【番外編】ピリオドの向こう側03
* *
そして今、私は蓮からの説教を受けている。
「いじめられていた子を助けたのはいいが……その後はどうかと」
投げ飛ばしたのは本当に悪かったと反省はしているけど。
「むっちゃんの悪口を言われて、許せなかったんだもん」
「おまえは……昔から本当に睦貴のことになると見境がなくなるな」
蓮は大きなため息をつき、頭を抱えていた。
「睦貴の結婚が決まったら、当分、立ち直れそうにないな」
「……結婚?」
床の上に正座するように言われていた私は立ち上がり、蓮につかみかかった。
「ちょっと、どういうこと?」
「そのままだよ。睦貴も三十目前だし、しかも、近くにいるけど住む世界が違う」
「住む世界が違うって、どういうこと? だってずっと、側にいるじゃない。今までも、これからもずっと」
私の言葉に蓮は少しつらそうな表情をして、そして次には私の手をそっと取り、ソファに座らされた。
「文緒、もうおまえも中学生だ。まだ早いと思っていたけど、きちんと話しておきたいことがある」
思っていたよりまじめな表情をしていて、私は言葉を失った。
「睦貴はおまえが生まれた瞬間から隣にいた。だからそれが当たり前と思うかもしれないけど、本来なら、出会うことさえない間柄だということはわかっていてほしい」
蓮の言うことの意味がわからなくて、首を横に振った。
「元を正せば、秋孝と仕事をしたのがきっかけで、オレたちは高屋と辰己のいざこざに巻き込まれた。世間的に言えば、被害者だ。もちろん、オレたちは被害者だなんて思ってはいない」
前から不思議に思っていたのだ。普通はマンションか一軒家に住んでいるのに、佳山家はなぜか高屋のお屋敷の中にある。しかも、外に出るときは必ず誰かが付きそう。小学校に上がるまではこれが
「普通」
だったから疑問に思わなかったけど、他の子たちと比べるとなんだか変だということに気がついた。
「おまえは京佳とも仲がいいし、柊哉(とうや)と鈴菜(すずな)とも仲がいい」
柊哉と仲がいいかどうかはともかくとして、京佳と鈴菜とは仲がいい。
「実感はないだろうが、高屋と辰己というのは本当に仲が悪いらしく、……と言っても、もうそれも昔の話なんだが」
アキさんの秘書をやっている深町さんは辰己だったはずだ。だから仲が悪い、といわれてもまったく実感がない。
「深町の伯父一人が問題なんだ」
アキさんは私たちをその人から守るため、佳山家はここにいるという。それが守ることになるのかどうかはわからなかったけど、とりあえず、今の私たちは表面上はとても平和に暮らしている。
「こういうことがなければ、おまえは睦貴とは出会わなかった」
と言われたけど、やっぱり納得がいかなかった。
「ねえ、むっちゃんが結婚するって、本当なの?」
「ああ。結婚を前提としたおつきあいをしていると……こら、文緒、待て!」
むっちゃん本人から聞かないと納得できなかった。遅い時間だということはわかっていたけど、今すぐ、確かめずにはいられなかった。
「むっちゃん!」
むっちゃんの部屋をたたくと、すぐに中からむっちゃんが出てきた。私の顔を見て、ものすごく驚いている。
「ねえ、むっちゃん。結婚するって本当?」
単刀直入な私の言葉に面食らっていたけど、むっちゃんは無表情なまま
「本当だ」
と一言。
「明日も学校があるんだろう? 宿題はきちんとしたか?」
ショックを受けてなにも言えないでいる私のことなんかお構いなしに、むっちゃんはいつものように優しく手を繋ぎ、家まで送り届けてくれた。
* *
それから、自分がどうやって過ごしてきたのか覚えていない。毎日、学校に行って授業を受けてはいたけど、自分の中からなにかわからないものを通して見ていて、すべてが他人事に見える。楽しいだとか悲しいだとか辛いといった感情がまったく湧かなかった。
「文緒」
