モノトーン・フィクション02
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文緒と一緒にベッドに入ったものの、予想通り、眠れなかった。隣では穏やかな寝息が聞こえる。少し遠くに視線をやると、暗闇の中、三人が好きな格好をして布団の上で気持ちが良さそうに眠っている。それを見て、俺は心穏やかになる。
文緒を起こさないように気をつけて布団から抜け出し、青白い月の光の下、現実味がないような浮遊感を覚えながら、俺は宝物庫へと向かった。
久しぶりに訪れるそこは、変わらなかった。文緒がたまに来て掃除をしてくれているらしく、思ったよりきれいだ。電気をつけず月明かりだけを頼りにして、中を見て回る。明かりを取り入れるための天井近くの窓からは、月明かりをほんのりと届けてくれている。
ここにあるこれらもまた、生命の法則にとらわれている。俺たち人間なんかより遙かに長い寿命を持っているが、それでもやがて朽ち果てて、還っていく。
あの双子の仏像は、相変わらず顔面崩壊しているくせに幸せそうな笑みを浮かべていて、その変わらない様に安心した。
ここには何度、救いを求めにやってきただろうか。
最近では文緒と子どもたちのおかげで、双子の仏像には悪いが、思い出す回数がずいぶんと減っていた。
柊哉(とうや)と一緒にあの池に行ったときに救出した片腕だけの千手観音像も健在だった。
この空間は、救いを求めていたあの頃の俺の逃げ場所。だけど今は、自分の幸せを確認するための場所。そして今日は、責め続けてきた自分を許すための、場所。
母があんなに壊れてしまったのは、自分のせいだと責め続けた。母があんな行為を俺にするのは俺のせいだと、思っていた。嫌だといいながらも快楽にあらがえず、流されるままに受け入れ続けていた自分。そんな弱い自分をずっと嫌悪していた。
母と別れてようやく呪縛から解き放たれたというのに、俺は自らその縄に縛られたままでいた。固く結ばれたそれはなかなかほどくことができず、自分でどうにかするにも手段を持っていなかった。
軋む音がして、宝物庫内に月の光が差し込んできた。暗い中はわずかな明かりでも真昼の太陽のごとく明るく感じ、思わず目を細める。
「やはりここだったか」
声で兄貴だと分かったが、どうしているのか分からなかった。硬質な音がして、兄貴が中に入ってきた。また軋む音がして、扉が閉まる。
「さっき、あいつのところから戻った」
あいつ、と言うのがだれかすぐには分からなかった。
「あの様子だと、持って二・三日だ」
あいつ……ああ、俺たちを産んだあいつか。
薄情と言われるかもしれないが、あいつに一度だって母親らしいことをされた覚えのない俺たちにしてみれば、『母』なんて思ったことはない。
兄貴も俺も、家政婦というか乳母というか、今はベビーシッターと言うのか? 所謂、そういう人たちに育てられた。母はただ、俺たちを産んだだけだった。産むまでも大変なのは分かるが、だからって子育てを放棄していい理由にはならないと思う。
「幼い頃、一度でいいからあいつに褒められたいと思った。だから、なんでも頑張った。でも……一度も褒められたことなんてない。出来て当たり前。ましてや、人の記憶が見える能力を知ると、あいつは俺を化け物扱いして、遠ざけた」
兄貴の独白に、俺はなにも言えない。息を殺し、身動きもせず、ただじっと次の言葉を待った。
「あの頃、どうして俺は実の母から疎まれて遠ざけられたのか分からなかった。だけど少ししておまえが産まれ……理由が分かった」
かすれた兄貴の声に、俺は息が止まりそうになった。静まりかえった宝物庫内に響く足音。気がついたら目の前に兄貴が立っていた。
「おまえが産まれたと知ったとき、複雑な気分だった。弟ができた喜びはあったが、俺と同じ苦しみを味わうのではないか、それとも逆に、おまえは異常に愛されすぎて、ますます俺に対する愛情がなくなり、俺に対しては憎しみになるのではないか。ただ少しだけでよかったんだ。俺を見てくれ! と……それだけを願った」
兄貴は俺を見据え、その複雑な感情を宿した瞳を向けてくる。
「もうあいつの瞳はおまえしか見ていないのを思い知り、絶望した」
兄貴はまっとうにまっすぐに育っていたことをそれで知った。俺とは違って、そういう感情を一度でも持っていたというのは健全だし、親からの愛情を欲するのは当たり前なのだから。
「俺はおまえを憎んだ。俺が欲したものをおまえは一身に受けていた。ほしくても手に入らないものを当たり前のように持っているおまえ。普通に産まれてきて、普通に愛されて……」
違う、と否定したい。あれが普通の愛情だったわけがない。片時も俺のことを離さなかったあいつは、執着しすぎて異常だ。本来ならば幼稚園に行く年代になっても行くことはなく、小学校は義務教育だからと渋々行くことを許可され……。
