モノトーン・フィクション03
* *
どこに入院しているのかは文緒があらかじめ、聞いておいてくれた。
敦貴と瑞貴はお出かけと聞いて、いつも以上にはしゃいでいる。咲絵は俺の緊張を感じ取り、不安そうにしがみついてきた。
ワゴン車に乗り、俺たちは病院へと向かった。運転は俺がしている。動き回れるように、後部座席はシートを倒してフラットにした。はしゃぐ双子に文緒は今から行く先の話をしている。
「今から、病院に行きます」
「びょ、病院!?」
病院嫌いな双子は、文緒の言葉に急にテンションが下がったようだ。バックミラー越しに見える二人の顔色は悪い。
「あなたたちのおばあちゃんがご病気で入院しているの。だから、今からお見舞い」
お見舞い? と双子は首をかしげている。
「ばあちゃんって、なっちゃん?」
「違うよ、敦貴。なっちゃんはさっき、おれたちのことを見送ってくれただろ」
「そうだった。あれ? なっちゃん、いつの間に病院に行ったの?」
文緒は苦笑している。
「今からお見舞いに行くおばあちゃんは、睦貴のお母さんよ」
「え? 睦貴にもきちんとおかーさんがいたのか?」
をい、なんだその言い草は。
「こーきじいちゃんが『あいつは木の股から産まれた』って言ってたよ?」
あんのくそじじい! なにを吹き込んでいるんだっ!
「……うん、なんだかその方がしっくりくるわね」
双子の言葉に、文緒は笑っている。咲絵もつられて笑う。
「あなたたち二人も、咲絵も、きちんと私のお腹の中で育って、産まれてきたでしょ? 私はなっちゃんから産まれてきたし、睦貴も今からお見舞いに行くおばあちゃんから産まれて来たのよ」
改めてそう言われると、激しく複雑な気分になる。
俺はなにも知らず、あいつの腹の中で十か月、過ごしていた。温かな子宮に包まれ、羊水の海にたゆたい、幸せが待っていると信じて、産まれ出でた。
産まれて来たとき、赤ん坊が泣くのはどうしてか。安全で幸せな母の腹から無理矢理出され、その場所が恋しくて泣くとも、これからの辛い人生を思って絶望して泣くとも言われるが、俺に関して言えば、そのどちらもだった。
腹の中の記憶はないが、たぶん俺は、あの頃が一番幸せだったのだろう。たとえ、あの女の腹の中であったとしても、そこは世界一安全で、安心できる場所だったはずだ。
どうしてあのまま、羊水の中で一生を過ごせないのか。丸くなってずっとまどろんでいたかったのに。そうすれば、あんなに苦痛に満ちた日々を送ることはなかった。
「そういえばこいつ、文緒のお腹の中でボクのこと、邪魔だって蹴ってきたんだ」
「それはこっちのセリフだ!」
敦貴と瑞貴は突然、とっくみあいのけんかを始めてしまった。
「もう、またやってるし……」
驚いたのは、二人がお腹の中の記憶を持っていることだ。
「それで……お腹があんなに変形するほど中で暴れていたのか?」
「そうだよ。寝ていたら、狭いって蹴ってくるんだぜ?」
咲絵がおもしろがって二人のけんかに混ざり、ワゴン車の後部座席はものすごく賑やかになった。予想していたことだが、ここまで賑やかになるとは思っていなかった。
「いい加減にしなさいっ!」
と怒鳴る文緒なんてなんとも思ってない三人は、さらに騒いでいる。文緒は止めるのをあきらめたようで、ため息をついて俺を見る。バックミラー越しに聞く。
「覚えてるって?」
「うん。最初はなにかを見て、それをお腹の中での記憶のように話しているのかと思ったんだけど、ほら、私が管理入院で睦貴が毎日来てくれていたことがあったじゃない?」
うざいくらいに病室に毎日通った! 覚えている。
「あそこで話をした内容を覚えていて」
「……は?」
いろんな話をした。なにか身のある話ではなく、たわいのない、今日の出来事を主に話をした。