心配そうななっちゃんの表情。前だったらなっちゃんにそんな表情をさせたくなくてどうにか繕うことはできたのに、今はテレビの向こうの出来事を見ているようにしか感じない。
「そうよね、あなたの側にはずっと睦貴がいたんですもの。いなくなるとなったら」
そう言ってなっちゃんは私を抱きしめてくれた。肩の辺りがなっちゃんの涙で冷たい。だけど私は、泣けないでいる。
むっちゃんはずっと自分の側にいると信じていた。
生まれた瞬間から側にいたからそれが当たり前だと、いなくなるなんてこと、考えたことがなかった。
小さい頃にむっちゃんとした約束、子どもの戯れ言だと思われているのかもしれない。
「むっちゃんは……私のことが嫌いになったのかな」
そう口にしたら、今まで我慢していた気持ちがあふれてきて、止めることができなかった。
小さい頃だってこんなに泣いたことはなかった。だっていつも、むっちゃんが側にいて、慰めてくれたから。むっちゃんだけがいてくれたら、あとはなにも要らない。生きて行くにはそれだけでは駄目なのはわかっているけど、どうしても外せないものというのはあると思う。私にとってのそれは
「高屋睦貴」
という人。
むっちゃんがいない世界なんて自分の中では考えられなくて、どうしてもそこで思考が止まってしまう。
ご飯を食べて息をして心臓は動いているけど、心は死んでいた。身体は生きているけど、これって本当に『生きて』いることになるのだろうか。
むっちゃんは今までと変わらず私に接してくる。じいが送り迎えができないときは積極的にしてくれる。だけどもうすぐ、私の知らないだれかと結婚してしまうのかと思ったら、側にいるのがものすごく辛かった。側にいてほしいのに、だけど自分の物にならない人が近くにいるのは、心が張り裂けそうだった。
「今日はちょっと、遠回りして帰ろうか」
迎えに来てくれたむっちゃんがそう言ってきた。私はむっちゃんとずっと一緒にいたいと思ったけど、だけど隣にいることはそれだけ心に痛みを覚えるので行きたくなかった。
「……行きたくない」
私の拒否の言葉に、むっちゃんは傷ついたような表情をした。
「むっちゃんは結婚するんでしょ。私と一緒にいたら、また、エンコーしてるって言われるよ」
顔を見るのも辛くて、顔を背けた。
「文緒とエンコー? 文緒は俺の大切な『娘』だから」
むっちゃんの『娘』という言葉に胸がきりきりと痛む。
「私のこと、娘としか見てないの?」
それだけを聞くのさえ、胸の奥が痛む。思っていたよりかすれた声になっていた。
「ああ……『娘』だよ」
「そ……っか」
むっちゃんにとっては、私は『娘』だったのだ。
そうだよね、年齢差なんて十六もあるもん。私はこんなにもむっちゃんのことが好きで、いつもいるのが当たり前だから、好意を持ってくれていると思っていたのが間違いだったのだ。
女の子は十六になったら結婚できるし、そのときにできた子どもだと思えば……。
「むっちゃん、帰ろうよ」
一緒にいるのが辛くて、一刻も早く家に帰りたかった。むっちゃんがどこに連れて行ってくれるのかというのは気になったけど、早く一人になりたかった。
「じゃあ、明日、改めて」
「むっちゃん、もう送り迎え、いいよ。じいができないなら、お屋敷のだれかにしてもらうから。ありがとう」
むっちゃんが結婚したら、もうこうして甘えることはできない。私の知らないだれかと幸せになってもらわなくてはいけないのだ。
私ではない、私以外のだれかと。
そんなだれかを認めたくない。むっちゃんの隣にはずっと自分がいるんだと思っていた。
だけど、むっちゃんは私以外を選択した。
お屋敷に着いて、私は車から飛び出した。むっちゃんが私の名前を呼んでいたけど、泣いていることを知られたくなくて、そのまま玄関に飛び込んだら、じいとぶつかってしまった。
「文緒さま、お帰りなさいませ。……どうされました?」
