水空02
* *
柊哉が先に歩き、俺は仕方がなくその背中をついていく。
柊哉、いつの間にこんなに大きくなったんだろう。
ここの奥に行った時なんて、小学校に上がったばかりでまだまだチビッコだな、とからかっていたというのに。
兄貴の子どもだから甥っ子なんだけど、年齢差が十五あるし、生まれた時から見ているから、息子という気持ちの方が強い。
小さい頃から俺に対しては激しく反抗的で、本当に手に負えなくて困ることばかりだった。
だけど……こいつはこの四月から、高屋(たかや)柊哉から辰己(たつみ)柊哉になった。
予定では俺が仕事を教え込んで一人前になったら、だったのだが、辰己の家側の問題で養子縁組が早められたらしい。
辰己になったから、柊哉は今、辰己の家で寝起きしている。
仕事には辰己の家から通ってきている。
柊哉に向こうでの生活はどうだ、と聞いたら思っていたより快適だ、と答えが返ってきて、とても安堵したのを覚えている。
しかし、よくよく考えれば、この連休中、柊哉は本来ならば辰己のお屋敷で過ごすはずなんだろうけど、なぜか京佳を連れて、こちらにやってきていた。
親孝行……?
うーん、こいつはそんな殊勝なやつじゃないしなぁ。
なにかたくらんでいるのか?
「まさかおまえが京佳と二人でこっちに来るとは思わなかったよ」
なにか目的があるのかと腹を探るつもりでそう話かけると、柊哉は困ったように頭をかきむしった。
ん?
今回の帰省……なにか理由があるのか?
「子どもが産まれると、文緒もいろいろ大変だろうからと思って、顔を見に来たんだよ」
その一言に、柊哉がまだ文緒を諦めきれていないことを知り……うんざりする。
しつこすぎだよ、柊哉。
俺は呆れてなにも言い返せなかった。
「というのは建前」
「……は?」
柊哉の後ろをついて歩いていたら、いきなり目の前が開け、あの大きな池にたどり着いていた。
「四人で行った何年か後に……実は京佳と二人でここに来ようとしたんだ」
柊哉は背負っていたリュックを降ろし、俺に身体を向けて話し始めた。
「ここには一度たどり着いたら二度と来られない、と聞いていて……でも、あの時はあっさりたどりついたから信じられなくて、それを確かめる意味でも二人で来てみたんだ」
二度と来られないって面白いな。
だってここ、そんなに距離はないだろう?
「京佳と二人で記憶を頼りに探したんだけど、結局、来ることができなかった」
「でも今は……あっさり来ることができたじゃないか」
柊哉の言うことが信じられない。
こんなにあっさりとたどり着いたのに、来られないなんてありえないだろう?
「ああ、なぜか今はここに来ることができた、不思議とね」
柊哉はそう言うなり、いきなり服を脱ぎ始めた。
え? ちょっと? 俺、そういう趣味……さすがにないんだけど。
柊哉はおろおろし始めた俺を見て、くすくすと笑っている。
「おっさんがなにを考えているか、大体分かってるけど、オレもそういう趣味はないから」
「だったら、なんでいきなり」
着ていたシャツを脱いだ状態で柊哉は池を指さす。
「ここに来られたら、あの島まで渡ると決めてきたんだ」
柊哉はリュックを持ち、池へと向かって歩き、その縁に荷物を置き、パンツだけの姿になった。
「うー、暖かくなってきた、と言ってもさすがに寒いな」
柊哉はぶるりと震えながらも準備運動を始めていた。
俺はただ、ぽかんとしてそれを見ていた。
「おっさんもあそこにいかない? あの小島にたどり着けたら、願いがひとつだけ叶うらしいぞ」
願いが叶う?
俺が聞いたのと違うんだが。
「俺が聞いたのは、あそこにたどり着けたら幸せになれると」
「この池にたどり着けたら幸せになれるのであって、さらにあの小島に行けたら──願いが叶うんだよ」
今まで見たことがないほど楽しそうな表情をしている柊哉を見て、俺は激しく嫌な予感に囚われる。
柊哉……やっぱり文緒を諦めきれなくて──。
そんなこと、させない。
「じゃあ、オレだけ行ってくる」
そう言うなり、柊哉はゆっくりと身体に水をかけ、池に入っていく。
止めなくては。
文緒はだれにも渡さない──!
柊哉を追いかけてそのまま池に飛び込もうとして、さすがに躊躇した。
俺も柊哉を倣って服を脱ぎ捨て、体操は省略して、身体に水をかけ……うわっ、予想以上に冷たい!
相変わらずここの池は水底が見えるほど透明度が高くて、急に怖気づいてしまった。
視線を上げて柊哉を見ると、すでに池の半ばまで到達していて、小島まですぐの場所にいた。
止めなくては……!