「二人が生まれてくる前に、私のお腹に手を置いてさすってくれたじゃない」
覚えている。それまでは怖くて触れなかったんだけど、文緒が悲痛な表情で
「お腹を切る」
と言ったから。そうなる前に出てきてほしいと思い、願いを込めて撫でた。その時に文緒のお腹越しに手を蹴られた時の不思議な感触を、今でも覚えている。
「私、『お父さんも待ってるわよ』って二人に話しかけたんだけど、それをしっかり覚えていて、じゃあ、仕方がないから出るかって二人で相談したんだって」
ありえる。こいつらなら、それはありえる。
「あの子たち、意外に気を遣う、周りの空気をきちんと読めて先回りできると思うの」
俺は無言でうなずいた。
「だから、わざとはしゃいでるのか……こらっ!」
ライダーキック! と文緒の背中に蹴りを入れてきた瑞貴に高速で振り返り、その足を捕まえてシートの上に押し倒し、くすぐっている。
「ふっ、文緒、やめろよ、悪かった!」
「親を蹴るとは、お仕置きが必要ですっ!」
ああ、瑞貴がうらやましい。俺も文緒のお仕置きがほしい。
「睦貴っ!」
俺のヘンタイ思考に勘付いた文緒は、眉をひそめて俺の名を呼ぶ。鋭すぎだろ。
きっと、双子は油断するとどこかに沈んでいってしまいそうになる俺に気がついて、わざといつも以上にはしゃいでいる。あんなに不安そうな表情をしていた咲絵だって、笑顔を浮かべて兄たちのまねをしている。
本当に情けない親だ。子どもに救われるなんて。
また沈みそうになる自分を鼓舞して、俺はアクセルを踏み込んだ。
* *
病院に着き、文緒は受付を済ませてくれた。双子は急に神妙な表情をして、文緒にひっついている。咲絵は俺に抱っこをせがんできたので、今、俺の腕の中にいる。緊張していた俺は咲絵のぬくもりに救われた。指先は冷たくなっていて、感覚がない。
温かな雰囲気を出すために敷かれた茶色い幾何学模様の絨毯も、淡いピンク色の壁紙もその色とは裏腹に、俺の心を冷やしていく。空気は白く感じ、足取りは重くなる。
「大丈夫?」
よほどひどい顔をしていたのか、文緒は下から俺を見上げている。眉尻は下がり、なにか言いたそうだ。
ベッドの上で起きているのか寝ているのか分からない状態だと聞いてはいるが、それでも突然襲ってくるかもしれないと思うと、気が進まない。
「ほら、アルカイク・スマイル!」
文緒は俺の頬をつまみ上げ、口角を無理矢理あげてくる。突然の出来事に、足を止める。
「昨日、あそこに行って見てきたんでしょ?」
気がつかれないように出たのに、なんで知ってるんだ?
「睦貴のことはなんだって知ってるの」
と文緒は笑っているが、兄貴に話を聞いたのだろう。なにげに文緒は兄貴と仲がいいんだよな。それか、俺が部屋を出て行った気配を察して、行き先を推理したのかどちらかだ。
油断すると止まりそうになる俺の背中を文緒は常に押してくれる。ヘタレで申し訳ない。
病室につき、往生際の悪い俺は表札を確認してそこが間違いないのを何度も見ていた。扉に手をかけることを躊躇している俺を無視して、文緒は扉を引いて開ける。思ったよりも大きな音を立てて開いたそれ。視界の先には通路があり、奥にベッドが置かれていた。ここからだと足下しか見えず、見たことのない機械とチューブがあった。
「ほら、入って」
文緒に促され、俺は仕方がなく中に入る。子どもたちもさすがに周りの雰囲気に飲まれているようで、無口だ。咲絵は俺にしがみついてきた。それでようやく、しっかりしないといけないと自覚した。
こわばる足を必死に動かし、ベッドへと近寄る。白いシーツの上に眠るその人は、ずいぶんと歳を取っていたが、間違いなく母だった。血の気のない蒼白な顔、髪の毛はきれいに櫛は通されていたが、ほとんどが白くなっている。顔はしわだらけで、小さく見える。最後に見たのは、いったい何年前だっただろうか。