「だけど、その向けられている愛情がいびつなことに気がついた」
たぶん兄貴は、母の愛情がほしくてずっと俺たちのことを見ていたのだろう。見ていればすぐに気がつくほどの異常。
「母に愛されていればうれしいはずなのに、いつもおまえは沈んだ表情をしていた。苦痛そうななにかに耐えているような顔を見て、どうしてなのか最初は分からなかった」
愛情を得ることは自由を犠牲にすることではないはずだ。俺は縛られ、許可を得なければ動けないなんて、異常だろう。
「極端なんだ。ゼロか許容量を遙かに超える愛情だったんだ」
過度に与えられる物は、それがなんであれ、ゆがみを生む。
「俺はなにもできないコドモだった。母の愛情がほしいと指をくわえ、おまえを助けることもできず、ただただ、見ていることしかできなかった」
俺は兄貴の言葉に、首を横に振った。抜け出そうとしなかった自分に責任があるのだ。駄目だと分かっていながらも、求められるままに実の母と──。
「だから、俺を頼って来てくれたときは、本当にうれしかった。総帥の座を巡った妨害工作はおまえ自身の意志だとばかり思っていたから」
まさか。俺は違う、と首を振って否定する。
「ああ、それはすぐに俺の勘違いだと分かった。だけど、本当におまえ自身がその座を欲するのなら、今だってすぐにでも譲る準備は」
「そんなもの、要らないっ」
思ったよりも強い否定の言葉になっていたことに自分でも驚いた。
「素質で言えばやっぱりおまえの方があるとは思うが、敦貴と瑞貴に期待するよ」
そう言って笑う兄貴に、胸が締め付けられる。
あの二人は、どう思っているのだろうか。産まれながらに押しつけられたこの役割を。押しつけられた、と思うのは俺の一方的な思いであってほしいと思う。
あの二人は、俺たちが驚くほど、聡い。子どもらしく振る舞っているが、俺の目には周りが思っている『子ども像』に合わせようとしているように見える。
「あの二人は、俺たちが思っているほど単純なヤツじゃないよ」
「ああ、そうだな。幼い頃のおまえにそっくりだよ」
あんなにひねくれたかわいくない性格だったか? ……言われてみれば、確かにあれは俺だ。
「見た目は佳山の血が濃いが、性格は驚くほど高屋なんだよな」
文緒、すまない。やっぱりヘンタイの血は濃かったようだ。
「男の子は母親に似ると幸せになるというから、よかったんじゃないかな。二人とも、黙っていたら女の子に見えることがあるし」
そうそう、そこなんだよ。口を開くとものすごい生意気なんだけど、黙って並んでいると、たまに性別が迷子のことがある。
「成長が楽しみだな」
と笑う兄貴に、そこだけは同意する。
「俺、明日……文緒と子どもたちを連れて、お見舞いに行こうと思っている」
ようやく、兄貴にそれを伝えることができた。兄貴はかなり驚いていたようで、言葉を失っている。
「会う勇気はないんだけど、文緒と子どもたちがいるから」
そういった俺を見て、兄貴は柔らかな笑みを浮かべている。
「最近、ようやく眉間のしわが取れてきたな」
眉間のしわ?
「いつも不安そうな、それでいて不機嫌そうに眉間にしわが寄ってるから、それで見た目を損していると思っていたんだ」
そう言われ、文緒も似たようなことを言っていたのを思い出した。
「あいつがおまえにやってきたことは未だに許せない。許してはいけないと思っている。だけどやっぱり、歳を取ったなと」
少し涙ぐんでいる兄貴を見て、胸がいっぱいになる。
「恨みしかないけど、一つだけ感謝できることがある」
そこで兄貴は区切り、大きく息を吸った。
「おまえを産んでくれたことだけは、感謝している」
俺は目を見開き、兄貴を見た。少し照れくさそうな表情をしている。その言葉に、会いに行くことを怖がっていた俺の心に勇気を与えられた。
「ありがとう」
突然の俺のお礼に、兄貴は怪訝な表情を向けてくる。
「今ので、勇気をもらえたよ」
笑顔を向けると、兄貴は俺の頭を抱えて、髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回してきた。ちょっと! 勘弁してっ!
「さて、戻ろうか」
さんざんに俺の頭をいじくり回して満足したのか、俺の頭を離すと歩き始めた。ぶっきらぼうな言い方は照れ隠しということが分かり、思わず笑う。
一回り離れている兄と弟だけど、もっと早くからこうして過ごしたかった。幼い頃はけんかをしても勝負にならなかっただろうけど、それもいい思い出になったはずなのだ。残念で仕方がないが、今さら、過去を悔やんだって仕方がない。
先を歩く兄貴を追いかけ、俺は宝物庫を出る。一度、あの双子の像に視線を向ける。変わらないあの顔面崩壊した笑顔を浮かべていて、胸が温かくなる。
敦貴と瑞貴を今度、ここに連れて来よう。俺はそう心に決め、宝物庫を出た。