足先からそろりと水の中に入り、柊哉を追いかける。
水深は、腰の辺りくらい。それほど深くはないようだ。
俺が足をすすめる度に水底は揺らめき、濁っていく。
あんなに透き通っていた池の水は俺が通ったことでどんどんと淀んでいく。
なんだか池を穢していくようなその行為に、妙な気持ちが湧きあがってくる。
自分の心の奥底に隠したどろどろの感情を吐き出し、相手になすりつけて汚していくような、昏い悦び。
自分の知らなかった暗澹とした気持ちと混ざり、身体と感情の境界があいまいになり……。
俺は気がついたら、池の中に沈んでいた。
底から水面を見上げると──。
あんなに穢したはずの水はあっという間に透き通り、空と太陽を映しだしていた。
ゆらゆらと揺れる水の上の世界は、俺が思っていたよりも幻想的で美しく、きらめいていた。
水の中から見える太陽はなぜか二つに見え、気がついたら重なって一つになっていた。
文緒のお腹の中にいるあの二人のことを思うとここのところずっと心が晴れなかったが、こんな透き通って透明な世界からあちらを見ても美しいということは、まだまだ捨てたもんじゃない、ということか。
生まれる前からあの子たちの将来を思って嘆くのは、失礼というものなのかな。
あの子たちの未来は、白ではなく色のない透明な未来が広がっている──。
俺は身体に力を入れて立ちあがり、水の中から俺たちの世界へと帰還した。
「おっさん、なにしてるんだよ!」
先に小島に上がっていた柊哉は水面から顔を出した俺に向かって声をかけてきた。
その声音に少し心配そうな色が見えて、少しうれしくなった。
「水底から空を見たら、きれいだったぞ」
なんとなく答えをはぐらかし、ざばざばと音を立てて小島へと向かい、這い上がる。
柊哉が手を貸してくれたから、思ったより簡単に上がることができた。
「あのさ……京佳がだれが好きか、知ってるか?」
髪の毛についた水滴を落とすために頭を振った途端、柊哉にそう聞かれ、満足に振らないまま間抜けな表情で柊哉を見てしまった。
文緒じゃなくて京佳?
「文緒は諦めるよ」
待て。
本当にまだ諦めてなかったのか?
その執念深さ……恐るべし。
「オレ、実はもともとは京佳が好きだったんだ」
……はい?
いろいろと思い出してみると……柊哉が京佳が好き、というのはあちこちに証拠が残っていた。
四人でここに来た時も確かに柊哉は京佳と手を繋いでいた。
それ以外にも文緒に嫌がられたから京佳に、という場面ばかり思いつくのだが。
あれ? もしかして……?
「京佳が好きって、いつから……?」
思わずそんな間抜けな質問をしてしまった。
「いつからって、昔からだよ」
柄になく真っ赤になっている柊哉に、追い打ちをかけるように思わず聞いてしまった。
「本当は京佳が好きなんだけど、京佳は辰己だから……素直に好きと言えなくて、文緒がおまえのことを好いていないのを利用して」
「はっきり言えばいいだろう、文緒はオレのことが嫌いって」
「え、いや……。嫌ってはないだろう、苦手に思っているだけで」
文緒は優しいが、本当に嫌いなら嫌いと言える強さを持っている。
昔は柊哉のことが嫌い、とは言っていたけど、本当に嫌いだったら口も聞かないはずだ。
もしかして文緒は、自分が柊哉に利用されているのを知っていて……?
「オレは文緒を利用していたよ、京佳と仲のいい文緒を」
高屋と辰己の家は昔から本当に仲が悪く、顔を合わせば殺し合いでもしそうだったとも聞く。
それが深町さんと兄貴の仲が良くて、どんどんそれは薄れて……兄貴と智鶴さんが結婚して、さらに真理が死んだことで仲が悪かったというのは過去のことになった。
「オレはずっと、高屋の家を継ぐものだと思っていた。本当は京佳が好きだったけど、京佳は辰己を継がなくてはならなくて……あんたみたいに高屋を捨てることも、京佳を手に入れることもできなくて」
高屋を捨てる──。
ああ、一度は捨てたと思っていた。
文緒と結婚して、佳山姓になったことで完全に縁が切れたと思っていた。
だけど……。
切れていなかったのだ。
「ところがさ、辰己ルールのせいでオレは高屋から辰己になり、そして文緒のお腹に中にいる子たちはオレの代わりに高屋になることになって」
そういった柊哉の視線は遠かった。
柊哉は一度うつむき、水面を睨みつけて俺に身体を向け、顔をあげてまっすぐ視線を向けてきた。
俺はその視線を素直に受け止めた。
「睦貴、今までいろいろありがとう」
柊哉に名前を初めて呼ばれ、さらにお礼まで言われて、面食らった。
目を見開き、柊哉の顔をまじまじと見つめてしまった。
「おっさん……そんなに見つめるなよ。恥ずかしいじゃないか」
柊哉は視線を逃し、もう一度水面を見つめている。
だってその……あの柊哉がお礼を言っているなんて。
信じられないんだけど。
「オレ、ここに来ることができたら言おうと思ったことがあったんだ」
柊哉は大きく息を吸い、両手を口の横に当て思いっきり声を張り上げる。
「京佳のことが好きなんだ! 京佳もオレのこと、好きでいてほしい!」
柊哉の声に応えるように、ざーっといきなり風が吹き抜けた。
濡れた身体が震えあがった。
「おっさんもほら、なにか願い事ひとつ言えよ」
柊哉は照れを隠すように俺の背中をばしん! と手のひらで叩いてきた。
痛いって!
俺は柊哉をにらみつけたが、楽しそうに笑ってお先に! と池の中に入り、陸地へと戻って行く。
願い事……か。
俺は少し考えて、つぶやく。
「子どもたちと文緒が幸せでありますように」
小島が願いを叶えてくれるなんて俺には信じられないけど、これくらいの願いなら、努力すれば叶うだろう。
俺は子どもと文緒が幸せなら幸せなのだから。
池の中にざぶんと飛びこみ、わざとざばざばと音を立てて泳いで柊哉を抜かす。
「おっさん、泳ぐなんて卑怯だ!」
そう叫ぶ声がして、後ろからものすごい勢いで泳いでくる気配がする。
負けらんねぇ!
俺と柊哉は争うように岸へと向かって泳いだ。
岸へはほぼ同時に着いた。
俺はもう一度水底に沈み、空を見上げた。
水の中から見る空は、うるんでいた。