じいはそう言って、私を玄関入ってすぐの部屋に入れてくれた。狭い部屋の中にベッドが置かれているだけ。どうやらここは、じいの部屋らしい。
「睦貴さまとけんかでもされましたか?」
「違う」
じいは私のためにタオルを用意してくれた。それに顔をうずめると、むっちゃんと同じにおいがして、余計に泣けた。
「むっちゃんのこと、大好きなの。たぶんだけど、生まれた瞬間から、むっちゃんに恋しているんだと思う」
笑われるかと思ったけど、じいは笑うどころか肯定してくれた。
「そうですね。このお屋敷に蓮さまと奈津美さまがいらっしゃったときから、睦貴さまと文緒さまは出会うことになっていたのだと思います」
そんな決まっていたかのような、運命みたいな言い方をされるとちょっと違うと思うけど、逢うべくして逢ったんだと思いたい。
「睦貴さまは自分の気持ちに素直ではない方ですから。手遅れにならないうちに気がつかれるとよいのですが」
言葉の意味がわからなかったから聞き返したけど、じいは微笑むだけだった。
「いずれ分かる日が来ると思いますよ」
今知りたいのに、いずれ分かると言われても。教えてほしかったのに、じいははぐらかすだけ。じいを相手にしたのが悪かったのか。
今日のところはあきらめることにした。
* *
この出来事の後、結婚話は白紙になったとなっちゃんと蓮から聞かされた。
「だけど、睦貴は高屋の人間なのだから、結婚は無理だと思っていて」
なっちゃんに強く言われ、胸が締め付けられる。
今回は向こうから最終的に断られたらしいけど、次は分からないと。
「あんな優柔不断でヘタレなヤツだけど、高屋という名前を背負っているだけで引く手あまただからな。それを抜きにしても、女受けはいいみたいだし。しかし、ほんとにあいつは煮え切らない」
蓮は不機嫌に、だけどどことなくうれしそうにそんなことを言っている。朝食に訪れるむっちゃんに対してもことあるごとにそのあたりを取り出していじめている。この結婚話が駄目になって一番喜んでいるのは、たぶん蓮だ。あまのじゃくだから、結婚したらこうして来てくれなくなることをきっと、淋しく思っているのだろう。
学校はあれから、木島くんをはじめとするノリちゃんをいじめていた男子がまとめて謝りにやってきた。むっちゃんが私の「保護者」であることが分かったらしい。私はむっちゃんが「保護者」というのは納得がいかなかったけど、彼らから謝罪の言葉を得ることができたから、いいとしよう。
投げ飛ばされて目が覚めた、弟子にしてください、とか馬鹿なことを言ってくる人もいたけど、冗談じゃない。
あの一件があってから、クラスの結束が強くなったような気がする。男女ともに仲がよく、とてもいいクラスだった。けがの功名、というヤツかな。
ノリちゃんとはあれからもっと仲良くなった。彼女は少し変わっていたけど、勉強はものすごくできたし、すごく優しい子。私のとってもくだらない悩みにも真剣に悩んでくれる。むっちゃんのことを話したら、少し困った表情をしていた。曰く、恋愛は苦手だと。
「ノリちゃんは好きな人、いないの?」
「……いたよ、昔」
ぼそりと少し低い声でつぶやいたノリちゃんを見ると、真っ赤だった。
「小学校の時、好きな先輩がいて、思い切って告白したら……『おまえみたいな男に告白されるなんて、終わってる』って。あたし、スカートはいていたのに」
どうやらそれがトラウマになって、スカートがはけなくなったらしい。しかし、ひどいことをいう先輩だ。
「でも、ノリちゃんのこの間の女子制服姿、かわいかったんだけどなぁ」
別にノリちゃんは性同一性障害という訳ではなくて、昔のショックでスカートがはけないというだけらしい。きちんと自分が女の子という自覚はあるという。
「うん、ありがとう」
そう言ってさらに真っ赤になっているノリちゃんはかわいくて、いい人に出会えればいいのに、と心から願った。