俺たちの気配を感じたのか、ベッドの上のその人はゆっくりと瞳を開け、ぼんやりと周囲を窺っている。できるだけ視界に入らないようにしていたが、その瞳は素早く俺をとらえ、力のなかった瞳に急に熱がこもる。
「む……睦貴!」
喉の奥から絞り出された、俺の鼓膜に爪を立てるその嫌な声。
「やっと、来てくれたのね」
必死に手を伸ばそうとしてきたので、俺は一歩後ずさり、首を振った。ベッドの上のそいつはそれに気がつかず、かすれた耳障りな声を上げる。
「待っていたのよ。待ちくたびれたわ」
不快な声に今すぐにでも逃げ出したい。
「おばあちゃん?」
耳元で囁かれた甘い声に、必死に踏みとどまる。
「だれだい、この子たちは」
咲絵の声をとらえたらしく、怪訝な表情をして俺を見る。
「お義母さま、初めまして。佳山文緒と申しまして、睦貴の妻です。この子たちは私たちの子で、ようやく、お義母さまにお披露目でき、うれしく思います」
文緒は俺の前に立ち、にこやかな声で伝える。
「睦貴の……? おまえなど!」
起き上がって今にも殴りかかってきそうな勢いに、俺は焦って文緒を引っ張る。しかし。
「おばーちゃん、早くよくなって遊んでよ」
「ばーちゃん、しっかりご飯、食べてるか? 細いなぁ」
双子が割って入り、点滴の繋がったその腕を押さえつけるようにしてつかんでいる。ナイスだ、わが息子たち。
「ご病気の時は、ベッドに寝ておかないと、文緒に怒られるんだぜ」
「そうそう、文緒は怒ると怖いからな」
空気を読んで場を和ませる言葉を口にする双子に、妙に力んでいた場所から力が抜けた。
「……そうだな。母さん、早くよくなって」
それ以上、言葉にできずに文緒に咲絵を押しつけ、きびすを返して部屋を出ようとした。
「睦貴……ああ、睦貴。来てくれたのね」
先ほどまでのしゃがれた声ではなく、とても穏やかなトーンに変わった。俺は足を止めた。
「ごめんなさい、睦貴。あなたには……ひどいことをたくさんした。謝って許されることじゃないと思うけど、ごめんなさい」
謝罪の言葉に、俺の中でつっかえていたなにかがすとん、と落ちていく感覚がした。
「もう、いいんだ。俺を産んでくれて、ありがとう、母さん。……早くよくなれよ」
それだけ言うのがやっとで、俺は部屋を飛び出した。
どこをどう行ったのか分からない。気がついたらそこは病院の中庭で、俺は大きなクスノキを見上げて、泣いていた。
今日、ここに来るのは本当に躊躇した。できることなら、来たくなかった。兄貴に勇気をもらい、文緒と子どもたちに支えてもらった。しかしそこまでしても、本音は来たくなかった。
今まで、母のしてきたことはとてもではないが、許すことができない。俺を縛り、呪いをかけていたのだから。あの謝罪の言葉だけで許されるものではなかったが、それでも一生、聞くことはないと思っていた言葉を聞くことができた。母は今の今まで、ずっと覚めない夢の住人だったようだ。先ほどの表情は、夢から覚めた顔をしていた。
俺は流れ落ちる涙を袖口でぬぐい、クスノキの幹に手を当てる。この木もやがて、自然に還る。
古代から連綿と繰り返される自然の摂理なのに、どうしてこんなにも悲しくて切なくなるのだろうか。植物も、限りある自分たちの命の儚さを嘆くことがあるのだろうか。
文緒がこの世に生まれ、産声を上げた時。俺もようやく、この世に生を受けた。それまでの日々は、文緒が生まれてくるのをただ、待っていた。心臓は鼓動を打ち、その血を身体の隅々までいきわたらせておきながら、心は死んでいた。身体はただの『器』でしかなく、なにも感じなかった。ぬるま湯の羊水にたゆたっていた胎児だった頃を懐かしみ、二度と得られることのない安寧を夢見て、だけどそれは夢見るだけ無駄なのだと思い知り……それはいつしか、諦めとなり、文緒がこの世に誕生するまで、そうやって諦めていたことさえ忘れていた。
