! 睦貴はわたしのものなのよ!」
「栞、子どもは親のものじゃない。いつまでも思い通りにできるものではないし、なるもんじゃない。自分の意のままに操っては駄目なんだ」

 親父のその言葉は、俺を凍りつかせた。
 抗ってもしがみついてくる母に、最近では諦めている部分もあった。強固に抵抗するより、快楽に流された方が楽なのだ。それが許されるのなら、その流れに身を任せるのもいいのかもしれない。
 ──そんなことを考えて、許されるはずのない関係なのにと嗤った。俺は本気で抵抗しようとしていなかった。

「空知といえば、スカイグループか。懇意にしておいて損はないところだ。睦貴、わしが許可を出すから、行ってくるといい」
「あなた!」

 母のヒステリックな声に俺は思わず、耳をふさぎたくなる。それを我慢して、親父を見た。

「遅くなったが、高校入学、おめでとう。トップで入学するなんて、わしも鼻が高いよ。これは、わしからの入学プレゼントだ。つまらないものですまないが」

 そう言って、目尻にたくさんのしわを作って親父は笑った。
 入学祝いって……なんだか信じられないくらい、たくさんもらった気がしたんだが。

「あの……」
「ああ、入学祝いというより、中間と期末考査トップのご褒美、かな?」

 そちらのほうがしっくり来たので、俺は頭を下げ、お礼を言った。今までもらってきたものの中で一番うれしいプレゼントだった。

「ありがとうございます」
「睦貴は相変わらず、固いな。秋孝くらい、もらって当たり前だくらいでいてもらわないと」

 兄の名前を聞き、心が騒ぐ。不安定な母がさらに暴れ始めるかもしれないと思うと、身構えてしまう。

「そんな悪魔の名前を出すなんて!」

 金切り声を上げなら髪を振り乱す予想以上の反応に、心が痛む。

「悪魔、ね」

 親父は苦笑を通り越し、苦虫をつぶしたような表情を浮かべる。
 俺の兄である秋孝は一回り上で、将来、親父の跡を継ぐことになっている。幼い頃よりいわゆる『帝王学』というヤツも学んできたようだし、兄が継ぐのが順当だ。

「実の子を捕まえて『悪魔』はさすがにないだろう」

 という親父のつぶやきに、俺は同意する。
 兄を必要以上に遠ざけ、俺に異常に執着する母は、病んでいる。どうして母が俺にこれほどまで固執するのか分からなかった幼い頃、そして自分に兄がいると知った時、なにも知らなかった俺は母に率直に質問した。
『どうしてお兄ちゃんと遊んだら駄目なの?』
 と。
 すると母は、今まで見たことがないほど顔を歪め、刺すような視線で俺をにらみつけてきた。若い頃から美しいと言われている母のその形相は、壮絶なほど恐ろしかった。
『あれは悪魔なのよ! 人間にあんな能力があるわけないわ! わたしは悪魔を産んでしまったのよ!』
 そう言って泣き始めた母は、美しかっただけに、醜さが際立った。
 それまでも母の言動には首をかしげることは多かったのだが、その一言がきっかけで、これはおかしいと気がついた。
 そうやって見ると母はいつでもどこか夢見心地で、たまに俺の名前を呼び間違った。それも、兄の『秋孝』という名前ではなく『喜貴(よしき)』という聞いたことのない名前で。
『喜貴、今日は良いお天気ね』
 長くてやわらかそうな髪をお下げにして、白いレースのブラウスに花柄の丈の長いスカートを穿き、まるで少女のような格好で俺を抱きしめる母。
 俺は睦貴であって喜貴ではないと心の中で叫びたいのだが、ぐっと耐える。喜貴ではないとあらがった時、首を絞められて死にかけたことを思い出す。髪を振り乱して目が血走った母を止めたのは、ほんの少し残っていた『理性』だった。それがなかったら、俺は今頃、この世に存在していなかった。恐ろしくなり、こういうときは母につきあって演技をするしかないと学んだ。
『そうだね……』
 窓の外は、あいにくの雨模様。どんよりと灰色の雲が重苦しく垂れ込め、俺の気持ちを代弁してくれていた。しかし、母の瞳には違う景色が見えているようだ。うっとりと窓の外を見て、
『今度、あの丘にハイキングに行きましょう。前に連れて行ってくれた、あの赤紫色の花が咲く丘に』
 となにも知らない無垢な乙女のような笑みを浮かべていた。母に合わせて、俺も笑みを浮かべるしかなかった。

 後から知ったことなのだが、兄は他人の『記憶』が見えるらしい。
 俺にもそんな能力はなく、親父にも母にもない。突然出現した能力のようだ。
 母は兄のその能力を知り、恐れおののいたという。
 だれにでも隠したい出来事というのはあると思うが、母の反応は異常すぎる。よほど後ろ暗いものを抱えているのだろう。
 俺は驚きはしたが、怖いとは思わなかった。知られて嫌な出来事というのはいくらでもあったが、そんなものは箱の中に入れて厳重に鍵をかけ、心の奥へと追いやって簡単に隠すことができたから、恐怖するほどのことではなかった。


「睦貴は気にせず、楽しんでくればいい。その間に栞の面倒はわしが見ているから」

 そう言って、腕の中でようやく落ち着いた母を愛おしそうに見つめ、親父は腕をほどいて静かに去っていった。
 もしかして、俺の存在が夫婦仲を冷えさせているのかもしれない。
 そんな思いが胸の中に沈んでいった。






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