愛から始まる物語


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モノトーン・フィクション01



──どうしていなくなっちゃったの?
 ウサギみたいな真っ赤な目をした文緒は、俺の袖を握りしめて聞いてきた。その手は震えていて、指先は冷たい。
──ウサギさん、いなくなっちゃったの。
 幼稚園で飼っていたウサギたち。文緒はその子たちに餌をあげるのが好きで、率先して世話をしていた。
 しかし。
 今日の朝、飼育小屋に行くと、昨日まで元気に飛び回っていたウサギたちは、一匹残らずいなくなっていた。
──どうしていなくなったと思う?
 文緒の考えを知りたくて、聞いてみた。
──わからない。
 分からない、か。俺はしゃがみこみ、文緒の視線に合わせる。
──ウサギさんだけではなくて、ニワトリさんもいなかったの。
  同じクラスのたっくんがネコに食べられたんだよってひどいことを言うの。違うよね、仲良しだよね。

 今日の朝、文緒を幼稚園に連れていった時にそんな話をしているのを耳にした。猫が飼育小屋の網を破って内部に侵入して……。
 俺は文緒に真実を話すかどうか悩み、こぼれる涙をぬぐう。嘘をつくのが優しいのか、真実を伝えてあげるのが優しさなのか。
 ウサギとニワトリは、旅立ったんだよ。そう伝えるのが、優しさなのか。ウサギはネコに殺されてしまったと真実を伝えるのが、優しさなのか。
 子ども向けにロマンチックに『ウサギは月に帰ったんだよ』ではなく。
──ウサギはネコに食べられちゃったんだ。
 俺の取った選択肢は、ありのままに真実を伝える、だった。
 みるみるうちに文緒の瞳には涙があふれる。分かっていた結果だった。優しい嘘をつくのが真の優しさなのか。嘘は甘く、真実は苦い。真実をつきつけることの残酷さ。嫌われたとしても、嘘つきと罵られるよりはきっとずっといい。
──嘘つきは、嫌いです。
 顔も名前も思い出せない女にそんな理由を告げられて振られたことを思い出した。
 どうでもいい人間に嘘つき呼ばわりされてもなんとも思わないが、大切な文緒に同じことを言われたらと思うと、心臓が凍り付く。それならば、今、文緒に泣かれても真実を告げた方がいい。文緒に泣かれるのも嫌だが、しかし、それ以上に文緒にだけは嘘つきと罵られたくない。嘘をついたことを知られ、それで嫌われるのはよしとしない。
 今ここで俺が嘘をついて、その後に文緒が真実を知ったら? 嘘をつかれた、ごまかされたと思わないだろうか。文緒にだけは常に真摯でありたい。
 泣き続ける文緒を抱きしめた。文緒は小さな身体を震わせて、俺にしがみついて声を殺して泣いている。ウサギがいなくなってもこれだけ泣くのだから、俺がもし、文緒の前からいなくなったら……同じように泣いてくれるのだろうか。
 文緒は俺の肩に顔をこすりつけ、涙をぬぐってから顔をあげた。
──むっちゃんはいきなりいなくなったりしないよね?
 俺の思考を読み取るようなタイミングのその質問に、面食らった。ようやく泣き止んだのに、文緒の目にはまた、涙の膜が張る。
──いなくならないよ。
 泣いてほしくなくて、反射的にそう答えていた。
──ほんと? ずっと側にいてくれる?
 その質問に、俺はすぐには答えられなかった。本音を言えば、文緒の側にずっといたかった。しかし、それはどう考えても不可能だろう。文緒は大きくなり、俺の知らないだれかに恋をして、その男と新たな家庭を作るのだ。
 俺ではない、だれかと。
 文緒は俺の『娘』なのだから、いつかは俺の手元から巣立っていく。
──文緒が側に置いてくれるのなら、ずっといるよ。
 大人のずるい返答だと思ったが、そう答えた。だけど文緒は満足したようで、
──むっちゃんはずっと、ふーちゃんの側にいてね。
 と満面の笑みを浮かべ、俺を見る。ようやく笑ってくれた文緒に、俺は安堵した。
 文緒は、モノクロの世界に色を与えてくれる、唯一の存在。文緒の笑顔が、世界を鮮やかにしてくれる。文緒の触れた物には、色が宿る。文緒を通して初めて世界は意味をなし、色を得る。
 文緒が俺を手放したとき、俺は──。
 その先の言葉を考えたくなくて、俺は文緒を抱きしめた。子ども特有の高い体温が、俺に生きている実感を与えてくれた。

     *     *

 人はどうして産まれてくるのだろう。
 人はなんのために生きているのか。
 生命はどうして脈々とそのDNAを残そうとしているのか。

 俺の中には常にその疑問が満ちていた。考えても出ない答え。
 俺はどうして、あの母からこの世に産まれてきたのだろうか。人は皆、産まれる場所を選ぶと言うが、選択を間違ったのではないかと自分に問いかける。しかし、その問いに対する答えも俺の中にはなく、途方に暮れる。

 ウサギの件は文緒にとって俺を『特別な人』と認識するきっかけになったのか、それ以降、文緒は俺の中でずっとくすぶっている似たような疑問を、様々な形で投げかけてきた。

──死んだらどうなるの?
──もう会えないの?
──また産まれてくるの?