心が死んでいたことさえ、俺にはわからなかった。文緒の成長を見守っていて、どうしてという素朴な疑問を向けられる度、少しずつ心に血が通い、世界にはこれほど鮮やかでまぶしいほどの光に彩られていたことを知った。だから、文緒は俺のすべてで、ようやくがんじがらめになっていた呪縛の鎖を解くきっかけをつかむことができた。
「睦貴」
背後から文緒の声がする。俺は今まで泣いていたことを悟られたくなくて、着ていたシャツの袖口で目元をこすった。その動作があの双子が泣きそうで泣きたくないと強がっているときの行動と同じで、こんな何気ないところも無意識に似てしまうのかと遺伝子の不思議を知った。
「こんなところにいたんだ。突然いなくなったから、びっくりした」
「あ、うん……。ごめん」
油断したらまた涙が出そうだったけど、どうにか振り返って笑顔を向けることは成功したようだ。文緒は少し困ったような、それでいてほっとした笑顔を浮かべていた。
「子どもたちは?」
「アキさんが見てくれるっていうから、お願いしてきちゃった。あの三人より手間のかかる大きな子どもよね、ほんと」
その軽口が、今の俺にはありがたかった。
「お義母さん、ここのところずっと意識が半濁していたみたいなんだけど、睦貴が来てからはっきりしたみたいで、みんなが驚いていたよ」
母はもうそんなに駄目になっていたと知り、本当に今日、来てよかったと思った。
「俺……あの人のこと、今日、初めて母さんって呼んだ」
そう口にした途端、涙腺が決壊したかのように涙があふれてきた。あわてて涙をぬぐうのだが、自分の意思に反して、止まることなく流れ出る。文緒はそっと近寄ってきて、俺を抱きしめてくれた。文緒の肩口に顔をうずめると、文緒の甘い匂いに包まれて、落ち着いてきた。
「お義母さん、『あの子にも秋孝にも悪いことをした。だけど、最後には
「母」
にしてくれた』って。睦貴の子どもを見ることができて、思い残すことはもうないとも言ってた」
勝手だよね、と文緒は言ったが、初めてできた親孝行に俺はほっとした。
文緒はいつもとは逆で、俺の背中を優しく叩いてくれている。いつも泣いている文緒を慰めるときに同じことをして、これで落ち着くのかと思っていたが、実際されてみると、落ち着くことを知った。
どれだけそうやっていただろうか。ようやく涙が止まり、ゆっくりと顔を上げた。文緒の顔を見るのは照れる。いい年したおっさんがこんなに泣くのは、大変恥ずかしい。
「はい、タオル」
文緒はそのあたりがわかっているようで、俺に濡れたハンドタオルを少し視線をそらして渡してくれた。
「かなり待たしてしまったな。帰ろうか」
濡れタオルで顔を拭いたら、ずいぶんとすっきりとした。
ロビーに行くと、兄貴と智鶴さんがいて、眠っている三人をやさしい目で見ていた。
「待ちくたびれて、寝てしまったぞ」
苦笑している兄貴を見て、思った以上に時間が経っていることを知った。
「あの……、はい、スミマセン」
二人からすれば、この子たちは子どもよりも孫に感覚が近いのかもしれない。柊哉のところの子どもと双子の年齢は一歳差だから、やっぱり感覚的には孫、だよなぁ。
そう思うと、俺たちも年を取ったと実感する。
「ようやく、少しだけど……俺のことを見てくれたよ」
うれしそうな、それはまるで少年のような笑みを兄貴は浮かべていた。昨日、兄貴に勇気をもらい、文緒に支えられ、来てよかったと思った。そして、一人では生きていけないことを知った。じんわりと心が温かくなってくる。
俺たちは三人を抱きかかえ、車に戻り、お屋敷へと戻った。