 俺はその質問のどれ一つとして、満足に答えられなかった。俺もずっと疑問に思い、答えを探し続けていた。文緒と俺が満足する答えは、探しても見つからなかった。

 生物が命を失ったとき、入れ物である身体は力を失い、地面に横たわる。細胞たちはその活動をやめ、腐りゆく。どろどろに溶け、やがて大地と融合して──自然に還る。
 それはやがて、他の生き物に取り込まれ、それらもやがて命を終え、また還る。
 循環を続け、輪になり、命ある物すべてはそのサイクルから抜け出すことはない。
 その繰り返す行為にどういった意味があるのか。抜け出せない輪の中でちっぽけな俺たちは日々あがき、苦しんでいる。
──ふーちゃんはね、むっちゃんに逢うために産まれてきたの。
 恥ずかしそうにうつむき加減で文緒はそう口にして、真っ赤に染まった頬を隠すように俺に抱きついてきた。
──光の中で、むっちゃんが見えたの。悲しそうな顔をしていたから、泣かないでって。
 その言葉に、俺は産まれてきた意味を知った。ずっと疑問に思っていた答えをようやく一つ、つかむことができた。胸の奥から熱い物がこみ上げてくる。今まで知らなかった、灼熱の気持ち。
 それにあえて名前をつけるのなら、陳腐だけど『愛』しか思いつかない。恋しくて、無条件にいとおしいと思える気持ち。
 色のないこの世界に唯一、色を与えることができる文緒。今までの味気ない世界が、文緒を通すと極彩色に彩られる。文緒を前にすると、どうして生まれたきたのか、なんのために生きているのかなんて、どうでもよくなる。
 文緒の前でだけは、生きていると実感できる。これが『生きる』という意味なのかもしれない、と漠然と知った。
 文緒がこの世に生を受けた瞬間。俺も同時に、ようやく『産まれた』。
 それまでの十六年、俺は文緒が生まれてくるのをただ待つだけだった。色のない嘘の世界で、生きながら死んでいた日々。なにかを待ち続けているのはぼんやりと気がついていた。それがなにか分からず、いらだちを覚えることもあった。
 しかし、文緒に出逢って分かった。俺は文緒を『待っていた』。
 ようやく息吹を吹き込まれ、俺の世界は色を得た。ただそれは、文緒を介さないと分からないものだった。

     *     *


「昔、睦貴に色々な質問したのを思い出しちゃった」

 ようやく寝た咲絵(さえ)の顔を見つめながら、文緒はつぶやく。

「幼稚園のウサギがいなくなったとき、睦貴は他の大人たちとは違って、真実を教えてくれたでしょ。そのときはこの人はなんてひどいんだろうと思ったけど、後から、睦貴は私のことを考えてくれてるって思ったの」

 幼稚園のウサギがいなくなったのを知った咲絵は『どうして』と文緒に聞いたらしい。あの時と同じようにネコにやられたのを知った文緒は、俺がしたように咲絵に真実を伝えた。
 咲絵は泣きじゃくり、ひどいひどいと大泣きをした。俺が仕事から帰ってきたときは、泣きながら文緒の腕の中で眠りについたところだった。

「幼心に『この人はきちんと自分を見てくれている』と思ったの。大人は子どもの『どうして』の質問をめんどくさがって適当にごまかしたり嘘を言ったりしたけど、睦貴は違った。一緒になって考えて、悩んでくれた」

 文緒は頬を染め、視線をそらして小さな声で続けた。

「だから、そんな睦貴のこと、気がついたら好きになっていたの」

 文緒の告白に、俺も柄になく文緒の羞恥に巻き込まれて頬に熱を持つ。今の俺、間違いなく真っ赤な顔をしている。

「死んだらどうなるの、という質問には腐ってぐちゃぐちゃになるとか、もう会えないのという質問には、会えないねと冷たく言い放つし」

 ああ、そんなことを言った覚えがある。改めて言われると、ひどい解答だよなとは思う。だけど他に思いつかなくて……仕方がないじゃないか!

「もうちょっとなにか他に言い方あるじゃない、と思ったけど、あまりにもストレートな答えに、ものすごくおかしかったなぁ」

 そうそう、大きな目をさらに見開いて、次の瞬間、爆笑されたのを思い出したよ。

「蓮となっちゃんに同じ質問をしたら、なんて答えたと思う?」

 二人の解答は分かるような、分からないような……。だけど俺と一緒で、一生懸命考えて、答えたのだけは分かった。

「想像もつかないな」
「そう? あの二人ったら、顔を見合わせて、『死んだら、そこでおしまいだ』って。ちょっと冷たくない?」

 らしい解答に、俺は笑った。

「睦貴の答えもひどかったけど、二人のあまりの現実主義な考えに目が点になっちゃったわよ」

 そういって唇をとがらせる文緒を、俺は抱き寄せた。

「じゃあ、文緒はどう思っている? 死んだらどうなるのか」

 俺の質問に文緒はよくぞ聞いてくれました、と顔を輝かせ、

「私が死んだら、睦貴の背後霊になって、浮気をしないか見張るの!」

 ちょっと待て。どうして俺が浮気をする前提になっているんだ。

「……というのは冗談で。睦貴は淋しがり屋だから、私が死んでもずっと側にいてあげるから」

 その答えは、文緒が幼い日の俺の答えとは反対で……。不覚にも鼻の奥がツンとする。

「どう考えても俺の方が歳がかなり上だから、俺の方が先に死ぬだろう」

 軽く言ったのに、先ほどまで笑顔だったその表情はあっという間に曇り、瞳にみるみる涙をため、俺をにらみつける。

「なんでっ、そんなことを……!」

 文緒は思いっきり、俺の胸を叩く。

「なんで睦貴はっ。昔から、生きようとしていないの? どうして死ぬことばかり──考えているの?」

 文緒は何度も俺の胸を叩く。その痛みは『生きている』を実感させてくれる。

「そんなに俺、死にたがっている?」

 自分ではそういう自覚はなかった。

「最近ではそうでもないけど……。昔は何事にも期待してないような態度で、周りを醒めた目で見ていた」

 それは自覚がある。

「ふわふわとしている風船みたいで、糸が切れたら静かにその内の空気をはき出してしぼんでだれにも気がつかれないまま死んでいってしまいそうで……」

 文緒の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それはまるで手に入れることのできない至宝の宝石のようで、俺は目を奪われた。涙の粒は俺の手の甲に落ちて、はじけて消えた。

「不安で、私が睦貴から目を離したとたんにそうなってしまいそうで、怖くて目を離せなかった」

 もしかして、常に文緒に見張られていた?

「……睦貴、今、ものすごーく変なこと、考えていたでしょ?」

 下から窺うように見上げる文緒のその言葉は図星で、思わず硬直する。
 文緒にずっと見られていたなんて、なんだか興奮しないか? ……俺だけ?

「いっ、今はその、違うのか?」

 ごまかすために先ほどの話を持ち出してみた。

「うん、違うよ。すごく優しい顔をするようになった。前はほんと、苦しそうなしかめっ面ばかりしていたから、見ているとたまに辛かった。どうして睦貴は苦しそうなんだろう、私では駄目なのかなって。すごく悲しかった」

 たまに悲しそうな表情をしていたのは、俺のせいなのか?

「ねえ、睦貴。私、睦貴と逢えて、本当によかったと思ってるの。敦貴(あつき)と瑞貴(みずき)のことを考えたら、恨み言の一つや二つ、言いたくなることはあるけど、でも、それを相殺しても有り余るほどの幸せをたくさんもらってるの。だからね、睦貴」

 文緒のその言葉に、不覚にも涙がにじんできた。

「もう、自分を責めないで。睦貴は充分、自分を責めたよ。だけど、責めたって仕方がないじゃない。睦貴は悪くない。難しいとは思うけど、許してあげて」

 許す、というのは自分と──きっとあの母親のことだ。
 文緒の言葉はいつか言われた奈津美さんの言葉と重なっていて、胸を締め付ける。

「孝貴(こうき)さんから聞いたんだけど、お義母さん、もう……長くないって」

 孝貴、というのは俺と兄貴の実の父だ。
 突然聞かされた母の容態に、俺は動揺する。

「私まだ、あの人に子どもたちを見せてないの。孝貴さんに何度もお願いしたんだけど、ずっと悪かったみたい。私、あの人のこと、睦貴には許してと言ったけど、やっぱり許せない。でも、それとこれとは別で、きちんと孫を見せたいの」

 いつまでもあると思っていたものは無限ではなく有限で、その終わりはもう間近だというのだ。生命あるものは、いつか必ず終わりを告げる。当たり前の生命の法則なのだが、なぜか今の今まで、自分の両親にはそれが当てはまらないと思い込んでいた。

「……分かった、行こう」

 俺はすぐに親父に連絡をして、状況を詳しく聞く。電話の向こうの声は弱々しくて、あの母の寿命の終わりが近いことを思い知らされた。

「明日、子どもたちを連れて行くよ」

 それだけ告げると、俺は電話を切った。今日はなんだか、眠れそうになかった。





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